詩の世界から 2006/10
水野源三の詩から(*)
○生かされている
梢で百舌が鳴き
庭に菊が香る
昨日も今日も
私は生かされている
神様に愛され
人々に愛されて
(*)水野源三(一九三九~一九八四)九歳のときに、赤痢にかかり、命はとりとめたが全身が動かなくなり、言葉も出なくなった。後にキリスト信仰に導かれ、まばたきをもって、母親が示す五十音図の単語を示して詩を作るようになった。
彼の詩は、新聖歌には、「朝静かに」三三四番、「もしも私が苦しまなかったら」二九二番が収められている。
静かな日、寝たきりの作者は、近くの木のこずえに鳴くモズの強い呼びかけのような声を聞く。それと対照的に静かに秋を表して咲いている庭の菊。その色彩が心に喜びを与え、手にとるものには香りをもって迎える。私たちが神に深く結びついているほど、なんでもない普通の日常的なことの中に、深い神の愛を感じるようになる。神は万事にいのちを与えるお方であり、私たちの心の感性にも鋭敏さを増し加えるからである。
そのような神の御手のわざである自然の生きた姿に触れて、自分もまた神の生きた御手によって支えられ、生かされているのに改めて気付かされる。神の愛と、人の愛という最も大切なものによって包まれている自分を新たに見つめて感謝へと導かれる。
○キリストを知りたい願い あの胸に 起こしたまえと ひたすら祈る
・私たちがいくら言葉で語っても、また働きかけても、キリストを信じ、罪の赦しを受けるということ、そしてそこに神の愛を実感できるようになるのは、神ご自身の御手がのぞまなかったらできないことである。主よ、そのようにあの人の魂に触れてください、という願いこそ、他者への主にある愛のあらわれだと言えよう。私たちの願いもまたこの歌の願いと重なる。
テニソンの詩から
私は、これまでに出会ったものすべてのものの一部分である。(「ユリシーズ」第18行 )(*)
I am a part of all that I have met.
老年になった古代の英雄(オデュッセウス)が、その年に至るまで数々の劇的な経験を経てきたゆえに、自分はこれまで出会ったあらゆるものからいろいろなものを得て、それが現在の自分を形作っているというのがこの言葉の直接的な意味であるが、この短い言葉はさまざまの人によって引用されてきた。
私たちは自分の能力や努力で現在を勝ち得たのだ、などと言ってはならない。私たちが過去に出会ったあらゆる人、書物、経験などが私たちの内に流れ込み、それらが現在の私たちを作り上げている。自分の努力で成し遂げたのだ、という人がいるかも知れない。しかし、そのように仕向けた人や書物、あるいは直接的な人との出会いの経験があったのであり、それによって努力していこうとする気持ちになったのである。
そしてその努力の過程でもさまざまの人と出会って導かれていったのである。
この詩句ははじめの方にあるが、終り近いところに次の言葉がある。
さあ、友よ、
さらに新しい世界を求めるのに遅すぎるということはない。
出発するのだ、整然と部署につき、
波音響く海を超えて行くのだ。
私の揺るがぬ目的は、死に至るまで、
星の沈む西の海のかなたまで、
進んでいくことなのだから。
…
時と運命によって弱くなったが、我が意志は固く
戦い(努力し)、求め、見出していく、 屈することなく。(「ユリシーズ」より)
…Come, my friends,
'Tis not too late to seek a newer world.
Push off,and sitting well in order smite
The sounding furrows; for my purpose holds
To sail beyond the sunset ,and the baths
Of all the western stars,untill I die.…
…
Made week by time and fate,but strong in will
To strive,to seek,to find,and not to yield.
(*)テニソン(一八〇九~ 一八九二)イギリスの代表的詩人の一人。一八五〇年ワーズワースの後継者として桂冠詩人となった。 このユリシーズとは、ホメロスの作と伝えられるオデッセーに登場する人物、オデュッセウスのラテン名ウリッセースの英語読み。
ここに一部を引用したのは、そのオデュッセウスという人物をタイトルにした短い詩。テニソンが親友の死の少し後に書いたもので、特別に親密であった友の死という精神的な打撃にもかかわらず、前進しようとする力強い心を、古代の老英雄に託して表現したもので、年老いても家族との安全な生活にひたることなく、人生の戦いに勇敢に立ち向かっていき、さらなる未知の世界へと踏み出していくという内容になっている。
私たちの目的地は神の国であり、いかに年老いても、この世の荒波を超えたところにある神の国を目指して進むことにあり、それを目指すのには遅すぎるということはない。それぞれの部署(与えられた状況)に就いて、そこから主の導きによって出発し、進んでいくのである。