ことば 2006/5
(234)悪魔のすべての仕業を水泡に帰せしめるには、ただ、一度だけ神を仰ぎ見るか、神に向かって叫ぶかすれば十分である。これは実にすばらしい事実である。(ヒルティ著
「眠られぬ夜のために」上・ 五月十七日の項より)
Ein einziger Aufblick,oder Ausschrei zu Gott genugt,um alle seine Arbeit zu nichte zu machen.…
私たちがひどい打撃を受けたとき、あるいは罪を犯したとき、それゆえに他者にも大きな傷を残したと感じるとき、意気消沈する。済んでしまったことをどのようにしようとも元通りにはすることができない。そのような心の重荷や沈む心を取り返すためには、ただ神への真剣なまなざし、神への叫びだけで十分だという。
たしかに、聖書においても長い間苦しめられてきた人が、イエスに向かってただ、「主よ、憐れんで下さい!」と叫ぶだけでキリストの大いなる恵みが与えられたことが記されている。
その単純な叫びに応えて下さることは、すでにキリストより五百年以上も前から、次のように言われている。
…地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書四五・22)
(235)…かならず、常に浩然の気を養うことをつとめねばならない。…浩然の気とは、いかなるものよりも大きく、どこまでも広がり、何物よりも強い。正しい道をもってこれを養い、そこなうことがなければ、この気は、ますます広く行き渡り、天地の間に満ち満ちるようになる。
この気は、正義と道から離れることができない。もし、離れるなら、それは弱って滅びてしまう。(「孟子」公孫丑こうそんちゅう章句 上 より)
・ここで言われている「気」とは、単なる空気ではない。日本語にも、「元気」とか「気を吐く」といった言葉に現れているように、生命の原動力となる力とか、
万物が生ずる根元といった意味がある。「浩」という漢字そのものに、「水が豊かで、ひろびろとしているさま」という意味があり、そこから一般に、広く豊かで大きいものにも用いる。浩然の気とは、このように、私たちが正しい道を歩んでいるなら、私たちの内にも与えられるものであり、天地のどこまでも広がっている目には見えないある力のようなものを指している。それは海の広がりのような、深くすべてを満たすようなものである。
孟子は、キリスト以前三七〇ほど前に生れた。キリスト教の真理は全く知られていないとき、中国にもこのような、個々の人間だけでなく、天地に満ちる正義の霊のようなものを感じていた人がいた。
聖書には、次のように記されている。
「主よ、あなたの慈しみは天に
あなたの真実は大空に満ちている。」(詩編三六・6)
これはダビデの作と伝えられているが、そうでないとしても、大多数の旧約聖書の詩篇は、新バビロニア帝国に捕囚となる以前のものとされているから、キリスト以前六〇〇年よりも以前の作だと考えられる。
このように、この世は悪いものがたくさんあるように見えるが、他方、このように古くから私たちの心が清められるならば、私たちの心にも、天地にも満ちる清く広大なもの、力あるものが感じられることが示されている。
孟子は自分の努力でそのような「気」を養おうとしたが、人間の本質的な弱さを思うときにはそれはきわめて困難なことであり、誰にでも与えられるなどほとんど不可能なことである。
しかし、キリスト教においては、ただ、幼な子らしい心で神を仰ぐことによってそのような「気」を越える聖なる霊を与えられる。