賞味期限のないもの 2007/3
不二家という一九〇八年創業という古い菓子会社が、期限切れの原料を使ったということで、大きな問題となった。
食品において、期限という言葉のイメージは、それを過ぎるとだめだという感じを持たせる。例えば、入学願書を出す期限がすぎたと言えば、もう出しても無駄、受けとってもらえない。賞味期限が過ぎた、というともう食べられない、というイメージを持つのは当然である。しかし、入学願書を出す期限というのと、賞味期限というのとは全く異なる内容を持っている。
(なお、消費期限とは、腐敗しやすい食 品、弁当やパンなどについていう)
賞味期限とは、例えば、保存テストを行って一〇か月間となった場合には、その七十%の期間とされている場合が多いから、この食品では、七か月を賞味期限とする、ということになる。
しかし、保存テストでは、まだ三か月も安全なのである。そんな安全なものを捨ててしまうというのは、そのこと自体が間違っていることではないだろうか。
食事がまともになくて、飢えている人たちは八億人もいるという状況を見つめるならば、そのような贅沢な基準自体が、大きい問題である。世界の遠い国と考えるからきちんと考えられないのであるが、例えば、一つの家族で、その家族内でひどい差別が行われていて、ある子供はまだまだ食べられる食品を捨てているのに、ある子供は飢えて死にそうだ、という状況を考えるなら、そのようなことは明らかに間違ったことだ、と誰でもが分かる。
しかし、世界の国々のことはあたかも関係ないかのように、日本だけを考えるからそのように食べられる食品を大量に捨てていくのである。
日本人が毎日捨てている食品は、世界食糧計画日本事務所、農水省などのデータによると、三百万人分もの食品を捨てていることになるという。また、毎年日本で捨てられている食品は、年間千百万トンを越える膨大な量にのぼっているという。(毎日新聞三月十七日付の記事)
信じがたいような数字である。
これらはみんなエネルギーを使い、人間も捨てる食品のために労働していることになり、せっかく生産した原料の農作物なども無意味に捨てられていく、ということになる。
このように、口から取り入れる食物は実に贅沢に使っている日本である。
しかし、見方を変えて、心に取り入れるべき目には見えない食物はというと、対照的に実に多くの人たちが飢饉の状況になっている。今から二千五百年ちかく前の預言者であったアモスという人が次のように語った。
…見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。(アモス書八・11)
この言葉は、はるか昔の日本がいまだ文字もなく、書物をも持たず、どのように生活していたのか分からないような時代に言われた。そして、現代を見るとき、まさに、日本はパンは豊かで膨大な量を捨てているし、水も豊かである。しかし、神の言葉を聞くことのできない飢えがじわじわと広がっている。神の言葉、それは真理の言葉であり、いのちの言葉であり、魂を深く満たすものであり、揺るがない土台となるものである。
この神の言葉を魂のパンとして取り入れることをしないから、人間の心は落ち着かず、それを他者へのいじめとか、ゲーム、飲食などで忘れようとする。
日本の憲法九条には、神の言葉から流れ出た味わいがする。 主イエスが、敵を愛せよ、迫害するもののために祈れ、剣を取る者は剣によって滅びると言われたことに通じるからである。
そうした真理の味わいをもったものを投げ捨てようとしている。それはこの旧約の預言者が言っているように、神の言葉を聞くことのできぬ飢饉のような状態になっているからである。
決して武力をもって紛争解決をしようとしない国は必ず、武力に頼ろうとする国とは大きく異なる働きができるはずである。
現在の憲法九条には、賞味期限といったものは存在しない。むしろ他の国々の武力を肯定する憲法こそ、これからの時代にはいっそうその無力さを表していくことであろう。
それは、「賞味期限」が永遠である、神の言葉に根ざしているからである。
新聞や雑誌、あるいは遊びのテレビ番組などは、賞味期限はわずか一日というのが多い。一日すぎたらもう読む気がしない。一度食べたら(読んだら)食べたくない、もう読みたくなくなるのである。
しかし、聖書の霊的な「賞味期限」は、永遠であり、主イエスが言われたとおりである。
…天地は滅びる。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。(ルカ福音書二十一・33)