リストボタン祈りの家 2005/12

キリストは、柔和な愛のお方であるということは、全世界的に知られている。
しかし、ある時のキリストの言動は、そうしたイメージと大きく異なる。
それは、つぎのような記事である。

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。」(マタイ福音書二一・1213

主イエスは、自分が十字架刑に処せられることを知った上でエルサレムに入ったが、そこで出会った神殿での状況に直面したとき、このような激しい主イエスの言葉が出された。
なぜ、柔和なイエスがこのような激しい態度を表されたのか、私たちにはとても不思議なことに思える。新約聖書の主イエスの言動を記した内容を見ても、このようなことは他に見られない。
ここに主イエスが特別にこの問題を重視し、それゆえに異例の行動を示し、それによって周囲の人々にこの問題の重要性を刻みつけようとされたと考えられる。
しかし、これは、単に昔のイエスの時代の神殿についてだけ言われているのではない。とくに新約聖書における大部分の内容は、そのような、特殊な国のある時代にしかあてはまらないようなことでなく、誰にでも、またいつの時代にもあてはまることなのである。
「わたしの家」それは、ここでは神殿という特別な建物を指して言われている。それゆえに、そんなことは日本にいる自分たちには関係がない、と思い込む人が多い。
しかし、私たちそのものが、神の霊あるいはキリストがやどる神殿である、と言われているのである。

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿でありコリント一・19より)

このように、神を信じ、キリストを救い主として受け入れた者は、その人のうちに聖霊が住んで下さっている神殿となっていると言われている。しかし、その重要なことを気づかずにいる者が多いために、パウロは「あなた方は、知らないのか」と、この重要な事実に気づかせるようにとうながしている。

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。(コリント三・16

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(コリント六・16

こうしたことは、旧約聖書の時代には、考えられなかったことである。神は人間と無限に離れた聖なるお方であり、その御前に出ることすら、裁かれ、罪のゆえに殺されると信じられていたほどであった。
イザヤ書の著者として重要な、預言者イザヤは、神の言葉を告げるべき者としてとくに選ばれたとき、神の御姿を見る、という特別な経験が与えられた。それをイザヤは喜ぶどころか、大いに恐れた。
「ああ、私は滅ぼされる!罪深い者なのに、神を見た。」(イザヤ書六・5より)


このように、新約聖書のなかで、繰り返し強調されているように、私たち自身が神の霊がやどる「神殿」なのである。
使徒パウロは、自分のうちにはキリストが住んでいることを特に重要なこととして述べている。

生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられる。(ガラテヤ書二・20

その私たちの内なる神殿も、目を覚ましていなかったら、やはり祈りの家でなく、自分のもとに評判や金などを他者から集めようとする「強盗の巣」にすらなってしまう。
なぜ、主イエスは、両替人の机をひっくり返し、追いだすという特異なことをされたのだろうか。
それは、人間というものは、祈りが究極的な姿であり、信仰に関わる施設にはこのような祈りが中心に置かれていなければならないということを強く示すためであった。
祈りとは、神に向かう心であり、神からの賜物を受けることである。そして神から受けた力、愛、清さなどをまた周囲の人に分かとうとすることである。
御国がきますように、という祈りは、この双方を含んでいる。自分の魂のうちに、御国が来るとき力と平安が与えられ、神の愛が生れる。そして他者にも、周囲の社会にも御国がきますようにと祈ることは、まわりの人々についても最善を祈ることである。
こうした祈りがないところでは、キリスト者であっても、また何らかの宗教的施設であっても、その施設は宗教を利用して何かを集める、それは強い表現で言えば、主イエスが用いたように、盗みということになりかねない。
人間は神からよきものを受けて、それを分かとうとするか、もしくは、他者から自分へと集めよう(奪おう)とするか、の二つの方向のいずれであるかということなのである。
他者から評価されたいと願う心は、他者の評価を奪ってきたいという心である。
また、会社にしても、よいものを分かとうとすることが第一の目的でなく、いかにたくみに他者から収益を奪ってくるか、ということが第一の目標となりがちである。
学校時代に成績に一番の重きをおいて勉強に力を入れる、それも勉強で得た知識や技術を他者に分かつことが第一の目的でなく、やはりそれで安定した企業に就職して、多くの報酬を得たい、社会的な評価も受けたい、よい結婚をしたい、健康な生活をしたいというごくふつうの願いが第一にあるだろう。
こうしたごく自然だと思われる願いにおいても、その心の奥にはやはり、何かを無理にでも自分のところに集めたい、奪ってきたいという心がある。
 このように見てくると、この世の印刷物やテレビ、雑誌などがいかに「祈り」とは無縁の世界であるかが浮かび上がってくる。それは「奪おう」とする意図が随所に見え隠れする。スポーツにしても、人々の支持と金を集めようとするし、オリンピックなどのような大規模なスポーツの祭典においては、莫大な金が集められようとする。実際そこから不当な巨額な金が一部の人によって奪おうとされることがよくある。
アジアの貧しい国々に日本の会社が出て行ってそこで、日本の工場を建設し、安い賃金で長時間働かせて商品を作る、またそこで日本の商品を売る、そして彼らの苦労して稼いだ金を得る、それは法律的に何ら問題のない商行為であっても、やはりどこか彼らの労働力とか長時間にわたる労働時間などを奪ってくるという側面がある。
かつて、フィリピンやインドネシアで生い茂っていた森林を日本の企業が材木として大量に購入し、ラワン材が次々と切り倒されて消失していったり、フィリピンで緑の山々がはげ山になっていったという事実がある。
こうしたことも一種の奪っていく行為である。
戦争というのは、奪うという行為の最たるもので、人間の命、家、財産、領土までも次々と奪っていく。
こうした自分が生きていくために、奪っていく行為は、動物はみんな持っている。それが自然の行動なのである。肉食獣はより弱い動物の命を奪って生きる。しかしより弱い動物はそのかわり繁殖が容易で、食物も草食獣のように、より簡単に見出せるようになっている。
また、大きい魚は、小さな魚の命を奪って生きる、その代わり小さな魚は大量に幼魚が生れるようになっている。
このように、他者から何かを奪って生きていくということは、動物の世界ではごく自然な営みである。
そのような動物的な状況は前述したように、人間にも多く見られる。宗教という人間特有の領域においても、「奪う」ということがしばしば生じていく。
そこから主イエスは、全く異なるあり方を力を込めて指し示されたのが、はじめに引用した記事である。
祈り、それこそはこの奪い合うという、動物にも人間にも共通して見られる姿からの脱却の道である。その祈りにおいてどのようなことを第一に祈るべきか、それを主イエスご自身が示されたのが、「主の祈り」と言われるものである。そこには第一に、「御名があがめられますように」、次に、「御国がきますように」という祈りがある。
これは、まず人間が神を人間とは全く異なる存在とみなし、あがめること、奪い合う姿から解放されるためにはまず聖書で言われているような、唯一の神を信じ、あがめることである。
そして、そのような神の御支配がきますように、と願って、神の国を受けることである。
イエスが十字架で処刑されてからは、いなくなったのでなく、目に見えない存在、つまり聖霊となられたゆえに、御国が来ますようにという祈りは、聖霊が来てくださいますように、という祈りをも含むものとなった。
祈りが私たちの生活の中心にあるかどうか、ある組織や集り、教会などの中心にあるのかどうかが、いつも問われている。
新聞、雑誌などいろいろな出版物やテレビ、ラジオ、ビデオやDVD、あるいはインターネットなど、それらは、何かを奪おうとする精神なのか、それとも、祈りの心があって、よきものを与えようとの意図があるのかどうかに分かれる。
書物や雑誌などにおいても、多くのものが、内容のよくないもので満ちている。それは、そのように内容を引き下げることによって、売れ行きを増やそうとすることであり、そこには読者から収益を盗もうとするような精神を含んでいる。
しかし、それが「祈りの家」そのものであるような書物もある。それが聖書である。聖書は巻頭から、ずっと祈りが満ちている驚くべき書物である。この書物だけが、「神の霊によって書かれた」と言える書物であり、登場人物や、聖書を書いた人たちの祈りがほとんどどの頁を開いても感じられる。
また、神の直接の被造物である、自然の風物もまた、祈りで満ちている。身近な草花、野草の花々も、そこには祈りが花開いているかのようであり、大木などはまさに、いかなる風雨にもかかわらず、祈り続けているようである。
夜空の星、夕闇に驚くべき明るさで輝く金星の光も、その光に祈りが託されているように感じるし、朝早いときの赤く大きい太陽や、朝焼けの空なども深い祈りをそこに感じさせるものがある。
 私たちの日毎の人間関係においても、相手から何かを奪おうとするか、あるいは祈りをもって関わろうとするかである。相手から愛や慰め、あるいは感謝やお返しを受けようとする心で関わっているか、それとも、祈りをもって、相手に良きものが神から与えられるように、と願い、祈りによって相手との関わりのなかに神が共にいて下さることを願っているか、である。
私たちの心が、「祈りの家」となるとき、それは主のみこころにかなうことであるゆえに、そこには不思議な祝福が注がれ、神がそのような祈りを聞き届けて下さるようになる。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。区切り線