真理とその外側 2007/6
真理はなかなか人に受けいれられない。しかし、聖書に記された真理こそは真に永続的に私たちの魂を満たし、力づけて下さる。
それは、ヨハネによる福音書でも冒頭に言われている。
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 (ヨハネによる福音書一・16)
From the fullness of his grace we have all received one blessing after
another.(NIV)
真理そのものはこのように誰でも求める者に、神の満ちあふれる豊かさの中から、次々と与えられた。その豊かさの泉からくみ取るもの、それを飲む者こそは魂の奥深いところで満たされるゆえに幸いな者と変えられる。
しかし、人は、しばしば真理そのものでなく、わざわざ真理の周辺、しかもかなり遠い周辺、つまり、人間的な意見や考え、伝統、習慣といったものを探し求めたりしがちである。
聖書の無限の深みに入ろうとせずに、わざわざ聖書そのものから外に出て、聖書にないことを求めようとする人たちがあとを断たない。
また聖書に関心を持つといいながら、聖書そのものが語っている真理でなく、そこから出た枝葉のようなこと、あるいは人間の想像や作り事のようなことに関心を持とうとする傾向(*)も後を絶たない。
(*)先頃問題になった、ダ・ヴィンチ・コードなどもそうした例であり、闇の象徴的存在であるユダに特別な関心を持とうとしたりすることも同様である。
聖書という二千頁にわたる真理が我々の前に置かれているのに、特異な神学説をわざわざ根拠にして主張したり、聖書でない文書を重んじたり、あるいはエホバの証人、統一協会、モルモン教などのように聖書の真理と本質的に異なることを言い出して、真理から引き離していくこともみられる。
聖書が二千年の間、このままの形で保たれてきたという歴史的事実のなかに、大いなる神の御手を感じさせるものがある。
神が守り導くのでなかったらどうしてこのように特定の書物がほかのあらゆる古典と言われる書物よりはるかに多く、全世界で読まれることがあるだろうか。
真理の周辺を描こうとしたり、さらには真理に敵対するような悪を内容としたもの、それは小説やドラマ、一般の映画、テレビなどなどいくらでもある。今日私たちの目に触れるおびただしいそれらの印刷物や映像などの類は、真理の遠い外側を混乱したかたちで巡っているような感をいだかせるものである。
偶像崇拝ということも、やはり真理の外側にあるものを第一にすることである。すべての中心にある神を思い、礼拝しようとせずに、石や木で作ったものを拝むということ、あるいは特定の人間や金、名誉などを第一に重んじようとする心の姿勢は、すべて真理の外側を重んじようとすることと言えよう。
教育制度を変えようとすること、「君が代」斉唱とか日の丸の掲揚に、特別に力を入れて強制しようとすること、これらもやはり真理の外側を回っていることにすぎない。
外側を回り続けてとうとうそのまま遠く真理を外れてどこへともなく離れさってしまうことも多い。
そうしたあらゆるこの世のものと異なるのが、聖書の真理である。
聖書にある有名なたとえで、放蕩息子が、わざわざ中心にある父なる神のもとから離れて、遠くへと離れさって行った。そしてそこで楽しんで生きようとした。しかしそれは時がきて生きることもできない状況だとなった。そのような状況になって初めて、この世の中心にある真理に気付いて、立ち返った、という記事はわかりやすいたとえのなかに、人間と神の本質的なすがたが示されていると言えよう。
聖書に記された真理は、まっすぐに核心をついている。
聖書の最初からそのようになっている。創世記という書名であるが、世界を創造したことを書いてある書、というようなものではない。世界の創造に関して書いてあるのは、創世記は五〇章というかなり長い分量があるが、天地創造について書いてあるのは、わずかに一章と二章の二章にすぎない。
大部分は、人間がいかに罪深いか、という事実とそれにもかかわらず神がいかにそのような人間を導かれたか、という内容である。双方とも事実であって、単に頭で考えられた思想とか人間が想像して創り出した話ではない。
人間は闇であり、そこに光を与える神という本質が聖書では最初からはっきりと記されているのである。光とは神の本体であり、それは愛や真実、正義、永遠性などあらゆる神の御性質を込めて言われている言葉である。
私たちが人間関係の不信実に苦しみ、いじめや憎しみを受けるとき、そこに本当の愛が注がれるときに、それを光として感じるのである。
光と愛というのは、一見異なるように見えるが、聖書でこの二つが言われるときには本質的なところで共通したものをもっている。主イエスも、私に従ってくる者は命の光を持つ、と約束された。そして主イエスの内に留まることは、すなわち、イエスの愛、神の愛の内に留まることであるとも言われている。
偽りの愛は盲目であって何が正しいことかも分からなくなって犯罪すら犯すほどになることすらあるが、本当の愛はすべてを見抜く。隠れていることをもいわば光を当てて知ることができる。
主イエスは神の愛をもっておられたゆえに、初対面であったサマリアの女の過去の罪を見抜き、いのちの水を受けるには何が必要なのかを的確に指摘することができた。また、当時、宗教的、あるいは政治的な指導者であった律法学者やファリサイ派の人々、長老たちの心の内にあることにも光を当ててその偽善性を見抜くことができた。
それゆえに、「光あれ!と言われた。そのときに光が生じた」という記述は、そのまま人間の罪、弱さという本質と、神の無限の力、あらゆる悪に勝利する神の本質を述べているのである。
主イエスが厳しく非難している、当時の律法学者、ファリサイ派の人々たちは、唯一の神を知っていてそれを特に専門的に研究し、人々に指導している人々がかえって真理の外側をぐるぐると回っているにすぎない状況となっていることを指摘している。
…それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。」 (マタイ福音書二一・12~13)
このような激しい態度には驚かされるが、ここにも、真理の外側ばかりに力を入れていた人たちにまっすぐに中心にある真理を指し示す姿勢がはっきりと見られる。物の売買をして金儲けを目的に神殿にいること、それは祈りという神ご自身に直接に向かっていく心の姿勢と全く異なると、指摘しているのである。
また、次のやはり厳しい言葉も同様である。
… 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。…十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。 …杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている。
まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
(あなた方は)白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ福音書二三章より)
人々を宗教的に指導する人たちであっても、このように外側ばかりに力を入れて、中心から遠ざかってしまうことがよくある。儀式的なこと、宗教的な衣服、決まりなどを強調するばかりで、核心にあること、主イエスが言われているように、正義や慈悲、誠実といったことを軽視してしまう。
旧約聖書のモーセが神から直接に受けたと伝えられる、神の基本的なご意志を表す内容が、十カ条にされて示された。これを十戒といって今もなお変ることなき真理であり続けている。
ここには、天地を創造された唯一の神のみを拝すること、偶像を造ってはならないこと、安息日を守ること、父母を敬うべきこと、殺してはいけないこと、男女の不正な関係をもってはいけないこと、盗みをしてはいけない…等々である。
これらは、人間がともすれば中心から外側にはみ出ていくそのことを戒めているのであって、あくまで神のご意志という中心に留まるための基準として言われている。
しかし、この後に数知れない細かい規定が付け加えられていった。
そのために、かえって中心から人々を外側へと連れ出してしまう結果となっていった。あまりに細かな規定は、何が中心にあるのかを分からなくしてしまったのである。
長いイスラエルの歴史において、中心からはみ出してしまった人たちのことが繰り返し記されている。時折そのなかから、真理そのもの、神に立ち返ろうとする人が現れる。そして一時的に偶像は壊され、真実な神のみへの信仰へと導かれる。しかし、その次の王となると、再び中心から外れていく。
こうして全体としてみるとき、神への信仰という世界の中心にある真理を知らされていながら、次第に外側へ外側へと出て行ったが、その結果として外国に侵略され、まず北の王国イスラエルが滅ぼされ、その後百数十年後には南部の王国も滅ぼされ、遠い外国に捕囚となって連れ去られることになった。
このような過程で、自分の命をかけて神信仰の中心に立ち返るようにと繰り返し神の言葉を語ったのがアモス、ホセア、エレミヤ、イザヤ等々の預言者たちであった。
その後、五十年ほど経って、神の特別な愛によって再び祖国に帰ることができた。
これは神ご自身が人々をその中心へと招き寄せようとされたことであり、裁きでなく愛をもって人々を導こうとされる神の本質が表されたことであった。
このような長い年月の神の愛による働きかけにもかかわらず、神という中心に帰ることができないゆえに、人間全体を招き寄せる全く異なる道を示された。
それが、キリストである。
キリストは神の本質で「愛」ということを、目に見えるかたちで、地上で実際に行われたのであった。
キリストが十字架で処刑されたということ、これは単に無実の罪で殺されたということでなく、人間の罪という暗黒のなかに、きらめいた光なのであり、その光はそれ以来今も輝きつづけている。主イエスが十字架にかかられたのは、人間の深い罪を赦し、清めて神の子供とするための光のわざなのであった。
また死んでから三日後の復活ということも、死といういかなる者もどうすることもできなかった闇のなかに永遠の光を投げ込む出来事となった。死は、古事記に見られるような、闇の世界、ウジがたかり、骨になってしまうことでなく、またさまよう霊となって生きている人間にたたってくるような不気味なものでもなく、私たちが生前にキリストを信じて罪赦されて生きるだけで、キリストの栄光の姿に変えられるという、画期的な真理が表されたのであった。
このように、復活ということは、まさに永遠の闇であり続けるような死後の世界に投げ込まれた永遠の光なのである。
さらに、過去、現在の罪や問題などを越えて、この世界、宇宙の未来はどうなるのか、について、地球上はますます環境問題が深刻になっていきつつあり、防ぐことの困難なウイルスの発生、食糧問題、核兵器の脅威などなど、誰一人将来の世界像を確信をもって語ることはできない。
この点については科学、経済学などさまざまの学問をもってしてもあと五〇年後にどうなるのかということすら、明確なことはなに一つ分からない。
今から五〇年ほど前に、現在のように携帯電話を子供までたいていの人が持っていて自由にだれとでも話したり、手許でメールを送ってはるか離れた人のところにまで用件を伝えられるなど、誰が想像しただろうか。
また、世界で初めてライト兄弟が飛行機を造って飛んだのが一九〇三年である。その頃、当時の有名な科学雑誌や新聞では、いろいろな大学の科学者たちや陸軍の関係者などが、「機械が飛ぶことは科学的に不可能」とする記事を発表していたという。
それから現在まで一〇〇年あまりしか経っていないが、さまざまの航空機、驚くべき性能をもった戦闘機、ミサイル、人工衛星、等々、「機械」が空を飛行するということは、ごく当たり前のことになっているが、このようなことは当時は誰も想像できないことであった。
これも、いかに人間が先のことが読めないか、ということの一例である。
このようなことは科学技術の方面だけでなく、政治や社会の方面でもいくらでもある。人間にはどんなに学問や技術が進んでも、将来のことについてはごくわずかのことしか見えないのである。
地球にしても、科学の結論としては太陽の膨張によって太陽は十数億年も経てば半径は二割、明るさは四割ほども増大することが理論的計算で分かっているという。そのためそのときには地球上の水は蒸発し、高温のために生物も死に絶えるという。さらに今から五〇億年以上も経てば、太陽は地球を呑み込むほどに大きくなり、それ以前に高温となった地球は物質の沸点を越えるために蒸発して宇宙に飛び散ってしまうとされている。
このような未来像しか科学という学問では示すことができない。ちょうど、一人の人間の終りは、だんだんと体全体が老齢化とともに弱ってきて、病気となり、ついには死に至る、そしてその後は腐敗して骨だけが残る、という未来像しか描けないのと似ていると言えよう。
こうしたことは、物質的な側面からみると事実なのである。人間がそのようになることはだれでも知っているが、太陽の末路も何十億年の未来には、次第に膨張して赤色巨星となり、ついには白色矮星となり、寿命を終えるとされているが、これは理論と実際の多くの星の観察から結論されるという。
このように、学問の結論からだけでは、目に見える物質としての人間も太陽や地球も死んでいくということしか分からない。
しかし、目に見えない霊的な本質は、そうした学問や科学技術では全く関与できないことである。霊的な本質は、そうしたあらゆる物質的な変化や死には影響されないのである。キリストの復活はそうしたすべてに打ち勝つ神の力を示すものであった。
キリストに結びついたものは、死後は肉体は見えなくなるが、霊的には、キリストの栄光のからだとされる。
同様に、この地球や太陽などの星々も、物質としては朽ち果てようとも、霊的には「新しい天と地になる」という表現で永遠的な世界が背後にあることが聖書には示されている。
そうしたことが起こるのは、キリストの再臨の時、という普通に考えては理解できないこととして聖書では記されている。それは、ただ信仰によって受けいれることであり、その点では、十字架によるあがないや復活を信じることも同様である。
こうした真理を神の万能と愛を信仰によって受けいれるとき、さらに私たちに光が注がれてこうした理性での理解を越える事柄についての確信をより強めてくれるようになる。
ここに、闇のなかに差し込む光がある。学問や科学技術だけでは、永遠的な光をもたらすことは決してできないのである。こうして人類や宇宙に関する未来についても、私たちは聖書によってその核心にある真理を知らされている。
私たちは真理の周辺のことによっては深い満足を決して与えられない。この世のことは常に私たちを真理の外側へと引き戻そうとする。私たちはそのようなある種の力に抗して、真理そのものに留まっているために、聖書に立ち返り、み言葉と祈りによって聖なる霊を与えられ、その聖霊に導かれていきたいと願う。(真理とその外側
終り)