種まきのたとえ 2006/6
主イエスは、福音を伝えることを種まきにたとえられた。私たちは何かをいつも蒔いている。
子どものときからすでに、親や周囲の人たち、また学校などにおいて数知れないものが、子どもの心に蒔かれていく。言葉を覚えるということも、言葉が知らず知らずのうちに、子どもの中に蒔かれていった結果である。
三~四歳ともなると、日本語を自由に話すことができるようになる。しかし、英語を中学、高校、大学と八年も学んでも、たいていの人は自由に読み書き話すなどはできない。
これを見ても、いかに子どものときに大量の情報が頭(心も含めて)のなかに蒔かれているかがうかがえる。
私たちは、毎日の生活の中で、絶えず周囲から何らかのものを種蒔かれていると言える。
よい種が蒔かれるとき、例えば、数学や英語、音楽といった学校の教科などでもめざましく進歩することがある。人間の性格や精神的な成長もどんな教師からどのように蒔かれるかが決定的になることもある。
そして私たちもまた、周囲に対して常に何かを蒔き続けているのである。
このように、種まきの比喩的な意味は、我々にとって身近なことであるが、主イエスは、人間にとって最も重要な真理の種まきについてたとえで話された。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。 (ルカ福音書八・4~8)
このたとえは、現代の私たちの知っている種まきとは様子が違う。日本では、このように種まきをする人が、道端に種を落としたり、石地や茨の中に落としたりすることはほとんどないだろう。
ていねいに畝を作ってそこに種をまくからである。
しかし、古代のイスラエル地方では、種を畑に手でばらまくという形で蒔いた。それゆえにこのような道端や石地、あるいは草が少々生えているところにも種が落ちるということがあったのであろう。
山道でツツジの美しい花が、崖に咲いていたのを見たことがある。人間の判断ではあのような場所に種を蒔こうとは決して考えないようなところに種が落ちて立派に成長し、花を咲かせていた。
こうしたことは、少し植物を観察していると随所に目にすることである。
人間が蒔いてもなかなか芽生えないものが、思いがけないところにめったにない植物が生じているのである。
野山における種まきは、自然に行われる。すなわち神ご自身が何億年も前から行って来たと言えよう。植物は、たくさんの種をつける。シダ植物のようにおびただしい胞子をつける植物なら、たくさんあちこちに芽が出るかといえばそうでない。無数の胞子が地面に落ちても、そこから芽生えるのはきわめて少数である。そしてそれは、また植物によっても異なる。あるものは、たくさん種が落ちてあちこちにごく普通に増えるのに、別の植物は、ほとんど新たな芽生えがなく、広がらない。驚くほどわずかしか見られないのもある。
落ちて芽生えなかった種はどうなったのだろうか。適切な水分が与えられないなど、落ちた環境が悪かったり、または土がないため、あるいは、乾燥のため、発芽能力を失っていくもの、また細菌などによって腐敗してしまうものなど、実にさまざまの理由があるだろう。
このように自然の世界においても、種の芽生え、成長の仕方は実に千差万別である。
福音の種が蒔かれることについてはすでに引用したように、ある種は、道端に落ちる。別の種は、石地に、他のものは、茨の中に落ちる。それらは、人々に踏みつけられ、あるいは動物が食べてしまい、またあるものは水がないために枯れるのもあり、別のものは、いろいろな雑草が繁っているために芽が出ても成長できないままとなり、枯れていく。
こうした状況は、福音の種という目には見えないものであっても、自然の状況と似たところがある。主イエスは、自然の現象の背後にも、霊的なこと、精神的なことが暗示されているのを深く見抜いておられた。
キリストの福音は、人々に踏みつけられ、悪の力によって倒されていくものもある。あるいは、一度は福音を受け入れて、心に信仰がめばえ、み言葉によって励まされて生きていく人であったのに、家族やいろいろなこの世の問題の悩みのために、神からの励ましを受けることができなくなり、福音から離れていく場合もある。
主イエスがこのように福音の種が育たないような状況を一つ一つ述べているのは、この世の現実を鋭く見抜いているからである。
聖書はいつもこのように、単なる表面的なこと、きれいごとを述べるのでなく、現実の厳しい状況、実際の姿を描いている。
そのような現実があるが、他方、必ず福音の種が落ちて芽生え、成長していく「良き地」がある。しかし、良い地とは、人間が見てこれは良い地だと思うようなものではないことが多い。
それは、主イエスの十二人の弟子たちや後に最大の働きをすることになった使徒パウロについてもいえる。
真理そのものであるキリストの福音にとって、良い土地が、社会的にはほとんど無視されていた漁師たちであるとは、いったい誰が考えただろうか。ペテロやヨハネ、ヤコブ、アンデレの四人もの漁師がキリストの弟子となった。
特にはじめの三人は、十字架上での死が近づいてきたころに、特に連れられて高い山に上り、キリストが太陽のように輝き、服が真っ白に輝いて神と同じお方であることが示された。このような重要なときにもこの三人が選ばれたのであった。
なぜこのように、ペテロ、ヨハネ、ヤコブたちが特に選ばれたのか、それは分からない。彼らは、良い地であったということになる。しかし、彼らがどうして良い地であるのかは、人間の側からは理由がはっきりとはしないのであって、神の側において、良い地としようとされるなら、どんなに人間が見て悪い地であっても良き地へと変えられるのである。
この主イエスのたとえを表面的に読んで、自分は茨の地、Aさんは石地に落ちたのだとか、Bさんは道端に落ちたのだとか、いろいろと他の人のことを裁いたり、人間の評価をしたりすることに引用されることがある。しかし、本来このたとえの意味するところは、決してそのように人間を分類することではない。
キリスト教が広がっていく過程で数々の苦しみがあり、迫害のひどい状況が生じて命すら奪われることも多かった。新約聖書にも、キリストの十二弟子のうち特に重んじられた一人であったヤコブは、使徒たちが聖霊を豊かに受けて、キリスト教伝道を命がけで始めてあまり経たないときに、ヘロデ王によって剣で殺害されたことが記されている。良い地であったはずのヤコブがこのようにキリスト教のごく初期にすでに殺されたが、ほかの重要視されていたペテロはもっと後まで生きたし、ヨハネはさらに長く生きてキリスト伝道に捧げたと伝えられている。
このように「良き地」に落ちたと思われていた人であっても、その働きの期間には大きな差がある。
しかし、その良き地であったヤコブの殉教によって、それを知らされた人たちはまた新たに信仰に生きる決意を奮い立たされたのであり、そこからさらに別の人たちを良き地となるように導くことにつながっていった。
このように、特定の人間が最初から良き地だというのでなく、さまざまの人間が神によって真理を受けとる器とされるのであって、荒れ地であっても良き地にされていくのである。
いかに迫害の時代であれ、また真理に反した教えが茨が繁るようにはびこるようになっても、そのような良い地はなくなることがない。よい地は神ご自身が創造されるからである。
主イエスは、このたとえの最後に、必ずよい地に落ちる種があると、次のようにのべている。
…ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。(マタイ福音書十三・8)
様々の悪がこの世には満ちている。そしていろいろの問題を深く知れば知るほどその解決には途方もない困難が伴っているのが分かる。一人の人間がどんなに訴えてもどうにもならない。しかし、この主イエスの言葉は、決定的な希望のメッセージである。
いかに、悪いところに落ちて次々と種が枯れてしまおうとも、それらを補って余りある収穫がとれる道がある。迫害のただ中であっても、病気や苦しみに悩まされるときであり、なぜこんなことが生じるのかと神への疑いが頭をもたげてくるようなとき、そのような時にまさにそこに良き地が準備されつつあると言えよう。悲しみや苦しみこそは、人間の魂を深く耕す鋤のような役割を果たすからである。
旧約聖書にヨブ記という書物がある。神を信じ、正しい生活を続けていたが、息子たちが罪を犯したかも知れないと思い、彼らの罪の赦しのために、朝早くからいけにえを捧げていたという。そのような人であったのに、突然大きな苦難が降りかかって、財産や家族を失い、妻からも見下され、耐えがたい病気にもなってしまった。
これは、すでに良き地であったヨブがさらによい地となるようにと、神がなさったことであった。
このように、最初から、ある人間が良い地であって、ある人は悪い地、石地であるといったことをこのたとえで言おうとしているのではないのである。
すでに良き地となっている場合には、さらにそれをよくするために神はその人を導かれる。
神がこの世を御支配なさるその方法は、悪がはびこり、悪が支配しているように見えるその中にあって、絶えず新たな良き地を準備され、そこに真理の種が定着し、三十倍、六十倍、百倍となっていく。主イエスがこのたとえで告げようとされた根本のことは、この増え広がるエネルギー、生命力が、どのようなものであるかということである。
そのことは、この種まきのたとえのすぐ後に置かれているからし種のたとえでもうかがえる。
…イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ
十三・31~32)
これは、天の国、すなわち神の御支配の特質は、小さなものを用いて、そこから限りなく増え広がるということである。増え広がる、神のわざのこの特質は、すでに主イエスより千七百年余りも昔のアブラハムの記述にも、次のようにある。
…主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」(創世記十二・1~3)
このように、神に呼び出され、神の御手が臨んだアブラハムにおいては、その祝福のしるしとして周囲の様々の困難にも関わらず、「大いなる国民となる」ということが約束されている。神の真理のエネルギーは、じっと同じ状態で留まっているのではなく、それを受けとる人を限りなく増やしていき、また個々の人もその真理によって自分の本質がいわばふくらんでいくのである。何がふくらむのか、それはよい部分である。それまでになかったものが新たに芽生え、そして増大していく。
このことは、さらに別のたとえで言われている。
…彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記十五・5)
実際に、アブラハムの子孫はユダヤ人という民族となり、世界中に広がってこの預言が成就していったのが歴史のなかで示されていった。さらに、アブラハムの信仰の本質はキリストによって完全なものとされ、キリストを救い主と信じる人たちは、全世界に広がっていった。そのことは、霊的なアブラハムの子孫が文字通り、空の星の数が数えられないのと同様に増え広がっていったのを預言したことになっている。
主イエスも先にあげたたとえの他に次のようなたとえをも言われた。
…また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(マタイ十三・33)
このたとえではっきりと分かるように、ここで主イエスが言われた「天の国」とは、いわゆる天国(死者が行く場所)のことを言っているのではない。これは、死んだ後の世界のことでなく、神がこの地上の世界をいかに御支配なさっているか、ということなのである。(「天」とは、神を言い換えた言葉で、「国」とは、新約聖書の原語であるギリシャ語では、「王の支配」という意味。)
これは、すでに述べたように、神がこの地上を御支配されるのは、まず小さなものから始められる。それとともに神はどんな小さなものでも、取るに足らないものでも用いられてそこに神の祝福を置かれる。それによって、目に見えないパン種(酵母菌)によって粉が膨らんでいくように、神の愛と真実による御支配を膨らませていかれる。
キリストは処刑された後、三日後に復活されたが、そのキリストの福音はとくにペテロ、ヨハネ、ヤコブという漁師三人が中心となって伝道が開始されることになったというのは驚くべきことである。古代の漁師たちは、獲った魚を保存する施設もなく、大量に獲れたときには、価格を安くしてでも早く売りさばかねば腐ってしまう。天候などによって魚がまるでとれないこともある。そうしたことから、金が豊かにたまる、というようなことはあり得ず、貧しい暮らしが多かったであろうし、当然社会的な地位も低かった。学問などとは無縁であり、政治や社会的な変革運動とも関わりは生じなかったと考えられる。
こうして最も地味で自然のなかで働く素朴な人たちであったと思われる人々が、世界にその働きや書いたものが伝わっていき、それによって世界の変革につながり、計り知れない影響を及ぼすことになった。
福音書によってキリストの真実の姿が伝えられ、それによって無数の人たちが救いを経験し、さらにいかに生きるべきかも示されていった。そして福音書に示されたキリストの信仰や教え、考え方、実践そうしたものが後の時代の学問、哲学、宗教、音楽や美術、文学、政治、福祉等々あらゆる人間の活動分野へと影響を大きな波のように伝えていった。
これは、まさに、目には見えないパン種が粉全体を膨らませていくという分かりやすいたとえで表されていることなのである。
真理の種まき、それは人間を用いて神ご自身がなされる。小さなもの、取るに足らないものを用いて、大きく膨らませていく。その驚くべきエネルギーをこの種まきのたとえで表しているのである。
キリストを信じて受け入れるときに、その、いのちのエネルギーと言うべきものを受け取ることができる。
その溢れ出る豊かさを、ヨハネ福音書では次のように表している。
…祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・37~38)
On the last day, the great day of the festival, Jesus stood and cried out:
'Let anyone who is thirsty come to me!
Let anyone who believes in me come and drink! As scripture says, "From
his heart shall flow streams of living water."
ここで、祭の最後の重要な日に、イエスが立ち上がり、大声で叫んだ、と特に記されているのは、イエスが与えようとする真理の種をひとたび与えられるなら、いかに大いなるものが与えられるかを強調しているからである。
他のいかなるものにも代えられない命のエネルギーが与えられるということを指し示している。
福音の種が、三十倍、六十倍、そして百倍になる、という主イエスの言葉が示そうとしているその内なるエネルギーは、溢れ出る命の水という言葉で表されているように、限りなく人をうるおし、死んだような状態からよみがえらせるものなのである。