救いについて 2006/7
救いということについて、聖書の基本にある主イエスの言動を記した福音書ではどのように記されているか見てみたい。
救いとは、悪の力に勝利することであるから、主イエスの場合にも、まずサタンからの試み(誘惑)に勝利することが記されている。悪魔の誘惑に敗北するなら、それは滅びであるからだ。
主イエスがサタンの誘惑を撃退することができたのは、旧約聖書においてすでに記されていた神の言葉によってであった。悪魔に対抗するとき、主イエスが第一に用いられた言葉は、「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ということであり、さらに、「主を拝み、ただ主に仕える」などの言葉であった。
これらが悪魔の誘惑に打ち勝つための指針であり、これらを守るときに悪魔は退けられ、救いへと導かれるということが、福音書の最初の部分に記されている。
そして次に聖書で記されているのは、イエスの宣教を一言に凝縮したものである。
「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ福音書四・17)
このことについては、先月の「いのちの水」誌の六月号にかなり詳しく書いた。
悔い改めと訳された原語(メタノエオー)の意味は、以前にも書いたことであるが個々の罪のことを思い起こして反省する、といったことでなく、神への魂の方向転換に他ならない。この方向転換こそは、天の国すなわち神の御支配を受けることである。そしてそれこそ「救い」なのである。
主イエスの教えとしては最も広く知られている「山上の説教」(マタイ福音書の五章~七章)は、普通にはイエスの道徳的な教えのように受けとられていることが多いが、これも実は、救いを指し示しているのである。
以下にその一部を引用する。
…心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。(マタイ五・3~6より)
心貧しき者たち、彼らは、天の国を自分のものとするという。天の国、すなわち神の国であり、神の御支配を自分のものにするとは、救われたことに他ならない。
悲しむ者、それがひどくなると、パウロが述べたように、死に至る。(*)しかしもしその悲しみの深い淵から、神へと心を方向転換するときには、彼らは神によって慰められると約束されている。
神の慰めを受けるとは、これもまた救いである。
(*)神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらす。(Ⅱコリント七・10)
さらに、正しいことを実行する人が幸いだ、と言われておらず、正しいこと(義)に飢え渇く者こそ幸いだ、といわれている。そしてそのような飢え渇くように正しいことを求める者は、満たされると約束されている。何で満たされるのであろうか。それは、ヨハネ福音書の最初の部分で強調されているように、キリストご自身が神の国のあらゆるよきもので満たされているのであって、そのキリストから私たちは目には見えない霊的な賜物を与えられて満たされるということである。
この世は欠けたところで満ちている。至るところで健康が欠けて病気の苦しみがあり、平和が欠乏して戦争や憎しみがあり、食物が甚だしく不足して飢えが広範囲にある。あるいは、愛情が欠けていて、それを無理やりもぎ取ろうとしてさまざまの悲劇が生じる。配偶者以外の異性を求め、また不正な男女の関係を若者が求めていく、あるいは親子であっても、通じるものがなく、双方が満たされないものを抱き続けていく。そうしたこともすべて魂の深いところで満たすものがないからである。
聖書においては、そのような人間の奥深い欠乏感を満たすものがある、ということが繰り返し強調され、記されている。
よほど深い満足を与えるものでなければ、人間の奥底にある欠乏感を満たすことができないが、それができるのは、万能の神でありその神と同質のキリストである。
… イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ福音書四・13~14)
人間の魂の奥から、目に見えない水、神の国のいのちそのものが溢れ出る、ということは、その人間の魂が最も深いところで満たされているからである。欠乏があるなら、到底そこから周囲によきものが流れ出るには至らない。
このように、山上の説教は単に教えでなく、救いはどのようなものであるかを指し示すものとなっている。
主イエスご自身が、救いということについてどのように言われたか。それは次のような箇所をみるとはっきりしてくる。
マタイ福音書では、五章から七章までの主イエスの山上の教えの部分が終わると、八章から新しい部分に入る。イエスが具体的に何をなさったか、という記述である。その最初に出てくるのは、らい病(*)の人のいやしであった。イエスが山を下りると、大勢の群衆が従ったが、そのとき一人のらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った。
「主よ、御心ならば、私を清くすることができます。」
(*)古代において、らい病と訳されてきたされた病気の記述から、治ったときには祭司に見せるなどと書いてあることからも、従来らい病と訳された箇所は現代で言われるらい病とは違った皮膚病も含まれていたことが考えられること、またらい病という言葉には、長い間にしみ込んだ観念があるとのことで、新共同訳のように、「重い皮膚病」とか、日本語に訳さないで、原語のまま、「ツァラアト」とした新改訳もある。しかし、このようよ→ように、「重い皮膚病」と訳すると、なぜ他にもいろいろ重い病気があるのに、聖書で重い皮膚病だけがとくに取り上げられているかの理由が不明となる。
主イエスの前に全面的にひれ伏す姿勢、そしてこのただ一言によって主イエスはその病人の信仰を見て取り、救いを与えられた。当時は誰もらい病の人には手を差し伸べることをしなかったのに、そしてその一言とともに、群衆がたくさんいるにもかかわらず、そして当時はらい病の人は汚れているので人との接触を禁じられていたというが、そのような状況であっても、なおこのらい病の人は、周囲の人がどう言うか、どんなに思われるか、汚れていて人との交際もできない状況であったのに、群衆の中にでてきたということがどんなに人々から裁かれるか、といったことを考えず、ただひたすらに主イエスにその心を注ぎ、ひれ伏したのであった。人がたくさんいる前で、ひれ伏す、ということはよほどの信仰があったのがうかがえる。もしイエスのことを単なる預言者だと思っていたら、決してひれ伏したりはしなかっただろう。
当時だれもがいやすことのできなかった、らい病を主イエスはいやすことができるという、イエスへの絶対の信頼こそがこの救いのもとになった。こうした深い信頼をいかにして閉鎖的な隔離された生活をしていたはずのらい病人が持つことができたのであろうか。
それは主イエスの恵みであり、神ご自身が引き寄せられたというほかはない。このことを、エペソ信徒への手紙では、次のように述べている。
…あなた方は、恵みにより、信仰によって救われた。(エペソ書二・8)
神はそのご計画に従って、思いもよらない人たちを引き寄せ、イエスと神への信仰を持つようにされる。
らい病人のいやしの次には、ローマの百人部隊の隊長の僕が中風で寝込んでひどく苦しんでいる状況である。そのような苦しみに対して、主イエスがすぐに行っていやしてあげようと、言われたが、この百人隊長は、次のような意外なことを言った。
…主よ、わたしはあなたを私の家に来てもらう値打ちもないような者です。
ただ、ひと言おっしゃってください。
そうすれば、わたしの僕はいやされます。
このように言ったが、それは、百人隊長自身の経験として、自分が一言部下に命令すれば、部下はそのとおりに従うということをあげたのであった。イエスは絶大な力と権威を持っているのであるから、医者にもなおせないような重い病気に対してもその一言でいやすことができると確信していたのである。
イエスはこれを聞いて心を動かされ、従っていた人々に言われた。「はっきり言う。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(*)(マタイ八・5~10より)
(*)「はっきり言う」と訳された原文は、アーメーン レゴー ヒューミーン (amen lego humin)であって、直訳すれば、「真実に私は言う あなた方に」である。アーメーンという言葉は、ヘブル語の副詞で、「真実に、まことに」といった意味を持つ語である。なお、この語のもとにある動詞は、アーマン aman であって、これは、確認する、確立する、固く立つ、真実である、などいろいろに訳されている。
それゆえ、この語の本来の意味は、明瞭性でなく、真実性であり、事柄が重要だということを意味しているのであって、「はっきり言う」という訳語のニュアンスとは異なる。例えば子どもが発音をあいまいにしたり、答える内容に確信がないときには口ごもったり、あいまいな言い方になる。そのとき、教師が、「はっきり言いなさい」と言うだろう。この場合、「はっきり」とは明瞭性に関する言葉であって、真実性や重要さとは関わりがない。
それゆえ、新改訳では、原語のニュアンスをくんで「まことに、あなたがたに告げます」と訳され、前田護郎訳でも、「本当に私は言う」とある。カトリックのバルバロ訳でも「まことに私は言う」と訳され、文語訳も「まことに汝らにつぐ」である。
岩波文庫の塚本虎二訳や最近出版された新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店刊)では、適切な日本語はないと判断されて、原語のままに「アーメン、私は言う」となっている。
カトリックのフランシスコ訳では「あなた方によく言っておく」口語訳は、「よく聞きなさい。」と訳されているが、この訳語ではイエスが言おうとされていることが真実だというニュアンスがあまり感じられない。
なお、英語訳では、次のようにやはり「真実」(truth)という語やその関連語を用いた訳が多数を占めている。
・Truly I tell you,(New Revised Standard Version)
・In truth I tell you(New Jerusalem Bible)
・I tell you the truth (New International Version)
イスラエル人は、信仰の民族であった。地上の数知れない人々のなかで、最初にこの宇宙に存在する唯一の神を啓示された特別な民であった。しかし、そのようなイスラエルの民のうちにすら、この異邦人のように主イエスの絶対的な力、その言葉への無条件的な信頼を持つ人はいない、とのことである。こうした信仰深い人が、イスラエル人以外にいるということは主イエスご自身すら思いがけないことであった。
彼はたしかに信仰の人であった。その信仰のゆえに主イエスは言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」
また、次のような箇所も、主イエスへの信仰が救いにつながることがはっきりと示されている。
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。…そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。…
会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」
イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(ルカ八・40~50より)
ここでも、死という万人に襲いかかる力に打ち勝つものは、信仰であり、その信仰によって死に打ち勝つ力が与えられる、すなわち救いが与えられると言われているのである。
この記事と結びついたかたちで、さらに次のことも記されている。
…イエスがそこ(会堂長の家)に行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。
この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。
イエスは、「わたしに触れたのはだれか。だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(同右)
このように、長い苦しみにさいなまれてきた女が救いを与えられたのは、イエスへの絶対の信頼であった。それまで医者や宗教指導者などあらゆる人によってもいやされなかった難病でも、主イエスこそはいやすことができる、という信仰であった。それはイエスのことを単なる人間とは考えていなかったのがうかがえる。人間以上の存在と信じていた。そのような主イエスへの信頼こそが、大いなる報いを与えられるということなのである。
さらに、こうした信仰による救いが、単にからだの病気が治ったということでなく、もっと奥深いものであることは、次の箇所がそれを示している。
… すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜(ぼうとく)するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。…
人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。(ルカ福音書五・17~25より)
この記事では、病人自身の信仰は一言も言われていない。病人の友人たちの一途な信仰が主イエスに認められたのである。そして人々は中風をいやしてもらおうとしてきたのに、主イエスは、意外にも「あなたの罪は赦された」と言われたのである。当時は、神のみが罪を赦すことができると信じられていたために、主イエスが罪を赦すなどというのは、神を汚すことだと、激しく怒るようになった。
しかし、主イエスは、友人たちがひとすじにイエスの計り知れない力を信じて屋根をはがしてまで、病人をイエスの前に持ち出したというその信仰を認められたのである。
このような、信仰のみによって救われる、ということがとりわけ印象的に書かれているのは、十字架でイエスとともに処刑された犯罪人のことである。
…十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ福音書二三・39~43)
ここには、二人の重い罪人がいる。そして生涯の最後において、全く異なる道に別れていく。一つは最後まで神とキリスト、そして神の愛などを信じないで、イエスをのろい続けた。そして滅びていく人の姿がある。
もう一人は、最期のときにイエスこそは救い主だということを信じた。そして彼の重い罪をも赦されるようにと魂の方向をイエスに向けて転換し、何もよいことはしなかったであろうのに、ただ、心からイエスを信じ、イエスの復活を信じ、しかも十字架に付けられたイエスこそが救い主であると信じて救われた第一号となったのである。この福音こそは、後にパウロや他の人たちが命をかけて伝えた十字架の福音であり、それによってキリスト教のシンボルともなったのである。
救いを受けた罪人は、「…我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、(十字架で処刑されるのも)当然だ」と言っているように、特別に重い罪を犯したのであろうと推察される。しかしそれにもかかわらず、ただ十字架のイエスを仰ぎ、信じるだけで、ただちに救いに入れられたのである。
これは、だれにとっても、救いはどのようにしたら与えられるかを、実にはっきりと示すものとなっている。
この記述は、十字架上の犯罪人ということで、我々とは関係のない特別な人のことを書いてあるのだと思われやすい。しかし、そうでなく、この二人こそ、あらゆる人間の前に置かれている二つの道を象徴的に指し示すものとして記されているのである。
人間は、ふつうの常識的な意味で盗みとか殺傷するとかの罪でなく、神の御前に正しいのか、神の愛の道にかなっているのか、という基準に照らされるなら、どんな人でもおよそその基準に従えていないということが明確になる。神の愛とは無差別的であり、悪人にも敵対する人、中傷する人、悪意を持って倒そうとする人などすべてに及ぶものであるし、周りの偶然的に出会う人もみんな隣人であり、そうしたすべての人への愛、祝福の心をもって対するのが神の愛の道である。
このような高い観点から見られるなら、いかなる人もそのような道からはるかに遠いということになる。それゆえに、人間はすべて罪人だ、といわれるし、使徒パウロは、旧約聖書にある言葉を引用して次のように書いている。
…では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのか。全くない。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある。
次のように書いてあるとおりである。「正しい者はいない。一人もいない。…」(ローマの信徒への手紙三・9~10より)
このように、人間は誰しもかつて行なったこと、言ったこと、なすべきことをしていないこと、なすべきことすら知らなかったこと、言うべきことを言わなかったこと…などなど罪はいくらでもあり、そのような罪を一つ一つ罰せられ、裁かれるのなら、みんな滅ぼされてしまうだろう。
神の前に大きな罪を犯したものであり、他者に対しても数々の罪を犯してきたことを思いだすだろう。そのような者であっても、ただ、主イエスを救い主として仰ぐだけで、罪の赦しを受けるのである。それはすべての人間のいわばモデルとしてこの一人の犯罪人のことが記されているのである。
そしてそのような単純明快な、信仰によって救われるということを信じないで、愛の神ご自身を信じることをせず、背を向け続けていくこと、そこには何らの平安もなく闇のなかに沈んでいくのが見えるようである。
私たちは皆、同じような罪を犯してきた人間にすぎないが、主イエスを仰ぎ見るかどうかで決定的な分かれ目になる。
信じるだけで救われるということは、新約聖書の福音書全体にさまざまの実例をあげて記されているのがわかる。現在の教会でよく言われる、水の洗礼を受けないと救われない、などということは、全く言われていないのはこのように福音書を調べるとすぐにわかることである。
そしてこの福音書にある、主を仰ぐだけ、ただ信仰によって救われるということは、すでに旧約聖書にもその本質的な真理が示されている。
…地の果なるすべての人々よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書四五・22)
イザヤ書はキリストより四五〇年から七〇〇年以上も昔の預言を集めた書物であるとされているが、その後期のものにはとくにキリストの福音や新約聖書に通じる深い内容が多く含まれている。キリストの十字架の受難をありありと預言する内容もイザヤ書の五三章に見られる。
この四五章もそうした深い真理をたたえたもので、そこにこの救いの本質に関する言葉も現れる。
この真理は、後にキリストによってはっきりと語られ、証しされることになった。そして最後にあげた、十字架上の罪人の救いにみられる、十字架のキリストによる救いこそは、キリストの処刑とその後の復活後に特に呼び出されてキリストの使徒となったパウロが命をかけて伝えたのもである。
この、ただ信じることによって救われる、という真理は、このイザヤよりはるかに古いアブラハムのときにすでに閃光のように与えられている。それは十字架のイエスを仰ぐだけで救われるという真理の預言ともなっている。これは使徒パウロにとっては、十字架のキリストを仰ぐだけで救われるという真理そのものを指し示すものであったから、救いの根本を書いている、ローマの信徒への手紙に、そのことを力を入れて取り上げている。
…アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記十五・6)
このように、ただ信じるだけで救われる、ほかには何もいらない、という単純明快な真理は、私自身が深く体験させられたことである。私はこの十字架のキリストを仰ぐだけで、救いを受けてそれまでの深い闇から救い出され、新しい命を与えられた。そして何を将来の仕事にするかということについての考えも根本から変えられた。これは議論とか意見、あるいはだれかの受け売りといったものでなく、動かすことのできない事実なのである。
そして私の生涯を変えることになった救いに関する真理は、このように、アブラハムという三千七百年ほども昔の人においてすでに示されていたが、その後もすでに述べたようにイザヤ書などの旧約聖書にも部分的に示されてきた。
そのうち、旧約聖書の詩集であり、預言の書という性質ももっている詩編もまた、単純な救いの真理を述べている。
…いかに幸いなことか。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。…
「主に私の罪を告白しよう。」
その時、あなたは私の罪と過ちを赦して下さった。…
あなたは私の隠れ家。
苦難から守って下さる方。救いの喜びをもって
私を囲んで下さる方。(詩編三二より)
ここにも、救いが神に向かい、ただ罪を告白するだけで、それまでの苦しみから解放され、救いの喜びによって囲まれている、と言えるほどになったのである。
この詩はダビデの詩とされているが、ダビデのものならば、キリストよりも千年も古くからすでに罪からの救いは、儀式によらず、組織や善き行いを積むことでもなく、ただ神を信じて、その罪を告白するだけでよいという救いの根本がはやくも経験されていたのが分かる。
こうした流れは、キリストにおいて完全なものとなり、救いはただキリストが神と同じ力を与えられている神の子だと信じるだけで、救われるようになった。さらに、キリストはその死が深い意味をもっていることを示された。
…人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。(マルコ福音書十・45)
キリストは神の子であり、神と同じ本質を与えられているからこそ、死に打ち勝つお方であり、復活したし、その死そのものも万人の罪をあがなうというかつてない意味を持っていることを示されたのである。
このキリストの十字架での死の深い意味は、使徒パウロが聖霊の教えを受けて、この主イエスの言葉をさらに詳しく述べて世界に伝えることになったのである。