リストボタン目に丸太  21006/3

主イエスは、ほかのどんな人にもまして分かりやすい言葉の中に深い真理を込めて、しかも力と権威をもって語ることができた。人の目に丸太とか、おが屑といった表現で、人間の深い罪を語られたのである。
私たちの目には、大きな丸太があるのにそれが見えない、しかし他人の小さなおが屑を見てそれを取り除こうと言っているという。

イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
(ルカ福音書六・3942

盲人が盲人の道案内をする、これは、どういうことか。
目が見える人は、自分は盲人ではないと思っている。しかし、別の箇所で、次のように言われている。

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える(と思い込んでいる)者は見えないようになる。(ヨハネ福音書九・39

このように、主イエスがこの世に来られた目的そのものが実は、真理が見えない人間に、真理を見させ、神のわざ、神の国が見えるようにするためなのであった。そして傲慢にも自分こそはそうしたものが見えていると思い込んで、他人を裁いている人たちはかえって見えなくなる。高ぶりは裁かれるのである。
こうして考えるとき、この世のすべての人が実は盲人なのである。神のこと、自分の罪、この世界がどうなっていくのか、人間にとって最も重要なことは何であるのか、そういったことが分からないのである。

だから人間は本質的に他者を導くことができない。罪ある人間はそのままでは、自分自身がどこに行くのかも分からないからである。
人間に深い罪があって、他人をも正しく見分けることができないということを、目に丸太がある、という驚くべき表現で表しているのである。
目とは心を表す。目に丸太とは、心に丸太のような邪魔者があるということであり、これはすなわち罪のことなのである。パウロがローマの信徒への手紙で書いているように(*)、どうすることもできない人間の本質を主イエスはこのようにごくわかりやすい日常的な言葉で表したのである。

*ではどうなのか。私たちにはすぐれた点があるのだろうか。全くない。すでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にある。次のように書いてある通りである。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙三・910より)

自分の丸太を取り除く、すなわち自分の罪を取り除くということは、自分の力ではできない。それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙で力を込めて述べているように、キリストが十字架にかかる必要があったのである。
十字架によるキリストの死によって神はただ信じるだけで、私たちの内にある「丸太」を取り除く根本的な方法を与えて下さった。しかし、それもたえずそのことをしっかり覚えていないと、いつのまにか、キリストによって丸太を除いてもらったことも忘れて、他人のおが屑を除こうとする。つまり他人を裁いていく。
他人を裁くということは、罪に定めて非難すること、そこには愛がない。結局は、裁くな、ということも愛をもって祈れ、ということになる。敵対する人や中傷する人に対して悪く言い返すことによっては自分にとっても、相手もにとっても何一つよいことは生じない。神からの愛をもって祈ること、それによって自分も他者も周囲の人にもよきものが流れてくる。
主イエスは、人間同士の関わりのあり方について、私たちの生涯の目標というべきものを示された。それは、ここに言われる、他人の目にある小さなおが屑を見るのに、自分の目にある大きな丸太を見ようとしないこと、すなわち、他人の罪ばかり見て、自分の罪深さを知らないことを強く指摘された。
このことと、次の人間関係の究極的なあり方を示す言葉とも内的につながっている。

敵を愛し、憎む者に親切にせよ、悪口を言う者に祝福を祈れ、侮辱する者のために祈れ。(ルカ福音書六・2728

私たちが、敵対する人や憎しみをもってくる人に好意を持てないのはごく当たり前のことである。それは、すぐに相手を裁いて、あの人は悪い人間だ、いやな人間だ、と裁いてしまう。そして自分もまた敵意とか反感といったものを返してしまう。相手の悪意に目がくらんで、自分の中にもひそんでいる自分中心の考えや罪深さという丸太には気付かなくなってしまう。
敵を愛せよとは、敵対する人を好きになれ、ということではない。それは、敵対する者の心がよくなるように祈れ、ということだが、それは裁く心とは反対の心である。
自分の心にも同じような「丸太」がある、罪があると実感しているときには、だれかを強く非難したりできなくなる。しかし、そのような時であっても、相手のために神に祈ることはできる。自分に罪あると思えばこそ、自分が相手の悪いところを直したりできないから、神に祈る心となる。
裁くな、そうすれば神からも裁かれない、と主は言われる。裁くのでなく、祈れ、と言われる。また、次のように言われた。

赦せ、そうすれば赦される。
与えよ、そうすれば与えられる。(ルカ福音書六・3738より)

この主イエスの言葉に対しては、自分は赦すことができない、という気持ちをいう人も多い。このことについて、主イエスは、別のところでたとえを話して示された。

ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
現在の日本の値打ちになおせば、六千億円ほどにも相当する大金を借金している家来が、王の前に連れて来られた。
しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
ところが、この家来は外に出て、自分に百万円ほどの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ福音書十八・2135より)

ここで、六千億円ほどにもなる大金、それは返すことが不可能な金額を象徴しているが、それほどの借金が主人にあるということで、それは人間の罪がほとんど計り知れないほど大きいということを象徴的に示すものである。
そのような罪をすべて帳消しにしてくれた王とは、神である。神からそうした絶大な赦しを受けたのに、自分はごく小さなことで他の人を赦さない、これが人間の罪深い姿である。このたとえで、私たちは神により、十字架で主イエスが血を流して死んで下さったことによって罪赦され、救いを受けた。それゆえに、他者を赦せるはずなのだと言われようとしている。
他人を赦せないのは、主イエスからの赦しが与えられているのに、それを心を開いて受けとろうとしていないからだということになる。
だから、「赦せ、そうすれば赦される」ということは決してできないことを命じているのではない。赦すために私たちは主の十字架を仰がねばならない。そこから赦しを豊かに受けるほど、私たちはこのイエスの命令を、実行できるし、私たちの罪もいっそう赦される。
このことのゆえに、主がすべての祈りの中心にある祈りとして、次の祈りを示されたのであった。

私たちが自分に罪(負い目)ある人を赦しましたように、私たちの罪をも赦して下さい。(マタイ福音書六・12

また、ここで主イエスは、「与えよ、そうすれば与えられる。」という簡潔な法則を教えられた。あたかも数学で、二×三=六 となるように、これはだれに対してもいつでも成り立つ精神世界の法則として言われている。
ここで「与える」という言葉で意味されているのは、何であろうか。与えるというとすぐに、お金や物、食物などを思い起こすが、この箇所では前後関係から見ると、相手が自分に対して犯した罪の赦しをも含んでいると考えられる。相手に、主の愛のうちにあって、赦しを与えるとき、私たちもまた赦しを与えられる。このように、人間の世界で根源的なものでこうした法則が成り立つのであれば、当然それよりももっと表面にあることでも成り立つ。それは私たちが愛をもって何かを与えるとき、私たちもまた与えられる。神に捧げるとき、神から与えられるのである。
主にあって与えるときには、それが祝福され、「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに与えられる」と言う。このような特別な表現で強調されているのは、それほどこの世で、まず与えるということが確実に与えられるということに結びついているからである。
ただし、ここで、秘かに自分に返礼やお返しを期待して与えるのは、実は自分中心であって、自分へのお返しが目的であるから、それは真に与えたことにならない。かえってそれは与えるように見せかける偽善という悪にすぎない。こうした不純な心では、真に良きものは決して与えられない。
与えよ、そうすれば与えられる、という言葉は、次の有名な言葉を思いだす。

求めよ、そうすれば与えられる。(マタイ福音書七・7

まず私たちは神に求める、そうすることで神からの賜物を与えられる。その心をもって、他者に与える。そうすれば他者からも、そして神からも与えられる。
祈りという霊的なことについても同様である。
他者に対してまず、祈れ、そうすれば祈りを与えられる。
そして神に対しても、まず神に祈るなら、神から霊的なものを受けることができる。この世はいくら与えても奪われたまま、与えて大きな損をするということもある。しかし、目に見えない世界では、決してそういうことはない。たとえ、相手から金を盗まれたとしても、祈りをもって対処すれば、その人には平安という賜物が神から与えられる。
主イエスが、福音をもって他者を訪れるとき、平和を祈れ、相手がそれを受け入れないときでも、 その祈った平和は、あなた方に帰ってくる、と約束された。
主にあってなしたことは、すべて無駄になったりせず、神からよき霊的な賜物に変化して帰ってくる。ここに驚くべき神の御支配を感じさせられるのである。

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