赦しと導きの神 2006/7
この世で生きるときには誰でもさまざまの間違い、罪を犯していく。本当に正しい道が示されているのに、一時の感情から間違った道を選ぶということもよくある。犯罪などたいていそんなことをしたらいけないのはよく知っているはずなのに、一時の感情に引きずられて間違った道に入り込んでしまう。
実際にそのような間違ったことをしなくても、心の中で、よくない思いを抱いたり、憎んだり、真実などない、などと考えて嘘をしてもいいだろうなどと考えてしまうこと、周囲の人間に対して不適切な言動をしてしまうことなど、後からそれは悪かったと思うようなこともたくさんある。言ってはいけないことを言ってしまって取り返しのつかないことになることも多い。
こうしたすべてに悩まされて生きるのがこの世である。前をまっすぐに見つめられないで、何が神の国と神の義なのかを思わず、自分の感情や考えを第一にしてしまう。それに引きずられていく。
このようなすべてに対して、自分の言動の結果、こんな困ったことになった、大きな罪を犯した、迷惑をかけた、など考えているとますます心は萎縮していく。
こうした人間の心の世界に、神は赦しという世界があるのを教えて下さった。そうしたすべての失敗や罪、不適切な言動など、すべてが赦されるのだ、ということ、しかもそれはただ、神を仰ぐだけ、キリストの十字架を仰ぐだけでよい、キリストが十字架にかかったのはそうした私たちすべての日常的な罪のゆえなのだと信じて十字架を仰ぐとき、私たちは、キリストがその十字架の上から、「もうそのことはいいのだ、赦してあげよう」という静かな細い声を聞くことができる。
これこそ福音である。万人にとっての喜びのおとずれである。
そしてただ、赦されただけで終わることなく、そこから新たなところへと導いて下さるのが、聖書で示されている神であり、キリストである。
人間はこうした愛を持たないゆえに、しばしば赦さない。責めて、攻撃し、あるいは見下すことが多い。しかし神は愛であるゆえに、どんな大きな失敗ですらも赦し、慈しみをもって近づいて下さる。
そして赦された者は、神の愛とは何であるかを知らされる。そしてその愛を知った者は、おのずから前進しようという気持ちになる。そのような愛を受けたときには、同時に前進の力が与えられる。
罪のことをずっと思い続けていると、心身は消耗して弱ってしまうが、赦された魂は、新たな力を与えられる。
…しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。(イザヤ書四〇・31)
その与えられた力によって私たちは主の道を歩むことができるようになる。それはしかも導かれる道である。この世にもいろいろの道があって、例えば東京に至るまでには実に多様な道を通って行くことができる。
しかし、最もはやい道は航空機だというように決まってくる。
人間の歩む道も、さまざまある。脇道から入り込んで迷い、泥沼に陥りつつ進む道、曲がりくねっていてさんざん苦労してどこに通じているのか分からない道、傲慢な心をもって歩む道、また悲しみばかりの道、あるいは赤穂の浪士のように敵を憎み仕返そうとすることを考えての道、そのような特別な例でなくとも、人間的な敵対感情とか、怒りなどを持ちつつ歩むことも実に多い。
そうした中で、真っ直ぐな道、神の国へのひとすじの道はある。神はそのような道を歩むようにと絶えず私たちの心の手を引かれる。
旧約聖書の最初、アブラハムもそのようにして、数々のこの世の道とは全くことなる道、神に導かれる道を歩み始めたことが聖書に記されている。「あなたの故郷、親族、家族などを離れて、私が示す地に行け」という神の言葉を受けたアブラハムは、その言葉に従って歩み始めた。その歩みは以後数千年にわたって無数の人々の導かれていく歩みを預言するものとなった。
アブラハムは、神の約束の言葉をそのまま信じてそれによって義とされた。神の道を歩むためには、信仰によって、神から義とされることが必要である。すなわち、神から罪深い私たちが、それで正しいのだ、よいのだとみなして頂いた上でなければ歩みは続かないことがこのような古い数千年も昔の文書にすでに記されているのに驚かされる。
この世の道は、赦しがない。競争の道であり、弱いものが踏みつけられ、罪を互いに非難しあい、攻撃しあう応酬の道である。それは、国際社会の数々の紛争にも見られ、個人的な狭いところでも至るところで見られる。そしてそれによって落ち込み、他者を妬み、また怒ったり、憎んだりする道である。そしてその行き着く先は、だんだんと魂が枯れていく。滅びていく。
よりよい存在によって導かれることがなかったら、自分の努力、能力で必死に競争して生きる、ついにはそのような力は必ず失せていくのであるから、そのような道は最終的には消えていく道である。
しかし、神に赦され、主に導かれていく歩みこそは、この世が決して知ることがなかった道である。それゆえに、次のように言われている。
…わたし(神)の思いは、あなたたちの思いと異なり(*)
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書五五・80~10)
数千年の歳月、無数の人々がこの道を人生の途上に発見して、そのときからその道を歩み始めた。そしてこの日本にも世界の至る所にもこの道は伝えられた。
この道は、目には見えない水が流れている。そして緑豊かな道、命に満ちた道でもある。
とはいえ、キリストの受難、あの激しい苦しみの道のかたわらにどうして水が流れているといえようか、と反論する人も多いだろう。
しかし、キリストの十字架の死とともに、神殿の垂れ幕が真っ二つに引き裂かれる驚くべきことが起こった。神殿の垂れ幕の奥に最も重要な至聖所というのがあり、そこで罪の赦しの儀式が行なわれるのであった。それは一年に一度、大祭司が入って行なうものであった。神殿の垂れ幕が二つに裂けたということは、そうした動物の血や特別な建物や職業的宗教家などによらず、罪の赦しが万人に向かって開かれたということの象徴的出来事であった。
これは、イエスの受難のかたわらに流れている命の水が、そのような歴史的な幕を引き裂くほどのエネルギーをもっていたことを示すものである。
さらに、あのキリストの十字架の苦しみを見て、神などいないと思った人がいる反面、唯一の神を知らないはずのローマ人が、次のように言ったのはまさしくキリストがあの受難の道のただ中を歩んでおられたその時においても、そのかたわらに命の水が静かに流れていたのを示すものである。
その命の水は、いかなる障害にもかかわらず、それが流れていくところの人間をうるおし、変えていく力をもっているからである。
…百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マタイ福音書十五・39)
キリストが、「私は道であり、真理である」と言われたのは、こうした道がキリストそのものであり、キリストを信じてキリストに結びつくとき、私たちの歩みはそのままイザヤが預言している、天が地を越えているように、はるかに高い道を導かれて行くことが約束されている。
私たちは現実の力や弱さに引き込まれ、しばしばつまずき、倒れたり、脇道に入り込むことも多い。しかしそれでもなお、私たちがキリストに繰り返し立ち返るとき、それはこの世の汚れに染むことなく、またこの世の流れに押し流されることなく、死の力にさえも打ち勝つ道であり、そのゆえにこそ、永遠の命に至る特別な道なのである。