土台と柱  2005/11

耐震データ偽造問題で、多数のマンション、ホテルなどが多額の費用を費やして完成しすでに使っているものもあるのに、壊して建て替えるなど多大の迷惑と莫大な費用が無駄になるという事態が生じている。
建築主の業者に、もっと鉄筋を減らせ、そうしないと他の設計事務所に変える、などと言われたから、それに従ってしまったという。
震度三程度でも、扇風機が倒れそうになるほど揺れたので不審に思った入居者もいたとのことである。
このような事件で考えさせられるのは、根本問題は、そうしたことにかかわっている人間に、しっかりした「鉄筋」が入ってなかったことにある。
人間も建物も同様で、やはり土台が弱かったり、鉄筋が十分に入っていなかったりすると、少しの揺れで倒れてしまうことになる。
人間にとっての堅固な土台とは何か、それは聖書において明確に述べられている。
それは神である。神こそは永遠の土台であり、不動の柱である。このことは、すでに聖書の詩にしばしば歌われている。

主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。
主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。(詩編十八編34732より)

このように、私たちにとっては意外なほどに、神とは岩なり、という言葉が多く使われている。キリスト者であっても、神とはどんなお方かというイメージを描いてもらえば、多くは愛の神、やさしい神、赦しの神、導きの神、といった姿を思い起こすのではないだろうか。
神は万能であり、すべてのよきものを持っておられる方であるゆえに、それもすべて真実な神の姿である。
しかし、この詩ではとくに「岩なる神」ということが強調されている。この世の支配や国々、金持ちなど、人間のなすことはみんな揺れ動き、そのうち衰え、消えていく。
しかし、荒野にそびえる岩山のごとく、いかなる雨風や苛酷な状況にも動かされず幾千年でも変ることなき不動の存在として神を実感していたのがわかる。

わたしは山に向かって目をあげる。
わが救いはどこから来るのか。
天地を創造された神より来る。(詩編一二一・12

山々、これは、この詩の作者が永遠の存在である神の本質に触れていたこと、この世の揺れ動く実態の背後に、確固不動の存在がおられることを深く知っていたことを示している。
この世界には何も「鉄筋」というべきものが入っていない、どちらにでも進んでいく、悪もはびこる、環境も汚される、戦争や混乱は多発する、どこにも脊椎骨のようなものはない、と思っている人が大多数ではないだろうか。
しかし、この詩の作者は、今から数千年も昔にすでにはっきりとこの世界の根本的な構造を見抜いていたのである。それはまさに啓示であって、神から直接に示されたものであった。それゆえにこそ、このように聖書としておびただしい人に読まれ、励ましを与え、光となってきたのである。
私たちも目に見える世界の激動やはかなさに心奪われそうになるときに、この詩の作者のように、岩のごとく動かない神、永遠にこの世界の柱となり、鉄筋となって存在し続ける神を仰ぎ、信頼して歩みたいと思う。


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