リストボタン休憩室    2006/11

レクイエム
クラシック音楽とくに、キリスト教音楽を愛好する人たちによく聴かれているのは、レクイエムという音楽で、特にモーツァルトやフォーレ、ヴェルディのものが有名です。レクイエムという言葉は、「鎮魂曲(ちんこんきょく)」と訳されています。しかし、鎮魂とは、「魂を鎮める」 ということで、これは、死者の魂がそのままにしておくと、祟りや自然災害などを起こすというように信じられていました。そのために、遺族たちがいろいろな供え物を捧げるなど儀式を続けて、それを鎮めるということが行なわれていたのです。これは現在でも、死者に食物を供えるのはそうした意味があります。とくに、災害や戦争、事故など突然の死においては、肉体と魂が突然切り離されるので、魂が不安定で落ち着き場を求めて、他人を苦しめたり、天地異変とか疫病の流行となったり、作物の害虫がはびこったりすると考えられていました。そうした、落ち着き場のない魂を、中世では、御霊(ごりょう)、怨霊(おんりょう)、物の怪(け)などと言い、近世では、無縁仏(むえんぼとけ)、幽霊などといいます。
こうした魂を鎮めるのが、鎮魂(たましずめ、ちんこん)ということであり、これはキリスト教とは全く無縁の日本の古代からの宗教的考えに由来するのです。
レクイエムという語は、ラテン語の requiem であり、これは、requies (静まること、休養)の対格(英語でいえば、目的格)の形です。なぜ、対格なのかと言えば、レクイエムという音楽は、「永遠の安息を彼らに与えたまえ 、主よ」という言葉から歌い始めるので、安息という語は対格となります。そしてこの歌の最初の出だしが原文では、requiem aeternam dona eis,… となっているからです。この語は、re (繰り返しや強調を意味する接頭語)と、 quiem から成っていて、後者は、ラテン語の quiescere(クイエースケレ 休む)、 quies(クイエース 休息、安静)などの関連語で、休む、静まる という意味を持っています。これは、英語の quiet(静かな)の語源にもなっています。
このようなことから、レクイエムという言葉は、「死者に永遠の安息が与えられますように」、という祈りのなかの、「安息」と訳された原語なのです。 キリスト者は死ねば、主イエスと同様に神のもとに帰るという信仰があります。神のもとでの永遠の安息を祈り願うのがこの、レクイエムという音楽なのです。
それゆえ、魂が荒ぶって、人間に祟り、病気や天地異変などを起こすからその魂を鎮める、という意味の鎮魂とは、意味が全く違うのです。
このように、日常的にごく普通に音楽の世界で使われている語が、本来の意味と全く違う意味の言葉に訳されてそれがマスコミでも文化人の世界も使われています。
これも、こうした鎮魂といった言葉の意味について学ぶところがなく、だれかが訳せばそのまま間違った意味のままに広がっていったといえます。

晩秋の山野
秋になると野山には、ヤマシロギク、リュウノウギク、ノコンギク等々のキク仲間や、ツリガネニンジンやリンドウなどのようなさまざまの美しい野草が花開きます。 そしてさらに秋が深まってくると、人間は、寒さによっては動きが鈍くなってしまうだけですが、植物は、晩秋になるにつれ、その寒さによってカエデのなかまやヤマハゼなどの葉は美しい赤色となり、さらにクヌギやコナラなどは黄色や褐色のさまざまの変化に富んだ色となります。
また、冬の寒さによって水粒は美しい氷の結晶となって雪を降らせ、山々は真っ白い姿となって見る人の心を清めます。春の温かさによって芽生え、花咲き、その新緑と花の美しさを繰り広げます。夏の暑さや雨によって植物たちは成長し、果実や種を成熟させます。
雨風も暑さ寒さもすべてを取り入れて、植物はその多様な姿を生み出しています。
使徒パウロは、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っている。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている。」と言っていますが、これはどんなことが降りかかってきてもそこから何かよきものを受けとっていき、実を結ばせていくことと似たところがあります。


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