平和主義と啓示  2006/10

北朝鮮が地下の核実験をしたという。それに対して、自民党の幹部が「日本が攻められないようにするために、その選択肢として核(兵器の保有)ということも議論としてある。議論は大いにしないと(いけない)」と述べた。また、外務大臣が、核兵器を持つ議論をやるべきだといったニュアンスの発言をし、さらに首相も、こうした発言に対して、「議員個人の発言まで(抑制できない)。日本は言論が自由だ」として暗に認めるようなことを言っている。こうした議論の背景には、自民党がずっと以前から持ってきた核武装に関する考え方がある。
岸信介は、今から四〇年以上前に、すでに防衛のため核保有は可能と述べ、佐藤首相は「日本の核保有が妥当と確信する」が本音だったいう。
 また、安倍首相も、二〇〇二年に当時官房副長官であったが、「小型であれば原子爆弾の保有も問題ない」と発言して問題になったことがあるし、当時の福田官房長官も非核三原則の見直しにつながる発言をしている。
このように、核武装ということは、自民党においては相当以前からの考え方であったのがわかる。戦前に戦艦大和のような世界一という巨大な軍艦を建造して、他国への攻撃に備えるという発想はかたちを変えて、核武装への願望という形となって、自民党に流れていると言えよう。
しかし、その世界一の戦艦も何等日本を守ることはできなかった。かえって大和に象徴されるそうした武力増強路線は世界戦争への道を開くものとなり、おびただしい人の命を奪う事態へと進んでいったのである。
北朝鮮が核兵器を持つ、だから日本も持つべきだ、それは一見わかりやすく見える議論である。自分と相手国だけを見つめての判断だからである。外側に現れた現象をみて、目先の判断で事柄を決めようとする。それがこれからの世界全体にとってどういうことを意味するか、過去の歴史はそのようなことに対してどのような方向を指し示しているかというような大局的な視野を全く持たないのである。
目に見える現実だけをこのように見つめるだけでは、決して真理は見えてこない。

死んだ人間のからだという目に見えるものだけを見ていたら、復活などという真理は到底入ってこないし、無惨にも血が滴り落ちるほどに鞭打たれ、そのあげくに、十字架ではりつけられたキリストだけを見ていれば、どこにもそれが罪の赦しだとか勝利などとは見えてこない。
平和主義の考えも同様である。他国のミサイルや核兵器などとその威力だけを見ていたら、恐れを抱いてそれらを自分たちの国も持つのが当然だ、という考えは起こっても、だから武力はいらない、といった考えは生れない。
復活にしても、十字架による罪の赦しの福音、あるいは平和主義などの真理は、この世的には到底受け入れられないのは共通している。それらは、二千年前からキリストがあざけられ、またパウロも言っているように、世間の人間からは愚かなものと見えるのである。(コリント一・18
平和主義は聖書のキリストの言動に深く根ざした考え方である。
それゆえ、それは人間の議論や思索の結果でなく、天からの啓示なのである。
それは、愛の神が生きておられるとか、復活や十字架による罪の赦しの真理、あるいは、キリストが神と同質であると知ること同様に、次の言葉があてはまる。
「あなた方にそうした真理を現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ福音書十六・17


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