到来(アドベント) 2006/12
主イエスが伝えたことを一言で表すと「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マタイ四・17)ということであった。
天の国ということは、神の国と同じであり、主イエスが言われたことは、神の御支配は近づいた、もうそこに来ている。という意味である。
この世はだんだん暗いものが近づいているのでないか、環境問題や世界の核兵器の増加、テロや人間不信、戦争の危機等々、ニュースの報道だけを見ている
と、そのような気持ちになりかねない。
しかし、聖書はそうした闇が近づいていると見えるこの世のただ中に、「神の国が到来したのだ!」と、力強く私たちに告げているである。
いつ来るのか、どこにそのような神の国があるのか、と問う人に対して、主は、「あなた方のただ中に、すでに来ている」と言われる。(ルカ福音書十七・20)
新約聖書にはこうした到来の足音が満ちている。主イエスの誕生そのものが、神の国の到来なのである。そのことを受け入れるとき、さらにこの世界に神の国が来ますように、と祈り願うようになる。
それゆえに主イエスは、何を祈るべきかとの問いに、「御国が来ますように」との祈りを、私たちの究極的な願いであると示されたのである。
クリスマスの前の数週間をアドベントという。この語の原意は「到来」ということである。日本語では「待降節」と訳されるが、降誕を待つというのでなく、すでにキリストが到来して下さっていることを感謝する日なのであって、クリスマスとは、人間の誕生日祝いのように、イエスに向かって「誕生日、おめでとうございます」という日なのではない。
主イエスがすでにこの世界に来て下さっていることを覚え、「ありがとうございます。」と心からの感謝を捧げる日なのである。
さらに、そのキリストが一層私たちの一人一人の魂の内に、世界の人々の集まりの中に来て住んで下さるようにと、待ち望み、祈り願う時なのである。
キリストはすでにこの世に来て下さっているゆえに、私たちはただ心の扉を開けばよいのである。
そしてその「到来」を待ち望む心は、どこまでも広がっていき、世の終わりにキリストが再び来られる、との約束が成就しますように、との祈りへとつながっていく。キリストがこの世に再び来られること(再臨)のことも、アドベントというのも、私たちの心が見つめるべきものが、キリストが来られること、であるのを示すものである。
夜空に輝く星、夕日の輝かしい姿、茜色に染まった朝焼け、野草たちの花の美しさ、大波の打ち寄せる音とその姿等々、身の回りのさまざまの自然の姿は、神の国がそこに来ているのだということを指し示すものだと感じられてくる。
いつどのような時代にあっても、私たちが心の耳をすませば、時代の崩壊の足音ではなく、神の国の到来の静かな響きが聞こえるように、この世は造られているのである。