休むことの聖書的な意味 2006/1
休みはいかにあるべきか、このようなことはあまり問題とならないだろう。それは週に何日休みがあるか、昼休みが何時間あるか、といったことはよく話題になっても、休みそのものがいかにあるべきなのか、そのようなことはたいてい話題にもならない。
とにかく仕事がないこと、休みがあればよいのであって、その休みがどんな内容であるべきなのか、それは個人的な問題だから、せいぜいじっとしていないで散歩するとか、趣味に打ち込むとか、ボランティアをやるのがいい、といったことである。
こうした一般のマスコミや人々の考えることと根本的に異なることが、聖書では書かれている。
そしてその聖書のとらえ方こそが、世界中へと広がって現在の日本のようなキリスト者が一%程度しかいないような国でも、そうした考え方が基本となっているのである。
それは聖書の最初からその問題は天地創造という最大の宇宙全体に関することと、結びつけて記されているのであって、休みということが人間がふつうに考えるような、単なる仕事をしないでのんびりする時、といったとらえ方ではない。
その最初の記述を見てみよう。
天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記
二・1~3)
第七の日に創造の仕事を完成したから、その仕事を離れて休んだ。それだけでなく、その日を祝福し、聖別されたという。仕事を離れて休むといえば、ふつうはのんびりと娯楽、飲食、会話などに時間を使うことである。
しかし、神はその第七日を単に休んだというのでなく、「完成された」という表現になっている。創造のわざは六日であったのだから、ふつうなら、六日で創造のわざが完成された、と表現するであろうが、創世記の記述はそうでなく、「七日に完成した」というのである。
休んだ、とあるのにその日がなぜ、完成したことに結びつけられているのか。それは、この第七日に込められた祝福と聖別があってはじめて完成するからである。
これは、この第七日の安息ということが、以後、世界の歴史の中でも極めて重要になることを早くも暗示していると言えよう。
人間を祝福するというのは、わかりやすいが、特定の日を祝福するというのは、考えにくい。日とは時間であり、どの時間も同じように流れていくからである。
このようなことは、たしかに人間が考えたものでなく、神からの特別な啓示であった。それゆえに、この特定の日を休むという考え方が、今日ではキリスト教やイスラム教(*)にも深く入って、ユダヤ教と合わせるなら全世界において、一週間に一度休む、そして礼拝の日とするという習慣が定着するようになったのである。
(*)イスラム教では、ムハンマド(マホメット)が迫害されたメッカを脱出したことは、イスラム史上もっとも意義深いでき事であり、この日をもって、イスラーム教の成功と拡大への出発を画したものとされている。それが金曜日であったので、それを記念して休みとしている。
ユダヤ教においては安息日(*)は現在の私たちの暦でいう土曜日であった。その日に祝福を置かれたが、キリストが日曜日に復活されてから、この週に一度の安息日は日曜日に移されて以後日曜日がキリスト教の安息日となっている。
(*)安息日の読み方は、新共同訳では、「あんそくび」としているが、口語訳、塚本訳、それから最近新しい訳となった新改訳、やはり最近出版された新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店刊)などでは「あんそくにち」、カトリックのバルバロ訳や、フランシスコ会訳では、「あんそくじつ」と読ませている。そのために広辞苑では、「あんそくにち」という読みを主としつつ、ほかの二つの読み方も入れている。
神が創世記に記されているように、第七日をとくに祝福し、聖別したというその祝福が、ユダヤ教からキリスト教に広がってその意義が発展した。さらにはその余波がイスラム教にまで広がったということになり、その歴史的な意義は極めて大きいということになる。
このように、聖書に書いてあることは単なる古代の記録でなく、それが数千年を経てもなおその影響が脈々として生きて働き、歴史の上で、社会的にも政治的にも大きな力をもってきたのである。
聖書は他の昔の小説や古代の神話とはそういう点で根本的に異なっている。
安息日において、祝福し、聖別したとはどういう意味なのであろうか。それは、一言で言えば、神と結びつけたということであり、あらゆるよきものの源泉である神との結びつきがあるゆえに、そこに特別なよきことが生じるようにした、ということになる。
多くの人は聖書というのは単に心の問題、神という何だか分からないものについて書いてあるのだから自分はそんなものは信じないし、民族的に固有の宗教があるからそれでよい、と思っている人が多い。だからこそ、聖書を真剣に読む人は日本ではごく少ないのである。
しかし、週に一度休むという安息日の考え方がなかったら、社会的にも全く異なる状況になっていただろう。権力や金を持つ者たちが、弱い立場の労働者たちを圧迫して過重な労働をさせることが長く続いていたであろう。
徳川幕府の要求は、農民に対しては、「生かさぬように、殺さぬように」と言われたほどに、情け容赦のないものであったから、一週間に一度休ませる法律を作るなど考えられないことであった。
日本で、日曜日が休日(安息日)という欧米キリスト教国の習慣が取り入れられて実施されたのは一八七六年であり、今から一三〇年ほど昔である。これは、明治時代にはいって、一〇年も経たない時であり、キリスト教禁止令を廃止してからわずか数年しか経っていない。
キリスト教をようやく邪教扱いすることを止めたのが一八七三年、それからわずか数年で、キリスト教の復活と旧約聖書の基本的な戒めに現れる安息日という重要な内容にかかわっている日曜日を官公庁や学校で休みとすることは、本来なら到底できないことであっただろう。それは、明治政府の誤りを公然と認めることであったからである。
明治政府がそのように早い段階でキリスト教の重要な制度を取り入れなければならなかったということは、それだけキリスト教の真理を証明するものだということになるからである。
安息日の祝福ということは、このように、三百年もの長い年月をキリスト教に対して苛酷な迫害を続けてきた国家をすら、その制度を取り入れざるを得ないようにするほどの力を持っていたということになる。
日本に歴史はじまって以来、初めて一般の人たちの仕事をも週に一度休ませるという、大きな改革の扉が開かれたのであり、それをいわばこじ開けたのが、安息日の制度であったと言えるし、それほど、この安息日の祝福の力ははるかな遠い国へと及んでいったのである。
これも安息日に神が祝福を置いたということの、歴史における現れの一つなのである。
これが特別な祝福を内に持っていたゆえに、次に示すように、後にユダヤ人の最大の出来事といえる、エジプトからの脱出と深い関係を持つようになった。これは、まさに滅ぼされようとしていたところから一方的な神の力によって救い出された出来事であった。
…安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。
そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。(申命記五・12~15より)
このように、創世記で言われているように神が七日目に創造のわざを休んだということから、一般の人々だけでなく、奴隷たちや家畜までも休ませよ、と命じられている。このように、安息日の戒めとは、単に仕事をしてはならない、という命令でなく、神の深い愛の現れなのであった。
安息日を守ることがそのように、社会的にも愛を行なうことにつながる。そこにも安息日の祝福がある。
この安息日のことが、はっきりとした戒めとして記されているのは、モーセがエジプトから民を導き出す途中で、シナイ山にて直接に神から啓示された十戒においてである。
十戒のことは、映画で広く知られているが、その深い内容は映画ではとてもわからない。
そこには、つぎのように記されている。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記二十・8~11)
ここにあるように、単に仕事をしてはならない、というのでなく、奴隷も、家畜や一時的にとどまっている外国人をも含んでいて、社会的な愛が実践されるようにという戒めとなっている。
そしてそれだけでなく、安息日を守ることは、神が天地を創造されたお方であり、万物をご支配なさっているということをたえず思い起こす、そこに信頼と信頼からくる感謝をも呼び覚まされるようにという神のお心が背後に感じられる。
私たちが苦難のとき、また平常の生活のときでも、常に思い起こすべきは、この世界は偶然でも得体の知れない運命が支配しているのでもなく、あるいは、大国の支配者や武力、経済力などが支配しているのでなく、背後ではすべてを神が支配しているのであること、これは信仰者の基本的なあり方である。
このことは、つぎのように古く、アブラハムの時から天地の神を思って祈る形が記されている。
…アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。…」(創世記十四・22より)
また、旧約聖書の詩編は祈りの集大成のようなものと言えるが、そこにも、天地創造の神を見つめて祈る姿が見られる。
いかに幸いなことか…
主なるその神を待ち望む人
天地を造り
海とその中にあるすべてのものを造られた神を。(詩編一四六・5~6)
安息日を守るということは単に休みをとることにとどまるものでなく、ここにあげたアブラハムや詩の作者たちの思いのように、天地創造の神を思い起こし、全世界、宇宙が愛の神の御手によることを深く思い、現在の世界のために祈り、また神が必ず最善にされるということへの確信を新たにする時なのである。
そしてさらに、仕事を休むということとは本来は全く別の事柄、エジプトで奴隷状態になって滅ぼされようとしていたところからの解放された記念のために、という新たな意味づけが加えられた。
もしエジプトからの脱出と解放がなかったら、イスラエルの民族は消滅していたのであって、彼らの今日あるは、その時の神の一方的な助けによる。
そのことを歴史を通じてずっと思い続け、感謝し続け、神の新たな力をいつも思い起こすために、それが本来は全く関係のなかった安息日と結びつけられることになった。そうして出エジプトという重要なことが民族全体の最大の出来事、神の愛の歴史的な証拠として刻印されることになったのである。
さらに、イスラエルの人たちの歴史において、とりわけ重要な出来事の一つであったのは、紀元前五八七年~五三八年のバビロン捕囚であるが、その国家的、民族的な大きな苦難の時においても、この安息日の祝福が生きて働くことになった。
バビロン捕囚とは、新バビロニア帝国によってユダ王国が滅ぼされ、民の主だった人々が遠いバビロン(現在のイラク地方)へと捕囚として連れて行かれた出来事である。その時、神殿というそれまでの信仰生活の中心を失った、捕囚の民たちは、そこで意気消沈して信仰を失ったのでなく、新たに会堂を建て、そこで安息日に集り、聖書を読み、ともに礼拝するという方向に導かれた。
そうすることによって民族としてのつながりが保たれ、人々は信仰を失うことなく、異邦の土地で五〇年にわたる捕囚生活を送ることができたのであった。それだけでなく、現在のかたちの旧約聖書へと編集がすすんだのは、このバビロン捕囚の時であった。
このようにふつうならはるかな遠い外国に捕虜として連れていかれ、そこで五〇年も経てばたいてい混血もして、土着の民と一緒になって民族としては消滅してしまったであろうが、安息日に会堂に集り、聖書をともに読み、礼拝するということが、その民族の結束を守り、崩壊から守ったのであった。
このことを見ても、いかに安息日を守るということが重要であったかがわかる。
ここにも、創世記で言われている、「安息日を祝福し、聖別された」ということが具体的に歴史のなかでその意味が明らかになっている。捕囚となっても、新たに聖書の編集が行なわれ、会堂をもとにした礼拝の形が確立されるというよきものが生み出されたからである。
神の祝福を受けるというのは、いかなる状況になってもそのただ中から驚くべきよきものが生じることなのである。
神がして下さった大いなるわざをつねに感謝をもって思い起こすことこそ、新たな力の源になる。逆にそうしたことを忘れてしまうことからは何もよいことは生じない。受ける値打ちがないにもかかわらず、一方的によきものを下さったという意識は、つねに新たな喜びとなり、力となる。
それこそ、祝福と言えよう。
私たちにおいても、自分が過去に置かれていた特別に苦しい状況から救い出されたということ、そのことを新鮮な心で思い起こすことによって新たな感謝となり、神への新しい思いが生れる。
安息日を聖別した、とあるが、このように過去の特に重要なことを思い起こし、新たな感謝を捧げる日とすることは、聖別するということにふさわしい内容になる。
安息日は元は、土曜日であったが、キリスト教の時代になって、キリストの復活が日曜日に起こったことから、日曜日に移された。それによって、「聖別」されたということが格段にその意味が深められることになった。それは、キリストの復活を単に思いだす、ということでなく、キリストの復活のいのちを新たに受ける日、新たにされる日となったのである。
たしかに、キリスト教になって、キリスト教の最大の出来事といえる復活がなされ、それゆえにその復活を記念するためにそれまでのユダヤ教の土曜日の安息日が日曜日に移されて、日曜日には、旧約聖書の安息日の精神とキリストの復活を記念し、罪赦された者が、復活の力を受けるという最大の祝福がさらに加わることになった。
しかし、次第に、安息日の制度は、本来の深い意味から大きくそれて、病人が苦しんでいてもいやすこと、荷物を運ぶこと、食事の準備のための火を起こすことなども禁じられ、
歩く距離を制限して一km程度としたり、さまざまのことが禁止されるに至った。
どんなよい決まりであっても、それがいのちを失い外見上のことだけを重んじるようになってしまうとかえって多くの害をなすようになる。そして形式化にとどまらずさらに別の外見上のこと、表面上のことがますます加わるようになっていくと、本来の真理が失われていくということもしばしば見られる。これは、宗教においても教育や、伝統的な習慣などにおいても同様である。
仏教における形式化
例えば、だれにでも身近な仏教について見てみよう。
仏教においては死者儀礼(葬式、法事、死後の供養など)が重んじられているのは、私たちの周辺で常に見聞きすることができる。
しかしこうしたことは、本来の仏教ではないことは、次のように、すぐれた仏教学者が明確に指摘している通りである。
現在の日本では彼岸というのは仏教の重要な行事が行なわれる期間であるが、これも、本来の仏教にはなくて、日本で平安朝のころから発達して次第に年中行事化していった。
春秋二回の彼岸は仏教の生れたインドにも中国にもたしかな先例がない。わが国では、平安朝のころから始まったらしい。…(「日本の仏教」渡辺照宏著 114頁 岩波書店。著者はインド哲学者、仏教学者、東洋大学教授であった。)
今では、人が死ぬと戒名がつくが、戒名は仏教の信仰に入ったしるしとして付けるのが中国や日本の風習であった。しかし江戸時代になると、死んで初めて特別な名を付けることが一般に行なわれた。キリシタン改めの関係上、死ねば必ず仏教の儀礼を用いるということになり、その習慣が現在まで続いている。
…位牌も鎌倉時代から行なわれたが、やはりキリシタン改めの影響で普及されるようになった。位牌を置く場所としての仏壇が一般家庭に設けられるようになったのも、江戸時代のことであった。ただし、浄土真宗の信者においては、仏壇は阿弥陀仏をまつるところとしての本来の意味を忘れなかった。(同上116頁)
シャカムニ(釈迦牟尼)(*)の教団において、死者儀礼が僧侶の仕事ではなかったことは、言うまでもない。それは世襲のバラモン(**)の仕事であった。…
死者儀礼が形式化したことによって、生死に対する真剣な追求までが見失われてしまった。もし、仏教が将来生きる道があるとすれば、形式だけで事足れりとする葬式屋根性を捨てて、生死について自らも確信を持ち、他にも示すことができるような方向に進む他はあるまい。
(同上 120頁 )
インドの仏教教団は簡易な生活様式を尊び、僧侶の衣は柿色の一色で、所持品も生活上必要な最小限度にとどめられていた。…しかし、中国から日本に来た仏教では、色とりどりの衣の上に、金襴の袈裟をかけることさえした。インドの僧侶は金銀を身につけることは絶対に許されない。…寺は、僧侶の修行の道場としてよりも、見物人に興行を行なう場所とさえなった。(75頁)
(*)仏教の開祖で、姓は、ゴータマ、名は、シッダルタ。「牟尼」は聖者の意。その生没年代は、前五六六~四八六年、前四六三~三八三年など諸説がある。シャーキヤ‐ムニ。釈尊とも言う。
(**)インドの僧侶をいう。
このように、彼岸の行事や、葬式、法事、戒名、仏壇、位牌などといった最も仏教と関連が深いと思われているものも、実は、本来の仏教にはなかったものだと仏教学者が強く批判しているのである。
そしてそのような形式化を押し進めることになったのは、徳川幕府がキリシタン迫害のために、すべての人をどこかの寺に所属させるという方策を取ったことであった。国民がみんなどこかの寺に所属することになり、昔のことであるから、病気や死産などしばしば葬式が生じる、そのたびに謝礼が寺に何ら努力なしに入ってくるという状況になってしまった。それは仏教が渡辺照宏氏の表現によれば、「葬式屋根性」に陥り、形式化へと変質していくことにつながった。
しかし、こうした仏教における形式化は、形を変えてどのような宗教にも生じてくると思われる。ユダヤ教の安息日においても、本来の深い意味が見失われて、外側の形だけを厳密に守らねばならないとする風潮が次第に強くなっていったのである。
神殿においても、形だけの礼拝が行なわれ、そこで商売が行なわれる場にもなっていたということで、主イエスは「わたしの家は、祈りの家であるべきであるのに、強盗の巣としている」と厳しくそのことを指摘して、止めさせたことさえあった。
主イエスの戦いはこうした信仰の形式化、形骸化との戦いでもあった。
その具体的な内容が聖書には記されている。ここでは安息日に関する一つの例をあげる。
安息日に右手が萎えていた人がいた。右手が萎えていたらふつうの仕事はできない。このような人が過去にどんなに苦しみや悲しみがあったかを全く理解しようとせず、ただ、安息日に治療行為をしてはいけない
、という律法を守るかどうか、という一点だけでイエスに注目していた。
安息日とは、どんな意義をもつのであろうか。それはこれまでに述べたように、単に仕事を休むということではない。安息日に関する最初の聖書の記述は、神が創造のわざを休んで、聖別して神からの祝福を受けるためのものであった。その祝福とは、神の道を歩めるようにして頂くことであり、数々の神の国の賜物を受けることであった。それは究極的には、愛を持つことである。神の祝福を受けた最も大いなるかたちは、愛を持つ人間となることである。
この人はこのルカ福音書では、一言もしゃべってはいない。不思議なほど沈黙している。 その沈黙は、過去の苦しい生活、そしてイエスこそは、自分の積年の悩みを解消してくれるお方だと、直感していたようである。
だからこそ、起き上がれ、真ん中に立て、と命じられたときに、その人はすぐさまそのイエスの言葉に従って行ったのである。
ここで、主イエスが命じられた言葉、「立って、真ん中に出なさい」と訳されているが、原文では、「起き上がれ、そして真ん中へ立て」(egeire kai stethi)である。
そして、この「起き上がれ」と訳されている原語(エゲイロー egeiro)は、またこの箇所と同じ内容を伝えているマルコ福音書では重要な英語訳聖書では、「立て」と訳されている。(・Get up and stand in the middle!' (NJB) ・ Stand up in front of everyone."(NIV)
そのイエスの言葉にただちに従って、右手の萎えた人は、「身を起こして立った」とある。ここでの「身を起こして」と訳された原語は、アニステーミ「anistemi」で、「立つ」(ヒステーミ)の強調形であり、新約聖書では、「復活する」という訳語でしばしば用いられている。そして、さきほどあげた、エゲイローという言葉もまた、「復活する」とも訳される言葉である。新約聖書で最も復活ということが、詳しくその重要性が説かれている章では一つの章だけで、十九回もこのエゲイローという言葉が用いられている。(Ⅰコリント十五章4、12、13、14節など)
ルカ福音書においてこの、「復活する」とも訳される原語(*)が特に多く用いられていることは、ルカが、とくにこのことを示されていたことがうかがえる。
(*)この原語 アニステーミ(anistemi)は、マタイ福音書では四回、マルコでは一七回、ヨハネでは八回しか使われていないが、ルカ福音書では二七回も使われている。
私たちは、主イエスの言葉によって、萎えていた魂が立ち上がることができる。そのことを、ルカ福音書はとくに強調している。放蕩息子のたとかの話しの中においても、二回「立つ」という言葉が用いられている。(新共同訳ではそれは分かりにくく訳されている。)
それは、放蕩の限りを尽くしてやっと自分の罪に気付いたこの息子が、その罪を悔いて神を見あげ、立ち帰ろうとしたときに書かれている。
この世はたえず、心身を萎えさせることで満ちている。そのようなただなかにあって、とくにルカ福音書は、立ち上がらせる力を与える方としての、イエスを強調しているのである。
安息日を形式的に守ること、宗教において、このように決まりを守ることは重要であるが、それが目的になってしまうことがある。決まりは何のためか、を考えなくなるのである。
安息日の規定も、はじめに述べたように、神への礼拝であるが、それは神を礼拝することによって、神の本質たる聖霊を受け、その聖霊の実りの中心である愛を受けるためである。
それゆえ、苦しむ人や、困難にある人への愛を、表面的に規定を守ること以上に重んじるべきなのである。
主イエスは、形式化した安息日規定を正しいあり方に立て直すために、わずか一言でそのあり方を示された。
「人の子(キリスト)は安息日の主である。」(ルカ福音書六:5)
それは、安息日を形式的に守るのでなく、そこに人の子すなわちイエスを主とすることだとされたのである。
イエスを主とする、それはイエスご自身を中心に置く生活とすることである。ここに、キリスト教会が二千年守ってきた、日曜日の礼拝の精神も含まれている。礼拝とは主イエスを中心に置くことである。復活のキリストを中心に据えることであり、そこからその復活のキリストの復活の力、死に打ち勝つ力を与えられることである。また、それまでの罪をキリストの十字架を仰いで赦しを受けることである。キリストと同一の本質を持つ聖霊を受けることである。そしてそれを受けた上で、愛と真実を主とする生活へと導かれることである。
ここから、さらに私たちはキリストを中心に据えた安息とは、実は「主の平和」であることだと分かる。キリストこそは、安息日の主であるということは、さらにキリストこそは魂の安息の主なのであり、それこそが、福音書で強調されている、「主の平和(平安)」なのである。
主イエスが最後の夕食のときに告げたこと、約束したことは、聖霊を与え、キリストの平和を与えるということであった。それこそが、真の安息にほかならない。
「重荷を負う者は、私のもとに来れ、そうすれば、休みが与えられる。」 (マタイ福音書十一・28)と言われた。ここにも、主の平和がある。キリストのもとに憩う魂の休みこそ、真の平和だからである。
このように、考えていくとき、安息日とは、日曜日だけでないのがわかる。それは主の平和を与えられているなら、すべての日が、「安息日」となり得るからである。
特定の人間だけが、招かれているのでなく、すべての人間が招かれ、決まった人だけが、聖人なのでなく、主を信じる者はみんな聖徒であり、特定の人だけが先生でなく、みんなが兄弟姉妹なのである。一部の人だけを愛するべきでなく、だれでも愛すべきであり、敵対する人すら受け入れてその人のために祈るべきと言われる。
キリストを中心とするときには、特別な能力のある人だけが大切なのでなく、病気の人も、子どもも老齢の人も、健康な人、障害者、それぞれみんな大切な存在となる。
こうして、「人の子(キリスト)を中心とするところには、さまざまの分野で、視野が広がっていく。
しかし、特定の日を守らなくともいいのではない。日曜日を主の日として大切にし、ふだんは仕事とかその他のことでいろいろと心身ともに使わねばならないが、その日こそはとくに「人の子、キリスト」中心にすることによって、一週間の罪を清められ、この世にまみれそうになった魂が再び新しい霊の水、いのちの水を受けることになるからである。そして新しく再創造されるからである。
私自身、公立高校の教員をしていたころ、日曜日の行事があるときに、それをそのまま従って日曜日の礼拝集会を休むか、どうするかで非常に苦しんだことがあった。
そして苦しい決断をして、あくまで日曜日の礼拝を優先させることに決断したが、それによって予想されたような非難もあり、困難な事態も生じたが、最終的にはそうしたことを通してかえって、同僚や、生徒たちに私自身がどうしてそのようにまでして、日曜日を休むのかを真剣に説明し、自らの信仰を表明することへとつながった。そして道のないようなところに、不思議と歩んでいける道が開いていったのであった。
安息日を聖別し、祝福する、と言われたはるか古代の神のことばは、数千年を経た現代においても、まさに真理であることを身をもって体験させていただいたのである。
そうすることによっていっそう真剣に安息日を守り、そこで聖霊とみ言葉を受けて、それを勤務にも、日々の生活にも用いていくことが許されたのであった。
もし、私がかつてのあの苦しい決断に際して、ふつうの生き方、すなわち行事があれば、日曜日礼拝も休むということをしていたら、その他のことが生じても簡単に礼拝を休んで、それを優先するということになっていっただろうし、そうすれば、現在私たちが受けているような祝福は到底考えられない。
すべての日が安息日のように生きる、それは究極的な目標である。しかし現実の私たちは簡単なことで罪を犯し、この世のことに引っ張られる。そして人間の力を恐れる。そうした私たちであるからこそ、週に一度はそれらを振り捨てて、神への礼拝の座につかねばならないのである。
週に一度を、聖別して神に捧げること、そこには数千年を経ても変ることのない、祝福の源泉があるのである。