リストボタン今日のみ言葉 153 「愛は造り上げる」 2007.02.13    2007/2

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。(新約聖書コリント81
Knowledge puffs up, but love builds up.

ここには、簡潔であるが、生きる上での重要な真理が記されている。
だれでも、知識を求める。家庭での絵本などから始まり、家庭や保育園での子供同士の遊びなどで知識を増やし、さらに学校にいき始めると、さまざまの知識が増え続けていく。そしてそれらの知識は学校の成績の向上とつながる。それはより難しい大学への入学となり、そこから大きい会社への就職もつながっていく。 知識を持つことはこのように、各人の将来に大きな影響を持っている。 こうして、人は親、保護者、学校の先生、まわりの人々によって知識こそは最重要だというような気持ちになっていく。
そして、いろいろな知識はたしかにきわめて重要である。英語の知識があれば、外国のすぐれた書物に触れて、視野を広げ、深めることができる。
それにもかかわらず、知識は、それだけでは、人間の魂を決して深く満たすことがない。それは、知識とは無限にあって、知れば知るほど自分がいかに知らないか、ということを思い知らされるからである。 あまり知らない人が、かえって自分は何でも知っているように思い込むのものである。
それ自体が深いところで魂を満たすものでないからこそ、知識を多く持っているものは、自慢とか高ぶりといった形で外に現れ、他者から認められようとしたり、優越感で満足しようとする傾向が生じる。
しかし、愛は人を造り上げるという。この原語(ギリシャ語)は、オイコドメオー (oikodomew)で、家(オイコス oikos)という語から作られた語であり、「家を建てる」というのが原意である。それで、英語訳では、 build を使っている。
ここでいう愛はもちろん、普通に考えられている親子や男女、友人間同士の愛でなく、神の愛を指している。神の愛とは、無差別的でたとえ自分に害悪をなすような者、自分を無視するような者に対してすら、及び、彼らが本当によくなるようにとの祈りが込められている。
そのような愛だけが、人間の魂に働いて、建てていく、造り上げていく。
かつて、戦前の日本は、八紘一宇(はっこういちう)と称して、世界を一つの家に建て上げるのだと教えていたが、そのような主張は砂上の楼閣であったから、太平洋戦争の敗戦とともにたちまち崩れ落ちてしまった。
一人一人の人間だけでなく、人間が集まった組織、団体、国家においても知識や権力などで建て上げよう、造り上げようとしても、時が来たら簡単に崩壊する。
しかし、神の愛によって建てられたものは、崩れない。キリスト教信仰をもつ集まりは、全体としてみるとき、神の愛によって建てられてきた。それゆえに、この二千年間という長い期間を経ても、部分的に崩されるようなことはあっても、全体として世界ではキリスト教の真理とそれに結びつけられた人々の集まりそのものは、決して崩れていくことはなかったのである。
聖書も神の愛が建て上げたものだから、数千年も壊されることなく、続いてきたと言えよう。
私たちの魂も、神からの愛を受けてはじめて建てられていく。私自身、どんなに学校での勉強を重ねても崩れていくものを感じていた。神とキリストを愛を実感するようになってはじめて、自分のうちに崩れていかないものが建てられていくのを感じるようになった。
人間関係も同様であり、神の愛がそこにあるとき、相互に建て上げられ、永続的なものとなる。人間的な愛は一時的には立派に建てていくようにみえるが、時が至ると何か予期しないことが生じて崩れ去るものである。
神の愛は、触れるものを造り上げ、建てあげていく。神の愛を少しでも受けることによって、敵対する人にも恨みとか憎しみでなく、その人の魂のために少しなりとも祈りの心が生れる。何かよきものが造り上げられる。
神は愛である。そしてこの世、この宇宙は神が創造し、現在も支えておられる。それゆえに、この世界全体は神の愛がもとにあり、常に建て上げようというご意志の中にある。たしかに神の国に向かって建て上げ、新しい創造へと進んでいるのである。
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野草と樹木たち
スイセン 小松島市日峰山 2007.2.7
スイセンは、冬のさなかに咲き続ける花です。この写真は、海岸のそばから数キロにわたって続いている高さ200mほどの山(日峰山)にあるわが家近くに半野生化して毎年増えているものです。夏から秋にかけては、入り込めないほどの草や低木が生い茂るところであり、可憐な花が増えていくなどとは到底思えないような場所であるにもかかわらず、このような美しい花を毎年咲かせるところに、自然の不思議さを感じます。 神の愛がこのような品格ある花を造り出していると言えます。この純白の花びら(花被片)と、中央部の黄色の副花冠、緑の葉、全体の姿、そしてよい香りは神の愛が私たちに向けられた一つのかたちだという気がしてくるのです。


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