憲法第九条の精神は変えることはできない 2007/5
憲法を変えようという人たちが増えている。しかし、その多くは、古いものは変えたらいい、といった単純な発想である。これは例えば、家でも、車や衣服など生活用品でも、古くなったら変えるのは当然だといったごく普通の常識的な思いと共通している。
このような考えが成り立たないのは、文学や哲学、宗教、音楽あるいは美術などの分野である。例えば、ギリシャ哲学のプラトンの書物に記された真理、ダンテやゲーテ、シェークスピア、トルストイなどの文学にこめられた内容、バッハやモーツァルトなどの芸術が持っている真理は古くなったから変えよう、などという人はいない。真理であればこそ、時代やその状況にかかわらず永遠的な内容を持っているのである。
最も影響力がある書物は聖書であることはこの二千年の間変わっていない。聖書の内容を変えようなどという試みは大きなうねりになったなどということは全くなかった。十九世紀にアメリカで生れた新興宗教であるモルモン教とかものみの塔、あるいは韓国で戦後につくられた統一協会なども、聖書の内容を変えようとか、聖書に似て全く異なるものを聖書に置き換えようとする宗教である。しかし、それらによっても聖書は変えられなかった。現在においても聖書の内容を変えて、それを新たな聖書としようなどとする人が生じても、それは結局ある期間内のまたある範囲の人々に留まるであろう。
このようなことを考えてもすぐに分かるように、古いから変えるべきだ、ということは間違っているのである。真理にかかわることは、古いものがかえって多く保持していることも多いのである。
憲法を変えようとする人たちは、現在の憲法の内容がさまざまの面で不要になったり、改正すべき間違いがある、というためでない。とくに第九条の第二項を変えようとすることが中心的な目標である。それをいわばあいまいにして、環境問題とか伝統、文化、愛国心の記述、成立の過程などを問題にしていかにも多くの改正せねばならないことがあるように言っている。
憲法を変えようという人たちがよく主張している、環境問題への重視などは現在の憲法のままで、いくらでも対応できるのである。
憲法を変えたほうがよいという人たちの多くは、とくに若者たちはどこが問題なのか、憲法を変えないとできないのか、現在の憲法のままで法律を新たに作ったら対応できるのではないかなどを考えないで、ただ、六十年も経ったからという漠然とした理由を言うのが多い。
そのことは、最近毎日新聞が行った調査でも表れている。改正賛成の理由は「時代に合っていない」四九%で「一度も改正されていないから」二八%という。この二つを合計すると、七七%になり、これは要するに、どこが古いのかよく分からないが、とにかく古い憲法だから新しいのがよい、といった単純な理由なのである。
このことに関して、今から五〇年余り以前に書かれた「日本の憲法」という本で、著者の末川博が、次のようにのべている。
「…憲法改正論者の本当にねらっているところは、戦争を放棄して戦力を保持しないということに関する第九条の規定を改廃しようとするところにあることは疑いないけれども、かれらは、この点をぼかしてなんとかカモフラージュしようとあせっていて、いろいろの添え物を付け加えるとともに、現在の憲法が出来た成立の過程を大げさに取り上げて、国民の関心を別の方向にそらそうとつとめていることを知り得るであろう。」(「日本の憲法」一二七頁
末川博著 一九五〇年)
戦後十年の頃であり、今から半世紀以上前に書かれたこの本で言っているように、憲法の特に第九条を変えて軍隊を持つ国家にしようというのは、この本の記述を見ても分かるように、戦後からずっと今日まで続いている議論なのである。
そして今の憲法を変えようとする動きにおいても、末川が言っているように、やはりじわじわと環境問題とか愛国心、文化と伝統を重んじるとか道徳心を重んじるといった内容を付け加えて何となく新しいよい憲法にするのだ、といった気分にさせてきた。
そうしたいわば助走の段階を経て、現在の首相になってから、なんとしてでも、九条を中心として憲法を変えるのだ、という本音を真正面から打ち出してきた。安倍首相は「時代にそぐわない条文で典型的なものは九条だ」としていて、改憲の中心が九条にあることを明言している。
それゆえに、戦後最も九条が危機に陥っていると言える。
しかし、九条の精神は古くなったり押しつけとかいったものでなく、真理そのものに根ざしている考えなのである。真理は人間が権力や武力で押しつけたりできない。また、排斥したり滅ぼすこともできない。真理そのものがある力をもって私たちに迫ってくるのである。
これは、例えばキリストは、時の指導者たちの考え方に合わないとして最大の侮辱と苦しみを与えられた末に殺されるに至った。しかし、彼が持っていた真理そのものは殺されるどころか、その後世界に広がっていった。
このことと同様に、憲法第九条の精神は真理に根ざしたものであるゆえに、いかに自民党や現在の首相が変えようとして、そしてもしも将来変えられることがあったとしても、その精神そのもの、その方向性は消し去ることはできないのである。
私たちが第一に考えるべきは、表面的な時代状況にまどわされて、時代に合っているかどうかを第一にするのでなく、時代を超えた真理に合致しているかどうかなのである。
いまから六十数年前の太平洋戦争の時など、平和主義を主張したりすれば、非国民とののしられ、逮捕されるほどの犯罪であった。しかし、敗戦後は一転して日本の常識となった。こうしたことでも分かるように、時代状況に合わせるなどということは、真理に背いて大いなる誤りを犯してしまう危険性を持っている。
現在改憲論争の中心となっている憲法第九条が、どのようなところから流れてきた精神なのかをたどってみたい。
日本が敗戦となった一九四五年に作られたのが国連憲章である。その第二条の3~4項は次のような内容となっている。
3 すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
4 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
このように、これは日本の敗戦の直前六月二六日にサンフランシスコで署名され、十月に効力が生じている。この内容は、日本の憲法の第一項と響きあう精神を持っている。
日本の憲法九条を次にあげる。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
この憲法第九条は、直接的には、第一次世界大戦後にパリで締結されたパリ不戦条約(*)に影響を受けていることがうかがえる。その文面を比較してみたい。
(*)一九二八年八月二七日にアメリカ合衆国、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、日本など十五か国が署名し、その後、ソビエト連邦など六三か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ不戦条約と言われる。
第一条 締約国は国際紛争を解決するための戦争に訴えてはならないものとし、さらに国家が、その政策の手段としては、戦争を放棄することをそれぞれの国民の名によって厳粛に宣言する。
この条約の精神が憲法第九条にも流れ込んでいると分かる。
こうした平和に関する考え方はさらにさかのぼると、一七九一年のフランス憲法にも共通した内容が規定されている。
「フランス国民は征服を行う目的で、いかなる戦争を企図することも放棄し、かつ、その武力をいかなる人民の自由に対しても決して行使しない」(第六編一条)
この頃、哲学者カントの「永遠の平和のために」(一七九五年)という著書が出ている。そこに、現在の国連のような組織の必要性が説かれていて、それが国連の創設にもつながっている。そして、その著書の第一章には、次のような「常備軍の廃止」という項目がある。
「常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」
なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。
日本の平和憲法は、「いかなる戦力をも持たない」という明確な条項を持っており、カントが説いているように、常備軍も廃止するというのが本来の意図であった。
これらの他にも、思想家エラスムス(一四六七?~一五三六年)の平和論などが知られている。その「平和の訴え」には次のような記述がある。
…大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和への悲願を持っている。ただ、民衆の不幸の上に財産や権力を得ておごり高ぶろうとするほんのわずかな連中だけが戦争を望んでいるにすぎない。こういう、一握りの邪悪な連中のほうが、善良な全体の意志よりも優位を占めてしまうということが、果たして正当なものかどうか、皆さん自身で十分に判断していただきたい。戦争は戦争を生み、復讐は復讐を招き寄せる。しかし、好意は好意を生み、善行は善行を招くものなのである。(76節)
エラスムスは、キリスト者としてキリスト教会の分裂をくい止め、キリストにある平和の実現のためにエネルギーを注ぎだした人で、この著書は近代最初の平和論の古典とされる。
直接的にキリスト教の真理を土台として戦争に反対したことで、後に世界的に広く知られることになったのは、キリスト教の一派のクェーカーであった。一六六一年頃、すでに彼らの指導者が戦争はしないのだという、公の宣言をしている。(*)そして、以前の「いのちの水」誌に書いたように、トルストイはこのクェーカーの非戦主義の主張に強く共感をもっている。
(*)「クェーカー三〇〇年史」ハワード・ブリントン著 二一〇頁
このような平和論や平和の主張をさらにさかのぼっていくと、クェーカーやトルストイらの根拠ともなっている新約聖書にたどりつく。新約聖書では、キリストや最大の使徒パウロやペテロ、ヨハネたちは武力による戦争というものは一切指示していない。むしろ主イエスはありとあらゆる誤解や中傷、攻撃に対して全くの非暴力を貫き、自らが十字架にかかるということまでされた。
こうしたキリストのあり方こそは、究極的な人間の目標となっている。
そしてさらにこの非戦ということ、武力を用いる戦争は廃止されるべきということは、キリストよりはるか昔の旧約聖書のイザヤ書ではっきりと預言的に記されている。
…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・4)
この言葉は、ミカ書という別の預言書にもほぼ同様なかたちでおさめられているのも(*)、このことの重要性を暗示するものと言えよう。
(*)… 主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(ミカ四・3)
ミカという預言者はイザヤと同様に今から二七〇〇年ほども昔の人である。このように単にひとつの国が武力を持たなくなる、というのでなく、はるか遠くの国々すなわち世界の国々が神によって裁かれ、武力を捨てて平和のための道具(ここでは農具)にすると預言されている。
至るところで民族や国同士の戦いがあり、常に大国が小国を滅ぼしたり従属させたりしているのが普通の状態であったときに、この預言書に言われているようなことはまるで空想であるとしか考えられなかっただろう。しかし、アメリカのキング牧師が、「私には夢がある」という有名な演説で述べたように、現状がいかに絶望的に見えても、そうしたあらゆる表面の状況のなかに神の啓示は現れる。
この預言書イザヤやミカが生きていた時代には、周囲には全くこのような、武力のなくなる世界が存在しうるとか、それが神の最終的なご意志であるなどということは、考えられないことであった。無から有を生じさせる神は、このような政治的社会的な思想に関するようなことにおいても、時代をはるかに越えて究極的な真理を啓示されるのである。
このような武力を持たないのが究極的理想であること、それが人類の歴史上で最大の世界戦争となった第二次世界大戦で特に多くの人々を殺傷し、また自らも史上初めての核兵器を二発投下されて科学技術の発達した現在において戦争がいかに悲惨な結果を招くかをまざまざと示された日本において、この武力を持たないという理想を明白にかかげた憲法が現れたのである。
これはこうした背景を持った日本であったからこそ、その敗戦からたかだか八〇年程昔の江戸時代においては人権とか平和などおよそ考えることもされなかったような差別と抑圧に満ち満ちていた国家であったにもかかわらず、その日本に平和においては最も先進的な憲法が与えられたのであった。
こうした歴史の流れのなかで与えられた憲法であるゆえに、それに固守することは世界にその到達点を指し示すという、他の国ではできない役割を果たすことができる。
もし、この憲法を変えて普通の国のように軍隊を持つ国としてしまったら、軍備を必要に応じて平和のためと称して外国にも派遣し、防衛と称して相手の国が攻撃する可能性が高いといってアメリカがイラク戦争を始めたように先制攻撃をするということになるであろう。
とくに日本は科学技術や経済の高度に発達した国であり、しかもそれを軍事に用いることを企業の側も密かに待望しているところがあるから、もし憲法の制限が撤廃されるならば、今でさえ軍事の方向へと傾斜する方向を示しているのだから、たちまち軍事関係の戦闘機、原子力潜水艦、核兵器などといった方向へと拡張していくであろう。
北朝鮮が核ミサイルで攻撃するかも知れないのだという理由を付ければ、それを攻撃するためには当然膨大な経費の要するミサイル防衛計画をますます推進することになるし、それは周囲の国々を刺激してさらなる軍備拡張競争となるであろう。
そして靖国神社参拝に見られる、首相の不信実な姿勢、参拝したかどうか一切言わない、捧げ物を実際にしたのに、したかどうかは言わない、と言い張るのは、およそ人間としても子供でも分かるような不信実な姿勢である。
もし、例えば学校内で、実際に大きな問題になることをして、その証拠もはっきりとしている、それにもかかわらず、その生徒に問いただしたら、したともしてないとも言わない、などと言えば、そのような生徒は道徳的に大きな問題があるとみなされるだろう。首相自身が、このような常識的にだれでも分かるような欠陥を持っていることを世界に示しているのであり、このような人間が一国の代表者となりうる日本の状況を考えるとき、もし軍備を正式に認める憲法を作ったらアメリカや日本の軍事産業を受け持つ企業などと一体となってどのような方向に走り出すか分からない。
すでに強引に変えられてしまった教育基本法は、とくに戦後の六年間、東京大学総長となった南原繁らの強い指導のもとに作られたものである。そして南原繁は、内村鑑三門下の無教会のキリスト者であった。この教育基本法で明確にされていたのは、次の前文にその精神がはっきりと示されている。
「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」ということであった。
ここで言われている「個人の尊厳を重んじること」、「真理と平和を希求すること」、「普遍的で、かつ個性ゆたかな文化の創造をめざす」ということは、永遠的に成り立つ教育の基本理念である。
だから、時代に合わないなどということが生じ得ない内容なのである。
この基本法の作成にかかわった人たちは、去年の「いのちの水」誌五月号に述べたように、南原繁(*)をはじめ内村鑑三やキリスト教に影響を受けた人たちが多くいたため、聖書的精神を背後にもったものとなっていた。
そして、新約聖書の精神は、どんな弱い人間も、見捨てられたような人間をも重要な存在としてみつめて助けようとし、永遠の真理と平和を根本の内容としており、また人間を超えた聖なる霊を与えられることを約束し、その聖なる霊が人間をして新たなものを創造させるのである。
(*)評論家の立花 隆が中心となって企画した「八月十五日と南原繁を語る会」が、二〇〇六年八月十五日、東大安田講堂前で開催された。この時には、主催者側の予想を越えて安田講堂の定員の二倍の約二〇〇〇人も集まったという。なお、立花
隆の父君は無教会のキリスト者である橘 経雄氏で、幼い頃は自宅では父親が持っていたキリスト教関係書、無教会の伝道者の冊子などが取り巻く中で育ったという。立花隆が最近、南原繁に強い関心を示しているのは、父親が無教会のキリスト者であったことで、内村鑑三に始まる無教会のキリスト者に流れてきたものが、彼にも流れていたのを示すものとなっている。なお、この会の全記録が、東京大学出版会から「南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由」という三三八頁の書物として出版されている。
こうした重要な精神を持っている教育基本法を強引に変えていったのは、この基本精神の重要性を理解できない人たちがかかわっているからである。そしてそのような人たち、とくに現首相は真理に反する精神をもって現在の憲法九条をも変えてしまおうとしている。
すでにのべてきたように、憲法九条も以前の教育基本法の前文の精神も実は、その本質的な内容は聖書とキリストの真理から流れ出ているということができる。この永遠的な流れとは全く異なる流れを強行に押し進めようとするのが、現在の首相と自民党の多くの政治家なのある。
現在の改憲を引っ張っている安倍首相は、祖父が岸信介でありそのときから改憲を意図していた。そういう流れを受けている。
しかし、そのような数十年前からの流れよりはるかに古く二七〇〇年ほども昔から、旧約聖書にすでにその淵源を持ち、そこから流れ続けてきたのは、神の御手による真の平和への流れである。
私たちはとくにこの大河のような流れの中に置かれているものとして、現在の日本の政府が取ろうとしている方向が誤っているものだということをはっきり認識し、永遠に変ることのない真理を見つめていきたいと願う。