真理の永遠性    2006/6

この世は、真理そのものを見つめようとしないで、その周りをぐるぐるまわることを好む。新聞やテレビ、映画、雑誌などの類でキリスト教に関することが取り上げられるときには、ほとんどそうである。キリストの深い言葉の意味、その永遠の命、罪の赦しの深い意味と聖霊の力、そうしたことなどは全くといってよいほど触れられない。
特殊な内容の写本を見付けたとか、ノアの方舟探しのこと、あるいは、聖地巡礼とかローマ教皇のこと、ゴシップ的なフィクションである映画など、真理そのものの力を知らないゆえにそのような真理の周辺、しかもはるか遠くをまわるだけでなく、キリスト教の真理に傷を付けようとするようなことがマスコミでもてはやされる。
そうしたことが真理でない証拠、それはそのようなことを心に信じて、またはそれらの知識を貯えたとき、心が清められるのか、絶望に追い詰められた魂が力を与えられるのか、自分の犯した罪の赦しを与えられて平安を得、新たな力を与えられるのか、などなどを考えればすぐに分かることである。
キリストの十字架による罪の赦しとか復活の真理は、体験されるものであり、しかも魂の最も深いところに働きかけるものである。そうした真理そのものは、決して破壊されることも、傷つけられることもない。
ちょうど、夜空の星がどんなに近代的な武器弾薬をもって破壊しようとも、いっさいそれらからは傷を受けないのと同様である。
真理は真理であるからこそ、いかなる時代の状況や、悪意、あるいはサタン的な力によっても変質させることはできず、真理の度合いが減少したり、傷を受けることもない。
聖書ですでによくたとえられているが、それは不動の岩のごときものなのである。
この動揺して止まることのない現代、そしてインタ-ネットや映画、印刷物などによって間違った情報が乱れ飛ぶ世界にあって、そうした一切によっていかなる傷も受けない真理こそ、ますます必要となるし、そのような確固として存在し続ける真理を求める人もまた起こされるであろう。 真理それ自身がそのような人を生み出すのである。


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