幸いの原点詩編32    2006/8

人間はだれでも幸いを求める。人間にはいろいろの幸福に関する考えがある。しかし、大多数の人たちには共通している。この世には実にさまざまの人がいて、考えられないような行動にはしる人たちもいる。しかし、わざわざ苦しい病気になろう、などという人はいない。それはどんな人でも、苦しくて痛みの激しい病気などなりたくはない、それは幸いなことでないということでは一致しているからである。
こうしたことからすぐに分かるように、人間の幸いには健康ということが不可欠だということは、ほとんどどんな人、いかなる民族や年齢にも関わらず、共通しているといえよう。
このような一般的な常識に対して、聖書は驚くべき見方を「幸い」ということに対して持っている。
それは、健康が人間の幸いに不可欠であるといった表現は全く見られないということである。
このことだけとっても、いかに聖書が一般的な常識と異なる視点から書かれているかを思わせる。
何が幸いだと言っているのか、それは聖書全体がいたるところで告げている。ここでは、その内で、旧約聖書の詩編に記されていることから、見てみよう。以下の引用は、詩編三十二編である。
なお、この詩は古代から多くの人たちに愛されてきた詩である。アウグスティヌス(*)は、この詩を特別に愛して、死の近づいた重い病気のときに、自分のベッドの近くの壁にこの詩を書かせていたということであるし、ルター(**)も悔い改めの詩編として、この詩編とともに詩編五七、一三〇、一四三をあげ、それらのうちで、この詩編三二が最もよいものだと記しているという。(「THE INTERPRETER'S BIBLE Vol. 168頁)

*)A.D 三五四~四三〇年。 初期キリスト教会最大の思想家。「告白」「三位一体論」「神の国」などの著作で有名。
**)ルターは、ドイツの宗教改革者。(一四八三~一五四六年) 聖書を深く読んだルターは、カトリック教会の特に贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符とも訳されてきた)等に関する不合理を知って、一五一七年に、抗議書九五ヵ条を公表、歴史上できわめて重要な宗教改革の始まりとなった。彼は、新約聖書に基づいて救いは行いによらず信仰のみによることを強調した。一五二二年、聖書のドイツ語訳を行い、音楽を愛し、多くの讃美歌をも作った。


いかに幸いなことか。
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことか。
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。(旧約聖書 詩編三二・12

ここには、幸いということが、罪を赦されることである、とはっきりと示されている。正しい心のあり方からはずれた状態が、「背き、罪、咎、欺き」などと、四種類の表現で記され、またその赦しについても「赦し、覆う、数えられない」などさまざまの表現で言われている。ここに、この詩の作者の罪の問題がいかに重要であったかをうかがわせるものがある。
現在の私たちの生活において、「幸い」ということと、ここで言われている「罪の赦し」ということとをまず結びつけて思い起こすという人はどれほどいるだろうか。
すでに述べたように、一般的には体の健康、お金、よき家族や友人といったものが幸福だと考えられているが、それらがあっても、幸福を実感しないということはこれもまたたくさんある。本当にこうしたもので幸いだと心から感じていれば、不満はないし、恐れることもないはずであるが、実際にはそうでなく、健康な人、お金のある人でも不満や心の悩みといったものはだれにでもある。
そしてその原因を他人に求め、また自分自身の能力の欠如や社会の仕組みや政治のあり方に求めていく。
そこから、幸福は心の問題である、と言われることにもなるし、そのように実感している人も多いだろう。
聖書はこの心の問題というのを徹底して追求していると言えよう。
罪というのは、日本人にとってはやはり具体的な犯罪、盗むとか傷つけるとかを連想する。しかしそのように表面に現れる以前の心の状態があるからそうしたいわゆる犯罪になるのであって、その犯罪を犯す心そのものを問題にするとき、憎しみがつのっていくと、その人の存在をなくしてしまいたいと思うようになり、極端な場合には実際に殺すところまでいくので、そのような心の動きそのものを聖書では問題にする。
人を悪く思う、それが正しいあり方からはずれているので、それを罪と言っている。正しいあり方とは、人のことをよく思う。その人によいことがあるようにと願う。悪い人なら、その悪い心によい心が与えられるように、またよい人であっても心にはさまざまの不純な思い、自分中心の思いがあるから、それが清められて、より純粋になるように、と願うのが正しいあり方ということになる。
そう考えると、人間は至るところで正しいあり方からはずれているのが分かる。何が究極的なよいことであるのか、分からないうちには知らず知らずに自分中心に考えて行動するのが当然になる。そのこと自体が罪となる。
善の究極は神である。あらゆる清いもの、善きこと、美しいもの、しかも生きて働いているもの、そしてあらゆるものを支配する力をもっているし、万物をも創造し、支えている等々、これほどよいものはない。そうしたすべてのよきものをもった存在が神なのであって、それゆえに、日本の神社でいう神とは根本的に異なっているのである。
このように、だれもが正しい心のあり方からはずれているのがわかったとき、それを正さなければ心の深い平安や幸いはないと感じるようになる。
この人間の深い要求を満たすべく、神がイエスを地上に送って、私たちのそのような心の重荷(罪)を取り除いて下さったのであった。このことは、この詩が作られてはるかに後のことである。

わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てた。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てた。(34節)

これは、この新共同訳の文では分かりにくい。「骨まで朽ち果てる」などといった表現は、現代の文章や会話では、だれも目にすることも使うこともないだろう。今日の私たちには全く違和感がある。
これは、旧約聖書では、骨はからだを支える中心にあるものだから、体の奥深くというニュアンスがあり、ここでは、体の奥まで消耗し疲れ果てた、といった意味なのである。
つぎの英訳の方が分かりやすい。

When I declared not my sin, my body wasted away through my groaning all day long.
RSV
「私が罪を告白しなかったとき、一日中うめき苦しんで、私の体は、弱り果てた。」

そしてその苦しみは、神が私を苦しめているのだと感じた。植物が夏の日照りにあって枯れるように、私の力も失せてしまうほどに衰え、弱ってしまった、という。そしてそのような苦しみは、この詩の作者が自分の罪を深くわからずに、神に告白することもしなかったゆえであった。
ここに、人間の深い苦しみは、だれかによって苦しめられるとか病気の苦しみ、水や食物のないこと、戦争などの苦しみなど以外に、より深いところ、すなわち自分自身の奥にある罪に気付かないところからくるという見方がある。
たしかに、自分の罪を深く知らないときには、他人すなわち家族や周囲の人、あるいは、世の中の人間、政治や時代が悪いからだ、と考えたり、金がないからだ、など自分以外のところに原因があると考えてしまう。そこからは神に真剣に求めることがない。他者への非難の心、裁く心や、体の病気のいやしだけを求める心が奥にあるからである。
このような心が内に潜んでいるかぎり、私たちには深い平安がない。
このことに気づき、罪を告白することで、初めて心の平和が訪れる。そのことをこの詩はみずからの経験として記している。

わたしは罪をあなたに示し
咎を隠さなかった。
わたしは言った。
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦して下さった。(5節)

ここに、この詩の作者の決定的な転回点(ターニング・ポイント)がある。
人間の決定的な問題は、進学でも、就職や結婚でもない。特定の思想を持つことでもないし、何かの賞をもらうことでもない。
この詩の作者と同様に、自分の罪を知り、そこから神へと心の方向転換をなすことなのである。
罪とは正しい道からはずれている状態であるから、究極的に正しい道が何であるかを知らないときには、罪をも感じない。すなわち、時代が変わり、周囲の状況がいかに変わっても変ることのない、真実や正しさ、あるいは愛といったものを知っているのでなかったら、罪を深く知ることはできず、単にこの世の法律的なことに反しているかどうかしか分からなくなる。
そうした永遠に変ることなき真実な存在とは、宇宙を創造された神であるから、そのような神を知らないと罪も分からない。
そして人生の最大の転回点を得るためには、経験とか知識、金などのようなものは何も必要なものはない。ただ、心の方向を転換するだけでよい。この魂の方向転換こそ、この詩が作られた時代からはるか後になって、主イエスが伝道の最初に強調したことであった。

神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。(マルコ福音書一・15より)

神の国とは神の愛によるご支配であり、どんな罪をも赦すことのできる力、すなわち罪の力をも支配するような神の力が近づいてそこにある。だから方向転換をせよ(悔い改めよ)、そしてこの喜ばしいおとずれを信ぜよ、と言われたのである。
その意味で、この詩は、ダビデのものとすればキリストより千年も昔に作られたものでありながら、すでにキリストが宣べ伝えた福音の本質を語っていると言えるのである。
旧約聖書の古い時代では、祭司が牛や羊を殺し、その血を注ぐことによって赦しを受けるとされた。このように、キリスト教の核心である、罪の赦しということは、初めてキリストが言い出したというようなものでなく、とくに詩編においてこのように、罪赦されることがどんなに大きな幸いであるか、それこそが人間の与えられる最大の幸いであることを早くも経験を通して、また啓示を受けて知らされていたのである。
その罪の赦しの福音は、イスラエルの特に啓示を受けた人たちの心の深いところを流れ続けていたが、それがキリストによって完全なものとなった。すなわち、イエスが十字架にかかることによって、そのことを罪の赦しのためと信じる人はだれでも罪の赦しが受けられるという福音となり、特定の民族のものでなく、全世界の民族に与えられた福音となった。そしてこの真理の流れは、永遠の流れとなって現在に至っている。

あなたの慈しみに生きる人は皆(*
あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してありません。
あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。 (67節)

*)「あなたの慈しみに生きる人」とは、原語(ヘブル語)では、ハーシード という語で、ヘセド(慈しみ)という語と関連した語。「敬虔な者」(関根正雄訳)、「神を敬う者」(口語訳)、「聖徒」(新改訳)と訳され、英語では、faithful(真実な、忠実な) (NRS, NJB)という語を用いて訳するのが多い。

罪を深く知らされ、その罪を神に告白することによってこの詩の作者は、長い苦しみから解放され、新しい祈りの生活へと移されることになった。その祈りによって、罪赦された魂は、絶えず新たな力を受けていく。それゆえに、この世の悪意や攻撃、病気やそのほかの苦難など、人生の大水が襲いかかっても、その人の魂の深みには達することがなく、おし流されることがない。
絶えざる祈りによる生活は、神の守りをつねに実感することができる。それゆえ、「あなたこそは、わが隠れ家」と言うことができる。
それだけでなく、この悪の広がる世において私たちも悪の力に覆われそうになるが、この詩の作者は、その闇のただなかで、救いの喜びで囲まれている、という実感を持つことができるようになった。

わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。(8節)

救いの喜びが取り囲んでいるといえるまでに、救いの確信を与えられたとき、その事実を他者に伝えずにはいられなくなる。それがこのように、隣人に対して、このような救いの世界があるということに、目覚めてほしいとの願いをもって勧め、その救いに至る道を証しするようにと導かれる。
他の人に救いはここにある、と確信をもって指し示すことができるためには、本人がそのような深い救いを与えられていなければできない。罪赦されたという救いの深い体験こそ、この詩の作者の原点となり、他者をも教え導くことが自然になされるようになったのである。

神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。(*

*)「神に逆らう者」とは、原語では、ラーシャー であり、これは、「悪い」という意味を持っているので、英語訳ではほとんどすべて wicked(悪しき者) と訳され、他の日本語訳聖書では、「悪しき者」(関根訳、口語訳)、「悪者」(新改訳)と訳される。新共同訳では、「悪い」とは、「神に逆らうこと」だ、との解釈から、「神に逆らう人」というように訳している。
「神に従う者」と訳されている原語は、サッディーク であって、「正義の、正しい」という意味が本来であるから、「義しい者」(関根訳)、「正しい者」(口語訳、新改訳)と訳され、英語訳聖書では、righteous という訳語をあてているのがほとんどである。
「喜び躍れ」と訳された箇所の原語の表現は、「躍る」という語は含まれておらず、「喜ぶ」という意味の二種類の語が使われている。それゆえ、関根訳は、「ヤハヴェにあって喜び、悦べ」と、二種類の「よろこぶ」という意味の漢字を用いて訳し、口語訳、新改訳は、「主にあって、喜び、楽しめ」と訳している。英語訳でも、Be glad in the LORD and rejoice, O righteous, のように、 be glad rejpiceという二種類の「喜ぶ」という意味の言葉をもちいている。


この詩の作者は、苦しい人生の経験を通して、何がこの世で根本問題であるかを深く追求して自らの魂において実感したことを記している。それは、最終的に悪しき者、神に逆らう者は、苦しみ悩みから去ることはできないが、主に罪赦され、そこから主に従っていく者は、この暗い世においても、慈しみで囲まれる、と断言することができたのである。
すでにこの前にも、「主は救いの喜びをもって、私を取り囲んで下さるお方!」との喜ばしい声をあげたのであったが、さらにもう一度、主に信頼する者は「慈しみに囲まれる」と強調している。このように、二度までも、慈しみや、喜びで囲んで下さる、という体験的な事実を証ししているのである。
ここにいかに、この詩の作者がこのことを大きな体験として受け止めているかがうかがえる。
このように、絶望的な苦しみと悩みにさいなまれていた一つの魂がいかにして、そこから解放されていくのか、解放された人は、さらにどのようなところへと導かれていくのかをこの詩は鮮やかに示している。
暗闇や疑い、苦しみのもとは、自らの罪にあり、それに気付かないところにあり、それが取り除かれないゆえに苦しむのであった。そこから目覚めて、罪を知り、神に告白するとき、赦しを受けた。
この詩の作者にとって、罪が赦される、という言葉そのものはなじみ深いものであったであろう。イスラエル民族は世界で最初に、唯一の神が存在することを知らされた民族であり、動物の血を注いでする罪の清めの儀式は広く知らされていたであろうからである。
しかし、言葉の上で知っている、聞いたことがある、儀式は知っている、ということと、実際に罪の赦しを受けるということとは全く異なることである。罪赦されて初めて神は愛であり、愛の神だと分かる。しかし、単に言葉のうえで知っていても、聞いたことがあっても、それでは神の愛は分からない。
この詩の作者は、みずからの魂のうちでなされた深い実感があって、初めて罪の赦しということがいかに大きなことであるかを悟ったのであり、そこに最大の感動を覚えたゆえに、このような詩を書かずにはいられなかったのである。

新約聖書において、罪の赦しと神の愛は、つぎのように深く関わっていることが記されている。
放蕩息子が、父親の財産をもらって遠くに行ってしまい、それを遊びに使い果たし、食べ物もなく、生きることも難しくなった。そのとき初めて自分の大きな罪を知り、どんな仕打ちを受けてもかまわない、方向転換をして父のもとに帰ろうという気持ちになって帰途についた。家に近づいたとき、父親は、走り寄ってその放蕩息子を首を抱いてこのうえない喜びを表し、よい服を着せてさらに子牛を料理しかつてしたことのないごちそうを与えた。それは「死んでいたのに生きかえったのも同然だから」という理由からであった。
この有名なたとえで、主イエスは、罪を犯してきた人間が、悔い改め、神への方向転換をするということが、いかに喜ばしいことか、神が特別にそのことを喜ばれるということを、印象的な手法でたとえで語っておられる。それは父なる神のお心を最も深くわかっておられた主イエスご自身の思いでもあったであろう。
さらに、この放蕩息子のたとえの直前に記されているのが、やはり悔い改め(神への心の方向転換)がいかに、神の世界にとって大きな喜びであるかということである。
それは、羊の一匹がいなくなったとき、九九匹の羊をおいてその一匹を探しまわるだろう。そして見つかったら、友人や近所の人たちを呼び集め、共に喜んでくれ、と言うだろう。悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要などないと考えている九九人の人たちについてより大きな喜びが天にある。
また、銀貨一〇枚を持っている女が、一枚の銀貨をなくしたとき、見付けるまで探しまわるだろう。見付けたら、友達を呼び集めて、「なくなっていた銀貨を見付けた。ともに喜んでください」というだろう。このように、一人の罪人が悔い改めたなら、神の天使たちの間に喜びがある。(ルカ福音書十五章より)
これらのたとえで、主イエスは、罪からの悔い改め(神への方向転換)が、人間にとって根本的に重要であることを示し、それゆえに、その罪を告白し、心の方向転換をした人には、神も天使たちも特別に大いなる喜びがあると言われた。
そして、この喜びこそは、詩編三二編の後半で強調されている次のような喜びに通じている。

あなたは、救いの喜びをもって私を囲んで下さる方
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
神に従う人よ、主によって喜び、悦べ。
すべて心の正しい人たちよ、喜びの声をあげよ。(詩編三二・711より)

神は、このような喜びを(これがダビデのものとすれば)主イエスより千年ほども昔からすでに、一部の真実な信仰者に与えていた。それが、一種の預言となり、このような喜びの世界があるのだということが、ずっと指し示されてきたと言えよう。そして主イエスが、その悔い改めと罪赦される喜び、さらにそこから聖霊が与えられ、新たな力が与えられて生きるという道を完成させ、以後の人類の歴史を通じて大いなる道として開かれたのであった。


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