ことば 2006/2
(226)神の祝福とはいかなるものか
いまだそれを究めた者はない。
ただ、だれもが知っている一事は、
すべてがこれにかかっているということだ。…
主よ、あなたは我ら罪人には、
この秘密を探ることを許さずとも、
我らの子らの苦しみと喜びを
願わくば、つねに祝福して下さい。(「眠られぬ夜のために上」64~65頁 岩波文庫 )
・人間の幸福はよく偶然だと言われる。例えば、重い病気をもって生れた者、戦争に巻き込まれて親を失ったり、からだに重い障害を受けた者、あるいは、事故や犯罪など、それはどんなに受けたくないと思っても降りかかってくる。それを偶然だとよく言われる。
しかし、ここで言われているのは、そうしたどのような苦しみや災難であっても、そこに神の祝福が注がれるならば、どのような苦難や障害もそれが大きなよきことへとつながっていくというのである。
逆にどんなに健康で豊かであっても、もし神の祝福の御手がそこに置かれないときには、その幸福はどこからともなく壊れていく。いろいろな不可解な闇の力が迫ってきて心の平和や喜びが失われていく。
どんな暗雲も、悲しみも、またすべてを破壊するような事態でも、そこに神の祝福の御手が加わるときには、そうしたことが生じなかったときの幸いをはるかに上回るよきことがそこから生れていく。そして周囲をうるおし、その祝福は広がり、さらに時間と場所を越えてその祝福は波動のように伝わっていく。
その最たるものがキリストであった。キリストはまったく罪を犯していないのに、激しい迫害を受けて苦しめられついに十字架につけて殺された。しかし、神の祝福の御手がそこにあったから、その十字架の死は万人の罪をあがなうという最も重大な出来事となり、さらに復活して聖霊というかたちで全世界の人々を永遠に導き、力づけ、祝福していくようになった。
このように、神の祝福さえ注がれるならば、無実の罪で処刑されるというような、恐ろしい出来事すら、何にもましてよい結果を生むようになるのである。
他方、よきことであっても、そこに祝福がなかったら、事故や病気、不和あるいは誘惑に負けるなどでたちまちその幸福の状態は壊れていく。
それゆえに、よいときも、悪い状況のときも、常に私たちは神の祝福を待ち望む。
Niemand konnt' es noch ergrunden,
Was er ist,der Gottessegen;
Eines bloss kann jeder finden:
Alles ist an ihm gelegen.
Gonnst du nimmer, Herr, uns Sundern,
Dies Geheimnis auszurechnen,
Wolle dennoch unsern Kindern
Leid und Freude immer segnen.
(227)ソクラテスが神々に対して祈るその祈りは、ただ「善きものを与えたまえ」というだけであった。金銀、あるいは王の権力などを祈る人は賭博やほかのどんな結果になるか分からないようなことを祈るのと同じであると考えていた。(「ソクラテスの思い出」(*)クセノフォン著 岩波文庫45頁)
・身体を訓練しない者は、身体を使う仕事ができないように、精神(魂)を訓練しない者は、精神の仕事を行なうことができない。(**)(同右30頁)
・ソクラテスは、いつでも、食欲が彼の調味料となる用意ができていた。…空腹でないのに食べたり、喉の渇いていないのに飲むことは、内臓や頭や魂を破壊するものだと言った。(同46頁)
(*)ソクラテスは、BC三九九年、国家の神々を信じないで、新しい神を取り入れ、青年に悪影響を与えたとのことで処刑された。彼は、時の権力者や宗教家たちの権威に従わず、神の声を何より重んじて正しい道をあゆんだ。「ソクラテスの思い出」は、ソクラテスの弟子のクセノフォンの著書。
(**)精神と訳された原語は、プシュケー(psyche)であり、ふつうは「魂」と訳されることが多い。
・ソクラテスの祈りは、単純であった。「善きものを与えたまえ」、この祈りは、主イエスの「御国を来らせたまえ!」という祈りに通じるものがある。御国とは、神の御支配であり、その御手の内にあるものであるから、一切の善きものを含んでいるからである。
仕事にもいろいろある。魂(精神)の仕事とは、からだの仕事とは全く別であるゆえに、病気の人、寝たきりの人もよくなすことができる。魂の訓練をしていない人は、どんなに健康でもまた知識や技術があっても、魂にかかわる仕事はできない。
これは、キリスト教の言葉で言えば、聖霊を与えられ、聖霊によって歩むのでなかったら、霊的な働きはできないということになる。