リストボタン万人救済説について    2007/6

以下は、今回の四国集会である参加者が、「一人も滅びないで」という四国集会のテーマに関連して、「感話」の中で述べた万人救済説について疑問を感じる人も多くあったので、この問題についてどう考えるべきか、を説明するために書いたものです。
なお、一人も滅びないで、という神のご意志が聖書にどのように表されているかについては、「いのちの水」誌の前月号に書いたので参照して下さい。
 その「感話」は、宮田光雄という人の著書から引用というべき内容でしたが、その時の話しは、どんな人でも、悔い改めもなにもなくして、救われるといったような内容として受け取られたと思われます。現にそのように受け取って驚いた人もいます。何年か前にもそのようなことを聞いた、といって大きな疑問を私に話した人もいました。
しかし、宮田は、万人救済説の本質が「万人が救われてほしいという希望」であることを強調しているのです。
 宮田光雄の書物から次に引用しておきます。

万人救済説といい、予定説といい、それは、すべて優れた信仰の先人たちが、みずからの信仰体験にもとづいてそれを論理的に表現したものなのです。だから、私たちがその結論だけをつまみ食いしてもダメなのです。
 むしろ予定説といい、万人救済説といい、そうした教えは、私たちが自分自身でも心からそのような信仰告白ができるよう祈り求めるべき、私たちの信仰の道しるべなのです。
 さきほど注意したように、ボンヘッファーは、(万人救済説は)「体系」でなくして、「希望」だと言いました。
 私たちは、まだ、本当は、予定説などということを問う資格がないのかも知れない。(「嵐を静めるキリスト 万人救済説の系譜」二百頁 新教出版社 一九八九年)

 このように、宮田光雄も、万人救済説とそれに対立すると考えられている予定説の双方をいずれも優れた信仰の先人たちの深い体験と思索の結果として尊重しているのであり、そのような深い信仰の体験とそこから来る確信がないのに、万人救済説が本当だ、などとその結論だけをつまみ食いすることを宮田は、とくに注意しているのです。
 実際、「救いが予定されている」、という信仰的な受け止め方の元にあるのは、長い苦しみのなかから初めて光の世界、神の愛に触れたとき、それは単に偶然的に自分が信じたのだ、だから救われたのだ、というような気持ちに留まることなく、自分が意識するずっと以前から、神の愛によって救おうとして下さっていたのだという実感なのです。
 人間の愛でも、深い愛ほど、一時的、突発的でなくずっとつづいていたと感じるものです。
 聖書における放蕩息子の例にしても、息子は長い間父の愛を全く感じていなかったのです。そして財産をもらってそのまま遠くに行って放蕩のかぎりを尽くし、破滅寸前になって初めて父の愛に目覚めたわけで、父の愛はずっと自分に注がれていたのだと気付いたのです。
 肉親の愛にしても、子供のときには父母の愛など分からなかった人でも、大人になって自分がいろいろと苦労してようやく、子供のときからずっと父母は自分を愛していた、あるいは自分のことをとても心にかけていたのに気付く場合も多いと思われます。
 深い愛ほど、それを受けた人は、はるか以前からずっと続いていたと実感させるものなのです。
 同様に、万人が救われるということは、自分のような罪人が救われた、自分は救われるために何もよいことをしたわけでない、かえっていろいろと罪深いことを考えたりしてきたのだ、それでも救っていただいたのだから、きっとどんな人でも救われるであろう、との受け止め方であり、希望なのです。
 自分の罪深さに苦しみ、滅びていこうとしているさなかにキリストの十字架を知らされ、救われて主の平安を与えられた者は、大なり小なりこうした実感を持つはずです。
このように、予定ということ、万人が救われる希望といったことは、本来だれも断定できることではありません。はるかな過去のことや未来のいつか分からない最後の審判の時のことを誰かが断定できるなどということ自体あり得ないということは容易に分かることです。
しかし、本当の救いを受けた者ならだれしもこの二つのことは程度の差こそあれ、魂の深いところで実感するものなのです。
 今回の四国集会での話は、残念ながら話した人の信仰上の体験が語られることなく、単に本で読んで知った万人救済の結論だけを参加者に提示したようなものとなったと言えます。
 この万人救済説は、その真理性がずっと以前から大いに問題にされてきた、難解な神学説であるにもかかわらず、それがあたかも真理であるかのように断定的に語られると、聖書の真理から大きく外れてしまいます。
 いかなる悪人も、悔い改めもないままに赦されるなどということは、もちろん全く聖書には記されていないことです。それは、次のキリストの言葉からしても分かります。

・はっきり(アーメン)言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ福音書三・2829

・ だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、(聖なる)霊に対する冒涜は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
(マタイ福音書十二・3132

このように、赦されない罪というのがあることを、キリストは明確に述べています。しかもこの言葉を発する前に、マルコ福音書では、「アーメン(真実に)」と言っています。これは、次に特に重要なことを言う場合に、この表現をとっていることがしばしばみられます。(*

*)例えば、次のような箇所である。ここで「はっきり」と訳されている原語は、アーメンである。
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ5:24-25

この世でも来るべき世でも赦されないと言われる聖霊を汚す罪とはどのようなものか、それは私たちには明確なことは分からないことです。
主イエスがこの言葉を話されたのは、主がなされた悪の霊を追いだすという驚くべき業を、ファリサイ派の人々や律法学者が、神のわざとして受け取ることなく、かえって、それを「悪霊のかしらの力で悪霊を追いだしているのだ」と、全面的に否定して、悪魔の力でやっているのだとしたからでした。
しかし、このようなことは一例であって、じっさいにどのようなことが、聖霊を汚すことになるのかは、だれもはっきりとは分からないことです。
それは霊的な深い罪であり、人間はそのような深い霊的な世界についてはわずかしか分からないからです。
私たちは、自分自身の心の中にすらどんな罪が潜んでいるかも分からないのです。ペテロが命を捨ててでもイエスに従っていく、といった直後に、三度もイエスの弟子であることを否定したこと、ダビデのような子供のときから勇敢で、あらゆる困難をも神への信仰をもって対処していったような人が、王となって安定したときに、本人も周囲の者もおよそ考えられないような重い罪を犯してしまったこと、これらは聖書そのものに、いかに人間が自分のことすら分からないかということを示すものです。
そのような私たちが、どうしてだれが聖霊を汚しているとか赦されないとか、赦されるとか議論することができるでしょうか。
またこのような明確なキリストの言葉があるにもかかわらず、どんな人でもみんな赦されるのだとして、その罪の深さ、重さを軽々しくみてしまうこともまた、この世界の無限の奥深さを軽視するものと言わねばなりません。
私たちは、不可解なキリストの言葉があっても、それを人間の小さな頭で勝手に解釈し、矮小化してしまってはいけないことですし、それは神の言葉の無限の深さを人間的な基準に浅く狭くしてしまうことにほかなりません。
だれが聖霊を汚しているか、などといったことは、すべて主に委ね、私たちはどんな人でも赦されるようにと祈り願っていく、ということが求められています。
万人救済説は、キリスト教の長い歴史においては、少数の人の唱えた「説」であり、アウグスチヌス、ルターやカルヴァンなどもこのような万人救済説を、聖書の真理に反する教説(異端)として退けてきました。
ペテロ三の19で、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」と言われていることも、万人が救われるとは全く言っているのでなく、死後の世界、陰府にまで、キリストが行かれて宣教された、ということであって、それは万人を太陽のように愛される神の愛の一環にほかなりません。しかし、だからといって、悔い改めもしようとしない聖霊を汚した者が赦されるなどとは全く言われていないのです。
 また、万人救済説の根拠となる聖書の箇所としてあげられることがあるのは、次の箇所です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネの福音書三・16
しかし、この箇所は、万人救済説の根拠とはなっていません。それどころか,はっきりと「独り子を信じる者」とあって、信じないものも、ユダなどもみんな悔い改めもなしに救われるなどとは全く言われていないのです。
つぎに、神が愛であるならば、救われない人がいるとか、厳しい裁きをうけるなどは、神の愛に反することだ、として、すべての人が救われる、と考えようとする一部の人もいます。
しかし、説明できないことはいくらでもあります。例えば、神が愛であるなら、なぜ戦争とか飢饉、災害などで何千万という人たちが死んだり、苦しんだりするのか、ということもとても説明できないことです。
人間が分からないから、分かるように変えてしまって、それを信じる、などというのは、神の言葉や神の御計画の無限の深さと遠大さを著しく矮小化することです。
そのような考え方からは、キリストが神であって人であるというキリスト教の根本である三位一体ということや、主イエスの数々の奇跡や復活、そして十字架によるあがないなどをも否定しかねません。
実際、万人救済説をとる人たちにはこのような傾向を歴史的に生んできたのです。アメリカの万人救済説に立つ人たちは、ユニヴァーサル教会を設立しましたが、これは、三位一体の神を信ぜず、アメリカのユニテリアン教会と協力関係にあるとされています。
また、 万物復興ということと、万人救済説との結びつきについて、「黙示録の21章で、万物の復興という教義が書いてある」と言われることがあります。そして、あたかも黙示録が万人救済説に立っているように言われるのを実際に耳にしたことがあります。しかし、黙示録では、決してサタンが救われるとか、万人が救われるなどとは言われていないのです。
 たしかに、「見よ、私は万物を新しくする」(黙示録二一・5)と書いてありますが、そのすぐあとで、「臆病なもの、不信仰な者、人を殺す者、魔術を使う者、みだらな行いをする者、すべてこのような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。」(黙示録二一・8)
 と書かれてあり、さらに、黙示録の二十章でも、次のような悪への厳しい裁きは記されています。

「悪魔(サタン)は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そしてこの者共は昼も夜も世々限りなく責め苛まれる」(黙示録二十の10

こうした描写は、世の終わりのときの世界、霊的な世界での裁きに関するもので、悪そのもの、サタンが滅ぼされるということを記しているのであって、文字通りの硫黄の池などがあるということでなく、本来言葉で表現できないことを象徴的に現していることです。
それゆえ、私たちはこのような表現がどのようなことを言おうとしているのか、おぼろげに分かる程度であり、頭で判断しようとしても捕らえがたいものがあります。それは啓示によってのみ分からせていただけるものだと言えます。
このように、黙示録は決して万人救済説などを言っているのではなく、それとは逆の厳しいさばきのことが書かれており、黙示録を根拠に万人救済説とかその説と結びついた意味での万物の復興などはとても言えないことです。
 
 内村鑑三やボンヘッファーなどの万人救済説について。
内村は、自分のような罪人が救われたのだから、どんな人でも救われるにちがいない、という希望をいだいたわけです。
 しかし、どんな人でも、主イエスが悪霊を汚した、とされるような人までも、自動的に万人救済される、などということは全く言っていないことです。
ヒトラーのユダヤ人の大量殺害やスターリンの大粛清などにより、彼らが数百万人を殺害したということなどは、内村鑑三の死去した後のことであり、そうした歴史上かつてないような大規模な殺害をした人たちも悔い改めもなしに救われるなどということは内村鑑三も考えたことはなかったわけです。
 次に内村鑑三の万人救済に関する考え方を引用しておきます。

万民救済の希望
 罪人の首たる余を救いうる愛は、いかなる罪人をも救いえてなお余りあるべし。余は余を救い給いし神の愛をもってして救いえざる罪人の場合を思惟するあたわず。神が世に先んじて余を救い給いしは、余をして万民に神の救済の約束を伝えしめんがためならざるべからず。余は万民救済の希望を余白身の救済の上に置く者なり
(「聖書之研究」一九〇二年五月号)

 ここでも、言われているように、内村は自分自身の深い体験によって、このような罪深いものが赦されるのだから、どんな人でも赦されるにちがいない、という思いを述べて、そこから万人救済の希望が持てる、ということを述べているのです。
 それは「万人が救われる」といった事実や真理を言っているのでなく、あくまで「希望」なのです。
万人救済説に立つとも言われる、ボンヘッファーも、決してヒトラーやスターリンがみんな救われるなどと、断定的に主張したのではないのであって、そのことは、宮田光雄の本でも、次のように書かれています。

(ボンヘッファーは、)万人救済説というのは、あくまで希望であって、体系にまとめられることはない」 といっている。万人救済説は信仰の「希望」なのだ、教義や神学の体系ではない、と。これは非常にすばらしい指摘です。
(「嵐を静めるキリスト万人救済説の系譜」 一九三頁 宮田光雄著 一九八九年 新教出版社)

これは、きわめて当然のことです。聖書にも明確に書かれておらず、しかも、自分自身の魂の状態すら、分からず、思いがけない罪を犯したり、明日のことも分からないほどの弱き存在である人間が、他人や未来の人間、そして過去の無数の人たちの魂に対して、どんな裁きや救いがあるとかを、断定的に述べること自体考えられないことです。それを教義や体系などにすることなど到底できないことです。
万人救済ということは、神の愛ゆえに私たちに与えられる「希望」であって、個々の悪人や人間がどうなるのか、それは万能と愛の神を信じて委ねること、すなわち、神はすべての人を最善になし給うということを信じるだけで十分なことです。
救いの可能性がすべての人に及んでいる、ということは、主イエスの次の言葉がはっきりと表しています。

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。(マタイ五・4445

この短い言葉に神の愛がいかにあらゆる人に及んでいるかが、誰もが分かる言葉で明確に述べられています。ですから、万人が救いの可能性を持っていることをいうのに、わざわざ異端とされてきたような問題の山積している神学説や特異な神学者の本を他人の著作から引き出してくる必要は全くないのです。
聖書(神の言葉)を中心に述べることをせず、数知れずあるさまざまの議論のなかから、特異なものを一方的に引用するのは、人間の教説を神の言葉以上に重んじる姿勢です。
こうした姿勢は、必ず聖書そのものを軽視する風潮に流れ、その延長上にあるのは、さまざまの人間の神学的な解釈や意見に動かされ、確固たる信仰を持つことから離れていくということです。
それは救いの原点である神の言葉やそれを何より尊重するところから与えられる聖霊をも軽視することになるでしょう。
 主イエスが地上で過ごされた当時、イエスの深く単純な真理はかえって無学な漁師や一般の人たち、そして当時は見下されていた盲人や病人、あるいはハンセン病のような人たちに深く受けいれられ、それをまったく受けいれようとしなかったのは、神の言葉を綿密に学んでいたはずの学者(律法学者)たちでした。
彼らはかえってイエスを受けいれず、憎しみをもってイエスに対し、迫害をしていったことが思いだされます。
 また、使徒パウロもとくに律法をすぐれた教師から学んでいた学者的な人物でしたが、その学問をもってしても、主イエスが神の子メシアであることは全く理解できず、キリスト者たちを迫害し、殺すことにすら加担していたのでした。
 パウロが真理を悟ったのは、学問によってでなく、上よりの光であり、生けるキリストからの直接の語りかけであったのです。
 主イエスはわかりやすい言葉で、そこに無限の真理を込め、万人に開かれた真理を語ったのに、ともすれば人間はそこに人間的な議論や解釈を次々と入れて、複雑にして、ごく一部の人しかわからないような難解な議論にしてしまうのです。そしてそのような議論が分かったとしても、救いとは関係のないことで、そんな議論は何一つなくとも、信仰によってまた主イエスの恵みによって、生きたキリストが魂に留まり、聖霊を受ければ、そのような議論とは比較にならない平安と確信がだれにでも与えられることです。
私たちは聖書の言葉が分かりにくいとき、異なる解釈があって分からないとき、それを単純化して一方の方だけを軽率に取り入れることから、だんだんと聖書にある神の言葉より人間の考えや解釈を重んじるようになりがちです。
 真理は楕円のようなもので、中心が二つある、とは内村鑑三やその信仰上の弟子であった政池 仁ほかの人たちによって、以前からよく言われてきたことです。私たちは、神の言葉の無限の深みと広がりを思うとき、救いと裁きといった重要な問題については、簡単に特定の箇所だけを重要視して、ほかの重要な箇所を無視するのでなく、また、矛盾するように見えるところがあっても、それを一方だけをとって、他方を簡単に捨てて顧みないというのでなく、十分に聖書の言葉をそれぞれに吟味することが必要です。
 そして、分からないことは、神に委ね、神が最善にして下さることを信じることです。そして求めるものには必ず与えられると、約束されている聖霊を待ち望むことです。聖霊こそは、そうしたあらゆる問題を最終的に啓示によって霊的に明らかにして下さるからです。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
(マタイ福音書183
 
 この主イエスの念を押すような表現、それは幼な子のような心、幼児が母親を全面的な信頼をもって見つめるような心で主を仰ぐことがいかに重要であるか、を指し示しているのです。
 (万人救済説 終り)
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