英知の言葉から (その2) 2006/1
罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。(旧約聖書 箴言二八・13)
No one who conceals transgressions will prosper, but one who confesses
and forsakes them will obtain mercy.
(New Revised Standard Version)
この聖書にある言葉から、ここでは、罪を告白すること、そしてそれを捨てることから与えられる恵みについて考えてみたい。
「栄える」とは、この箇所の古代ギリシャ語訳は、「よき道を行く」euodoo (eu 善い hodos 道)という言葉であるが、罪を隠しているなら、日々の私たちの歩みはよいものが伴わない。
それに対して、私たちが祝福され、人生の歩みのなかで真によきことが生じていくということのために、すなわち、私たちの心の世界が広がり、深くされ、また精神の世界が力を得、そして良き何かを周囲にもつねにもたらしつづけることができるようになるためには、その出発点として、罪を告白して赦しを受けることだと言われている。
そのためには、罪を知らねばならない。知らない罪を捨てることはできないからである。
罪を捨てるとは、どのようにしてできるのか、それは悔い改め、十字架を信じるだけでよい、という新しい道が開かれたのである。
およそ栄えるということが、このような罪の告白とそれを捨てることが出発点にある、というようなことは、私自身キリスト教を知るまでは考えたこともなかった。栄えるためには、当然能力が必要であるし、また努力して他の者との競争に打ち勝たねばならない。
そして栄えるということを、この世で認められること、ほめられること、他者よりも抜きんでることだと思い込んでいた。
しかし、聖書でいう本当の意味で栄えるとは、完全な栄光を与えられていたキリストの例でもわかるように、そのようなこの世的なことではない。それはむしろ苦難であることが多い。本当の栄光は、神に用いられることである。
それが主イエスのように大いなる苦難を伴うこともある。
罪を隠さないで、信仰的に、霊的に信頼できる人に告白すること、それはたしかに深い意味のあることだと言えよう。それは自分の罪を捨てることにつながる。他者に告白することによって、その罪との決別を刻印することになる。そしてその罪を告白した相手の人とともに祈り、赦しと清めを受けることができる。
告白ということでは、福音書の書き方にすでに、使徒の告白が含まれている。福音書が書かれたとき、すでに使徒ペテロはキリスト者の集り(教会)のなかで最高の権威者、指導者であった。しかし、福音書には、そのペテロを称えたりする言葉は全くなく、逆にペテロが、主イエスが捕らえられたときに逃げてしまって、さらに三度もイエスなど知らない、といって否定したことをそのままに書いている。
また、後にはペテロ以上の大きな働きをすることになって、その多くの手紙が聖書に収められたパウロも次のように告白している。
…以前、私は神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者であった。…
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する。わたしは、その罪人の中で最たる者である。(Ⅰテモテ一・15)
…わたしはこの道(キリスト教)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえした。(使徒言行録二二・4)
こうした告白によって自分がいかに弱く罪深い者であるかを周囲に知らせしめ、そのような者であるにもかかわらず、憐れみ、罪を赦して下さるキリストの愛を伝えようとしているのである。
告白ということについて、古代からよく知られている書物がある。
それはアウグスチヌスの「告白」である。ここには、彼の若い時代に犯した罪の歩みを具体的に告白するとともに、そのような罪をも赦し救い出して下さった神への大いなる讃美と感謝が記され、さらに聖書の霊的な説き明かしも添えられている。
「告白」という言葉の原語は日本語の告白というだけでなく、罪を告白すると同時に、感謝する、讃美するという意味を持っているので、アウグスチヌスはその双方を重ねて用いているのがうかがえる。
(*)「告白」という語は、ラテン語ではコーンフェシオー(confessio)であるが、 聖書のラテン語訳では、例えば、「喜び歌い、感謝をささげる声のなかを共にすすみ…」(詩編四二・5)の箇所のように、「感謝」とも訳されている。
彼の告白はだれに向かってなされているか、それはまず神に向かってであると思われるであろう。しかし、意外なことであるが、アウグスチヌスはこう言っている。
…私はだれに向かってこのようなことを話しているのか。神よ、あなたにではありません。みもとにあって人々に向かって話しているのです。
では何のために。 ― それは私と、まただれであれ、これを読む人が、自分たちは何という深い淵からあなたに向かって叫ばねばならないか、を考えるためです。じっさい、告白する心と、信仰によって導かれて生きることこそが、あなたの耳に一番近いのです。(「告白」94頁 「世界の名著」14 中央公論社刊)
なぜ、アウグスチヌスは、自分のこれから告白していこうとすることが、神に対してでなく、人に対してであるのか、それは、すでに彼は神への告白を十分になしていて、そこから大いなる祝福を与えられ、確固たる歩みを続けているからであった。
この箴言で言われているように、まず神に向かって告白し、神からの憐れみを豊かに受けて、そこから大いなる霊的なキリスト教信仰の指導者となっていったのである。
それゆえに、つぎにはその告白を周囲の人々に向かってしているのである。
人が神にむかって叫ぶ。それは憐れみや励ましを求め、また赦しをいただくためである。しかし、そのためには、自分自身が、深い罪の淵にて滅びのただなかにあることを深く知らなければならない。
彼が、「神の耳に最も近いものは、罪を告白する心と、赦して下さった神への感謝、讃美を伴う信仰の歩みである」というとき、彼自身はすでにそのことを深くじっさいに経験したのであった。罪を犯し続け、悔い改めのないときには、平安はなかったが、ひとたび心から悔い改めたとき、神はその赦しを求める叫びをただちに聞いて下さり、それ以後の歩みの中からの祈りをも近くにあって聞いて下さっていると実感していた。
それは、神ご自身のことをしばしば、「喜び」であり、「慕わしい存在」と呼んでいることからもうかがえる。(*)
(*)神に呼びかけるとき、アウグスチヌスは、「決して偽ることのない慈愛、祝福された慈愛よ!」と言うことがある。ここで「慈愛」と訳された原語は、ドゥルケードー dulcedo であって、これは、英語の sweet と似ていて、食物などの味わいの「美味、甘い」ことにも、また心の「喜び」といったことにも用いられる。
この世では与えられない、神とともにある喜びを意味するから、ドイツ語訳では、Wonne(大いなる喜び) と訳している。(1955年 KOSEL-VERLAG社刊のもの)また、ロエブ・クラシックライブラリ版では、大文字を用いて、thou Sweetness never beguiling ,thou happy and secure Sweetness ! と訳している。 このような場合の、sweetという言葉は、日本語には適切な訳語がなく、「甘美」とか訳すると、原語のニュアンスが変わってしまう。これは、魂に深い安らぎと潤いを与えてくれる喜びそのものを指している言葉で、ダンテの神曲にもこの言葉から派生したイタリア語(ドルチェ dolce)が、「慕わしい、愛すべき、やさしい」というような訳語で百回以上も用いられている。(なお、この語は、英語では sweet と訳されることが多い。)
なお、「慈愛」とか「慕わしいもの」と訳したのは、一九二八年 春秋社発行の「世界大思想全集」第四巻の「随想録・懺悔録」40頁である。
アウグスチヌスの告白は、このように、まず直接に神に告白し、そこから神の大いなる赦しとそれに伴う喜びを与えられ、神が自分の魂のすぐ近くにきて下さったことを体験し、(それがすでに述べたように dulcedo という語で表されている)そのゆえに、そのような罪の赦しと神の愛を何とかして知らせたいという思いで、告白という書物を著したのである。
こうした罪の告白が人間の魂の真の出発点をなすことは、古く今から三千年ほども昔から旧約聖書の詩編で言われている。
いかに幸いなことか。
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。…
わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てた。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てた。
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠さなかった。わたしは言った。
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦して下さった。…
あなたはわが隠れ家。
苦難から守って下さるお方。
救いの喜びをもって
私を囲んで下さる方。
神に逆らうものは悩み多く、
主に信頼するものは、慈しみで囲まれる。
主によって喜び踊れ。
すべて心正しき人よ、喜びの声をあげよ。
(詩編三二編より)
ここに、魂の真の喜びは罪が赦されたところにある、ということが実際の経験を通したことがありありと感じられる言葉で言われている。自分の罪を認めないうちは、心が荒れ、苦しみばかりであった。しかし一度自分の罪を明らかに示され、それを神に告白することによって、この作者はかつてない魂の深い平安と喜びを与えられ、立ち上がる力を与えられたのである。
人間は、楽しみや喜びというのは、よき家族、友達、健康、お金、職業…といったことにあるとほとんどが考えている。そしてそれは一般的な考え方から言えばたしかにその通りである。それらが全くなかったら、到底喜ばしい日々とはならないだろう。
しかし、それらがすべて与えられるなどということは、まずあり得ないし、与えられていると思う場合でも必ずそれらは年月とともに失われていく。
聖書の世界では、そうした時間が経てば失われたり、何らかの事件や事故、状況でたちまちなくなるもの、あるいは生まれつきとかで与えられないものを目的とするのでなく、だれでもが与えられる喜びを一貫して述べている。
それがこの箴言や詩編で言われている、罪を知り、その罪を赦され、除かれるということ、そこから神との霊的な愛の交流が与えられることなのである。
キリストが地上に来られたのも、単によい教えを述べるためでなく、この罪の赦しと喜びを与えるためであった。
そしてそれを受けたものはたしかにこのことこそが、真の幸いなのだと深く実感してそれ以外のものと取り替えようとは決して思わなくなるのである。
幻がなければ民は堕落する。(箴言 二九・18)
Where there is no vision, the people perish.(KJV)
この言葉は、このままでは本当の意味は伝わらない。なぜかと言えば、ここで「幻」と訳されている言葉の原語(ヘブル語)の意味は、日本語とは異なっているからである。「幻」という言葉は、例えば広辞苑では次のように説明されている。
「実在しないのにその姿が実在するように見えるもの。」
それゆえ、この訳語のままであれば、「実在しないものだが、実在するように見えるものがなかったら民は堕落する」、などという奇妙な意味になる。
このような不可解なことを言っているのではない。それでは意味が逆になってしまう。
この聖句の意味は、「神の国という確固たる実在を見つめていない民は滅びる」、という意味なのである。
この「幻」と訳された原語(ヘブル語)は、ハーゾーンといい、これは、ハーザー(見る)という動詞から作られた言葉である。それゆえ、実際に霊的な目で見たこと、なのである。本当は存在するのであるが、大多数の人たちには隠されている。しかし、特別に神に引き上げられた人はそれを見ることを得させていただくのである。英語訳では、この言葉は、多くが vision(見ること) と訳しているのもそのような意味を原語が持っているからである。
神に選ばれた人が、神によって特別に霊的なものを見せられたことを言うのであって、単に神秘的なことを見るだけでなく、霊的に引き上げられて与えられた神の言葉をも指す言葉である。
それゆえ、旧約聖書のなかで最も重要な書物の一つであるイザヤ書の冒頭に、このイザヤ書全体をあらわす言葉としてこの言葉が用いられている。
…アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。(イザヤ書一・1)
ここで「幻」と訳された原語は右と同様に、ハーゾーンであり、イザヤ書という大きな書物全体が、霊的に「見たこと」となっている。それは、霊的に引き上げられることによって見て、聞いたことも含まれている。だから「預言」という意味をも持っているのである。
預言とは、神の言葉を預かるということであり、単に未来のことを言うことではない。
神から特別に高められて、神の国を見せていただき、神の言葉を預かった、受けたということの記録がイザヤ書であると言おうとしているのである。
それゆえ、英語訳にも、この言葉を「啓示(revelation)」とか、「預言(prophecy)」と訳しているのもある。(NRSV、NIVなど)
こうしたことから、この言葉を本来の意味に従って訳すと、
「神の国を見つめることをしない民、啓示なき民は滅びる。」
というような意味になる。さらに、神の言葉なき民は滅びる、とも言える。
これは、前方に見つめるものを持たないとき、人間は混乱し、精神に確固たる秩序を失い、荒廃するということである。この世がまさにその通りである。神の国を見つめないで、金や快楽、地位、名声などを見つめていくときには、人間は手綱を失った馬のようにめいめいが勝手な方向にいき、互いに争い、憎んだり、戦ったりするようになる。そのあげくには滅びということになる。
戦争というのも、自国の利益を見つめ、またそれを推進する軍人や政治家は自分の力を誇示し、増大させるために始めたりする。そしてその結果はというと、おびただしい人たちの命を奪い、混乱し、荒廃する。
しかし、もし私たちが神を霊の目でしっかりと見つめ、前途に与えられる神の国を目指して歩むときには、周囲の混乱やざわめきにもかかわらず私たちは自ずから整えられ前進していくことができる。
重いからだの障害や病気、あるいは迫害や貧しさのただなかにあってもなお、深い平安や喜びを持っている人たちがキリスト者のなかにはいつの時代にも存在してきた。それはまさに、こうした霊のまなざしで見つめるものをしっかりと持っていたからである。
キリストはそうした霊的実在を見つめて生きた最高の模範であった。主イエスは、つねに神の国を見つめ、さらに十字架につくことを見つめて生きられた。そのために、わずか三十三歳で処刑されたが、その見つめていた神の国へと引き上げられ、神の右にあり、聖霊というかたちで、私たちのところに来て下さっている。
霊的なものを見つめるそのまなざしが強固であればあるほどに、あたかも渦のなかに周囲の水が引き込まれるように、周囲の者をもそこに引きつける。そして波動のように周囲にその力は伝わっていく。混乱していた人間は立て直される。
黒人解放のために命をかけて働いた、マルチン・ルーサー・キング牧師は、真の意味の「幻」(ビジョン)を持っていた人である。彼は黒人差別と不法の混乱のただなかにあったにもかかわらず、しっかりと見つめるものを持っていた。それは不滅のものであって、他の人にはぼんやりしていても、彼にはまざまざと見えたのである。
それが、一九六三年にワシントンで行なわれた次の彼の有名な演説からうかがえる。
私には夢がある。
いつかジョージア州の赤い丘で以前の奴隷の子と、以前奴隷を所有していた者の子が兄弟のように同じテーブルにつくのを。
私には夢がある。
いつか不正と圧制の熱気による蒸し暑さに苦しむ砂漠の州、ミシシッピーが自由と公正のオアシスに変わるのを。
私には夢がある。
いつか私の4人の子供たちが肌の色ではなく、彼らの人格で判断される国に住むのを。
私には夢がある。いつの日にか、荒れ地は平らになり、ゆがんだ地も真っ直ぐになり、そして主の栄光が現れる。(イザヤ書四〇・4~5)
これが我々の希望なのだ。この信仰をもってすれば、我々は絶望の山から、希望の石を切り出すことができ、この国の騒々しい不協和音を美しい兄弟愛の交響曲に作り替えることができる。(*)
この信仰をもってすれば、我々は共に働き、共に祈り、共に戦い、共に投獄され、またいつの日か解き放たれると固く信じつつ共に自由のために立ち上がることができるのだ。
(*)キング牧師の力強い表現を感じてもらうために一部、原文をここに引用しておく。
With this faith we will be able to hew out of the mountain of despair a
stone of hope.With this faith we will be able to transform the jangling discords of our nation
into a beautiful symphony of brotherhood. (hew 切る)
これはまさに、啓示を受けた人の言葉であり、真の意味の「幻」をはっきりと見ていた人の言葉である。はるか二五〇〇年ほども昔の旧約聖書での預言が成就される未来をまざまざと神に引き上げられて霊的な目で見ることができたのであった。
さらに、この演説の五年後(一九六八年)、テネシー州の大聖堂では一万人以上の人たちが集まっていた。そこで、彼は驚くべき演説をした。その最後の部分は次のような内容である。
…自分の身の上に何が起きるか分からない。これから相当困難な日々が私たちを待ち受けている。しかし、私はそのことはもう気にならない。
なぜなら私は山の頂きに登ってきたからだ。…今はただただ神のご意志を現したいだけの気持ちでいっぱいだ。神は私を山の頂きまで登らせて下さった。その頂きから見渡した。そのとき私は約束の地を見た。
みなさんと一緒には約束の地には行けないかもしれない。しかし、知っていただきたい。私たちは一つの民として約束の地に行くのだと。だから私は、喜んでいる。私の心はどんなことにも心配していない。どんな人間への恐れもない。
主が栄光の姿で私の前に現れるのをこの目で見ているのだから。(「私には夢がある ― キング説教・講演集」新教出版社245~246頁)
I don't know what will happen now. We've got some difficult days ahead.
But it doesn't matter with me now.
Because I've been to the mountaintop. … I just want to do God's will. And
He's allowed me to go up to the mountain. And I've looked over. And I've
seen the promised land. I may not get there with you. But I want you to
know tonight, that we, as a people, will get to the promised land. And
I'm happy, tonight. I'm not worried about anything. I'm not fearing any
man. Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord.
このように、彼がその戦いの年月を通して一貫して見つめてきた神の国、彼はそれを「約束の地」と表現しているが、それを彼は、霊的に引き上げられてまざまざと見ることを許されたのであった。
そしてさらに主イエスご自身がその約束の確実さを保証するかのように自分の前に現れるのを目の当たりにした。
これは旧約聖書に預言者や神に引き寄せられた人たちが見ることを許された聖書の意味における「幻」と同様なものであった。それはまぎれもなく存在するものであり、ただ預言者やキング牧師たちのようにとくに引き上げられた人たちは何にもましてその実在を実感することができたのである。
キリストも、死が近づいてきた頃、高い山に三人の弟子たちだけを連れて、祈るために登ったことがあった。そのときにイエスの衣が真っ白に輝き、その顔も太陽のように輝いたことがあった。(マタイ福音書十七章)
パウロ自身も、第三の天(楽園)にまで引き上げられ、語ってはならない言葉、語ることのできない言葉を聞いたと証ししている。(Ⅱコリント十二・2~4より)
このように、新約聖書においてもはっきりと「見ること」ができた人たちのことが記されている。
キング牧師の体験はこうした延長上にあると言えよう。
そして、このことは、キリストの時代からはるかにさかのぼってモーセやアブラハムという人たちからすでに始まっていたのである。彼らは、三千数百年以上も昔の人たちである。アブラハムは今のイラク地方で暮らしていたとき、神が現れ、見つめるべき土地、「幻」をはっきりと示された。そして彼はそのときから故郷を捨て、旅立った。その後はいろいろな波がありながらも一貫して神の指し示すものを見つめて生きることになった。
モーセも同様であった。キング牧師が用いた表現である「約束の地」は、モーセも多数の民を導いて、その四十年の荒野の厳しい旅を通じて命がけで見つめてきたものであった。
聖書はその全体が、このようにたしかに存在する目には見えない神の国、約束の地をめざす人々の記録なのである。そこに向かって人間は歩む。何か自分たちでは分からないある大きな力、流れに乗って進んでいくのである。
そして真剣に見つめる度合いが強いとき、必要なときに、神はそうした人を引き上げて実際にありありと神の国を見させて下さるであろう。
私たちは、そのようにはっきりと神の国、あるいは約束の地を見ることはできないかもしれない。しかし信仰が与えられている。信仰とは、まだ見ないものをもあたかも見たかのように、力を与えられて生きることであり、前進することである。
キリスト教信仰を与えられるということは、すなわち大いなるビジョン(神の国)を与えられるということ、生涯をかけて見つめるべきものが与えられるということである。
その道を歩むこと、それはキリストを信じるだけで、イエスご自身が道であるゆえに、だれでもがその道を歩み続けることが与えられているのである。