リストボタン清められる世界    2007/6
ダンテの神曲 煉獄篇第一歌

私たちは清い心、汚れた心というのを直感的に感じることができる。そしてだれでも嘘や不信実な心を不快なもの、汚れたものとして感じるのであり、清い心ということは、そうした意味で、誰でもが本来望んでいることだと言えるだろう。
ダンテの神曲・煉獄篇の第一歌では、煉獄(*)とはどのようなところかがその冒頭に暗示されている。

*)煉獄とは、浄罪篇 とも訳される。神曲はイタリア語で書かれてあるが、そのイタリア語では、煉獄篇のことを、プルガトリオ(purgatorio)という。この言葉は、ラテン語の、プールガートーリウム(purgatorium)に由来する。そしてこの言葉は、「清める」プールゴー(purgo) という語から来ている。なお、この言葉から、英語の「清い」pure という語が生れた。英語では、煉獄のことを、パーガトリィ(purgatory)という。

煉獄という場合の「煉」とは、火偏があるのは、火で鉱石の不純物を取り出すという意味を持っているからであり、煉獄とは、死後に想定された罪の汚れを清めるための場所であるからそのように訳されている。このような原語の意味からは、「浄罪篇」という訳語のほうがよりわかりやすいと言えよう。
死後の世界というのは、聖書でもはっきりと記していない。霊的な世界であり、本来言葉で表現できないものなのであるから、それを言葉で表したりしようとすれば、かえってまちがったことになる。
それで、私たちにとっては、煉獄とは、キリストを信じて生きるとき、この世そのものが清めのためにあるので、この世を象徴的に表していると受け取ることができよう。
私たちがキリストを信じて新しい歩みを始めたとき、それはまさに煉獄の歩みである。
私たちの清めは、すでにキリストが十字架で死んで下さったことで、なされている。それは、「キリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるからである。(ヘブル書九・14
それゆえ、このことを信じて、感謝をもって受け取るだけで私たちの魂は過去のあらゆる罪、汚れから清めを受けるのである。
それだけでない。主イエスはヨハネによる福音書においてその最後の夕食のときに、「私の話した言葉によって、 あなた方はすでに清くなっている。」(ヨハネ十五・3)と言われた。主イエスを救い主として信じてその言葉を神からの言葉として受け取るだけで、もう清められているという。汚れとは、心の汚れである、食物にはよらないと、主イエスは言われた。キリストの完全な清い心から出た言葉を心して受け取るものは、それだけで清めを受けることになる。
キリスト者とはこのように、清められ、赦された者であるから、キリスト者の歩みは、ダンテの浄罪篇(煉獄)での歩みと重なってくるのである。
この煉獄篇において、まず現れるのは次のような情景である。

東方の碧玉のうるわしい光が
はるか水平線に至るまで澄みきった 大気の
晴朗な面に集い、
私の目をまた喜ばせてくれた。
目を痛め、胸を痛めた
死の空気の外へ私はついに出たのだ。
愛を誘う美しい明星が
東の空にきらきらと満面の笑みを浮かべ
後に従う星の光をおおっていた。
視線を転じて、私は目を右の方
南極の空にすえ、四つの星を見上げた。
空は星のきらめきを喜んでいるかにみえた。(煉獄篇 第一歌より)

煉獄は、神曲においては南半球の海からそびえる高い山として表されている。そこに着いたダンテは、東の方をみてその光景に深く動かされたのである。そこには、東方(オリエント)のすぐれた産物とされていた、碧玉(サファイア)の青い澄みきった色が大空に広がりかけていた。
この訳では、「うるわしい光」と訳されているが、原文は、dolce color d'oriental zaffiro である。ダンテは、dolce (ドルチェ)という語(*)をしばしば用いている。

*)煉獄篇だけでも、四六回、ドルチェの派生語(dolcemente, dolcessa)を入れると、五一回ほども使っており、天国篇では、四五回(うち派生語四回)と多く使われているが、これは煉獄や天国篇における、神の世界、神的なものを象徴していると考えられる箇所がしばしばある。
例えば、煉獄篇の終りに近い第二九篇にて、煉獄の川を歩いていくときに、突然にして麗しいメロディーが光に満ちた大気を貫いて流れるという場面がある。
原文 E una melodia dolce correva 逐語訳 and one melody sweet ran
第二九篇22行(英訳 And a sweet melody ran through the shining air

これは、英語の sweet にあたる語であり、英訳では、例えば The sweet hue of the oriental sapphire と訳されている。(J.D.Sinclair 訳、hue とは、「色合い」の意)

ここでは、罪清められる新しい世界の色合いの基調が、青い色なのである。青い海と青い空、それは現在の私たちの世界にとっても都会でないかぎり、最も広大な領域を占めている。目を上方に転じるなら晴れていればいつでも青い空は目に入ってくる。
そして、海岸に立てば、今度は眼前に広大な青い海原が広がる。このように最も広大な目に入るものを青い色になるように神は創造されている。このことは、ダンテにおいても大きなインスピレーションになったと考えられる。
神はこの暗い世界にあっても、つねに目を上方に向け、大空の青い色に向けるようにと仕向けておられるのである。
そしてその青く染められていこうとする大空に目を向けたとき、ダンテの心に喜びがあふれた。それまでは目を痛め、心を苦しめた地獄の中であったが、ここの煉獄では、広大な青い空が広がっており、それは希望の広大さと清らかさ、心惹きつける世界を暗示しているのであった。
そしてそこに輝いていたのは、明けの明星(金星)である。その星の強い輝き、誰もがそのじっと見つめるような澄んだ光に出会うと、愛の心を呼び覚まされるという。やさしい人とか美しい人がその人への愛をうながす、ということなら誰でもが経験することであろう。しかし、ここでは、夜明けの青い色が染むようになりつつあるときに輝いている明けの明星が、愛へと誘う不思議な力を持っているのをダンテが知っていたのである。
そのまだ暗さの残る空に神の光のような輝きをたたえて私たちを見つめるその光は、私たちの内にある眠っている何かを覚まし、心を活気づけて愛へと赴かせるというのである。
これは逆のことを考えるといっそうこのことが分かる。暗い、陰鬱なものをみていたら自分までそうした重苦しいものが伝わってきて心が狭く固くなっていく。
しかし、神から来ていると言える星の光を見つめ、その光を魂に受けいれるときには、私たちの内なる本質的なもの、愛への心が呼び覚まされるのである。
この最も深い出来事が、神の光、キリストの光を深く受けるときに、敵をも愛し、迫害するもののためにも祈るような愛が呼び覚まされるということである。
また、ダンテは愛を呼び覚ますこの明けの明星が、東の青く染まりはじめた空全体を微笑ませるものとして描いている。
このように、煉獄篇の最初の情景は、地獄篇の最初の状況と比べると一層際立った対照をなしている。地獄篇においては、その最初の地獄の谷に入ると、そこには、はてしない叫びが集まって雷鳴のように響いていた。そして暗くて霧が濃く、何も見えないような恐ろしいところであり、それは全く希望のない状況であったからである。
現代においても愛と真実の神を受けいれず、その存在を否定するときには、私たちの心を本当に明るくするものを得ることはできないであろう。そして重い病気となり、死が近づくにつれてこの地獄篇の描写にあるように、暗い叫びが聞こえ、あるいは暗い霧に包まれたようになって何も希望が見えなくなる、といった状況を思い起こさせるものがある。
次に、ダンテが見たのは、南極上方の空にある四つの星であった。これは、キリスト教を知らなかった人たちが、人間の目指すべきあり方としてあげた、思慮、正義、勇気、節制 を指している。
何が価値あることなのか、何をいつ、どのようになすべきかなどを冷静に判断する能力としての思慮、何が正しいのかを知り、実行する正義ということ、そしてその正しいことに向かっていく力としての勇気、それから自分自身の内なる欲望などに負けないで、理性的に人間としてあるべき姿へと向かおうとする節制などを四つの星で象徴的に表しているのである。
そして、これらの星の輝きが周囲の夜明けの空を一面に喜ばせているとダンテは描いている。
このようにして、煉獄篇の冒頭には、青い色、澄んだ光、そして喜びというのが次々と現れ、それが全体として、煉獄篇の特質である大いなる希望を象徴的に表している。
私たちの心においても、このような深い青色や星の光、そしてそうしたことからくる喜びがあふれているようでありたいと願うものである。
煉獄の番人はカトー(*)というローマの政治家であり、自由のためにシーザーによる圧政に従うよりも自らの命を断つことを選び、プラトンの「パイドン」という魂の不滅を記した書物を読みつつ死んでいったと記されている。

*)ダンテが煉獄の番人にカトーを特に選んだのは、それだけの理由があった。カトーがいかなる人物であったか、それは稀にみる正義と勇気をもった政治家で、しかも元老院には誰よりも早くきて、静かに哲学の書を読み、正義にもとづく冷静な判断を周囲の反対や一身の危険をも顧みないで実行に移していくという人であった。こうした彼の具体的な言動や考え方は、「プルターク英雄伝」(岩波文庫) 第九巻 二二五頁~三〇三頁に詳しい。プルタークとは、紀元四七年頃生れの帝政期ローマのギリシア人著述家で、古代の優れた人物の的確な伝記を多く書いたのが特に有名。

このカトーが、煉獄の山をこれから登ろうとするダンテに、イグサの茎でその腰を巻くように言う。イグサとは、日本では畳に使っているので、広く知られているが、そのしなやかさが特徴である。ここでは、そのしなやかさは、真理(神)の前に砕かれていること(謙遜)の重要性を暗示しているのである。
福音書の最初のところに、主イエスの教えの代表的なものである山上の教えがある。その第一に書かれているのが、「ああ、幸いだ。心貧しきものたちは!」ということである。この心貧しい者とは、神を心に見つめるときに自然と実感される自分の無益さ、弱さ、罪深さを知っている状態のことであり、そうした心こそ、煉獄の山を歩んでいく心であると言われている。
この神の前での自分の無力さを知っているという意味での謙遜こそ、煉獄の山を昇るために必須のことなのである。それゆえ、この謙遜を持たずに、この煉獄の山に登ろうとする者がどのような結末に至るか、それを印象的な表現で表したのが、地獄篇二六歌に書かれているオデュッセイアである。 それは次のような内容である。
オデュッセイアは、家族に対する愛情にもまさって、この世界を知りたいという激しい情熱には勝てなかった。そのゆえに未知の大海原へと乗り出した。地中海を西へ西へと進み、ついにスペインの南端ジブラルタルに来た。そこから先は何があるか分からない。人間は行ってはならぬ、という言い伝えがあった。しかし、オデュッセイアは、言った。
「数々の危険を越えて お前たちは世界の果てまで来た。お前たちは、動物のように生きるために生れたのではない。勇気と知識を追い求めるために生れたのである。」
このように言って仲間たちを強く励ました。彼らは、先へ先へと未知の海へと向かって行った。もはや引き返すことは不可能に近かった。南へ南へと進み、南半球に入り、出発して五カ月ほども進み行くと、前方はるかかなたに一つの山が見えてきた。それはかつて見たことのないような高い山のようであった。
これが、煉獄の山なのであった。
彼らは歓喜した。しかし、そのとき未知の陸地から激しい竜巻が巻き起こり、船首の一角に突き当たった。三度、船を周囲の水とともに巻き込み、高く空に持ち上げ、船首から海深くへと落ち込んでいった。これこそは、神のご意志によるものであった。やがて彼らの上に、海が元通り海面を閉ざしたのであった。
オデュッセイアは勇気と知識を求め、家族への愛着をもこの世の安定した生活をも捨てて、未知の危険な大海へと船出した。それは、動物的に生きる生き方とは全く異なる目標をもった歩み方である。
それがなぜ、このように煉獄の山を目前にしてそこから突然生じた激しい風に巻き込まれて海の藻屑と消えたのだろうか。
それは唯一の天地創造の神、愛の神を信じ、その前に心砕かれることなくして、知識と勇敢さを求めて行ってもついには破滅する。煉獄の山へと達することはできない、という意味が込められている。
これは、旧約聖書の創世記にあるアダムとエバが、「あらゆることを(神とは無関係に)知る知識の木」(*)を食べて楽園から追放されたことを思わせるものがある。

*)しばしば「善悪の木」と訳されているが、原語は、トーブ と ラァ の木であり、単に日本語のように道徳的な善悪を意味するのではない。善と訳された原語は「トーブ」であり、「悪」と訳された原語は「ラァ」であるが、それらは、それぞれ口語訳では五十種類ほどにも及ぶ訳語が当てられている。例えば、トーブ については、「愛すべき、美しい、麗しい、かわいらしい、貴重、好意、幸福、好意、ここちよい、親しい、幸い、親切、順境、親切、正直な人、善、、正しい、尊い、楽しむ、繁栄、福祉、恵み、安らか、豊か、りっぱ」等々と訳されている。
 「ラァ」については、「悪、悪意、悪人、悪事、痛み、いやな、恐ろしい、害悪、苦難、苦しみ、汚れた、つらい、悩み、罰、破滅、不義、不幸な、滅び、醜い、災い」などと訳されている。以上のような事実から、トーブを善、ラァを悪、と訳して道徳的な意味の善悪の木だと受け取るのは、意味や原文のニュアンスよりも狭めてしまうことになり、不適切だということになる。英語訳では、the tree of the knoledge of good and evil となるが、英語のgood evilも、日本語の「善」「悪」よりずっと広い意味を持っているから、日本語訳よりはより原文に近いニュアンスを持っている。
それゆえ、「善悪の木の実を食べる」とは、「(神を抜きにして)好ましいこと、好ましくないことなどの総体、すなわちあらゆることを知ろうとすること、またそうした知識」という意味を持つことになる。


これは、現在の状況を見るとき、聖書やダンテの深い洞察に驚かされるのである。現代の問題はまさに神抜きにあらゆる知識の実を食べている状況から生れているのであり、今日の環境問題や未知の危険なウイルスの発生、あるいは世界大戦による何千万という膨大な犠牲者を生じたのは、高性能の爆弾や戦闘機、核兵器の出現など、科学技術という「知識の実」を神への畏れなしに食べていったことによると言えるだろう。
さらに、教育を戦前などと比べると比較にならないほどに多くの教育時間を大多数の人々に提供しているのに、子供の心がより純真に、愛や真実が深くなったかというと全くそうではない事実がある。これも教育を単に、「(神抜きに)知識の実を食べる」ことにしてしまっているからである。
現代では、もはや不可欠となってしまったインターネットなども、神抜きでおびただしい知識を得る傾向に拍車をかけている。
こうした知識的なことだけでなく、道徳的な方面においても、いかにその志はよくても、人間の力に頼り、人間の内なる情熱によってことを成そうとするならば、その末路は突然に竜巻のようなものによって巻き上げられ、滅びていくというのである。
神に導かれ、神の愛によって砕かれて人間の弱さと小さきことを知ること、神の前の謙遜がなければ、煉獄の山には登れない、従って神の国へとは達することができない。
そしてこの「謙遜」すなわち神の前に心砕かれた状態を象徴するイグサは、引き抜いてもすぐにまた生えてくるという驚くべき性質があることがこの第一歌の最後に記されている。
これは、こうした神の前の謙遜は、不滅の性質があるほどに神に祝福されるのだということなのである。謙遜に限らず、愛や真実、正義といったものは、永遠なる神にその基盤を置いているために、いくら人間が引き抜いても踏みつぶしても再び生えてくるのであって、それを踏みつぶそうとする人間のほうが、つぶされていくのである。
ダンテが、この第一歌の最後から三行目にあたるところで、 oh maraviglia! (英訳では、O marvel!) と、簡潔に間投詞を用い、感嘆符をつけてその驚くべきことを表したのは、神の国に属するものの永遠性、不滅性への驚きがここに表されているのである。(神曲・煉獄篇終り)


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