働くことの意味について 2007/7-8
私たちは誰でも働くことは不可欠だと考えている。働きなければ収入もなく生活もできないから生活保護に頼ることになる。また、たいていの人にとって働かなければ生きる目標もない、仕事がなかったら時間とエネルギーをもてあまし、退屈で耐えられないことにもなる。
このように、多くの人たちにとっては働くということは空気のように当たり前のことであろうが、最近は働ける体力もありながら働こうとしない人、あるいは心が弱って働けないで家で閉じこもるという人たちも増えている。病気や老年を誰でも受けいれたくないのは、からだの苦しみや孤独などさまざまの理由があるが、とくにこの働くことができなくなる、ということも暗く重いイメージを増大させている。
そのように、私たちにとって働くことは、それができる人、できない人の双方にとって、絶えず日々の生活の大きな関心事となっている。
聖書ではこの「働く」ということについて、どのように書かれているのか、神は私たちをどのような働きへ招こうとされているのか、その一つの断面を見せてくれる箇所について学びたいと思う。
… 天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
それで、受け取ると、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ福音書二十・1~16)
このたとえは、天の国のたとえである。しかし、以前の口語訳聖書では、「天国」と書かれてあって、例えば広辞苑では、「神・天使などがいて清浄なものとされる天上の理想の世界」と説明されている。
しかし、ここにあげた聖書の箇所はそのような天上の理想の世界とか、死後の極楽世界などとは全くちがっているのがすぐに分かる。
このようなことから、初めてこの箇所を読む場合には、日本語の天国と、聖書の天の国(天国)とが混じり合って意味が不明なものとなってしまう。
これは、今までにもこの「いのちの水」誌でも書いたことであるが、この冊子を初めて読む人もいると思われるので、再度書いておくが、天とは神のことで、国と訳された原語(ギリシャ語)は、バシレイアであって、これは王という意味のギリシャ語
バシレウス から派生した言葉である。バシレイアとは、「王の支配」というのがもとの意味である。それゆえ、この箇所でも、天上の理想の世界のことでなく、この地上を神がいかに支配なさっているか、ということである。神の御支配、あるいは神の人間に対する扱い方が、いかに地上の人間のやりかた、支配の仕方と異なっているかを示したたとえなのである。
まずこのたとえで分かるのは、ぶどう園の主人とは神を象徴しているが、いつもぶどう園での働き人をもとめておられるということである。
主ご自身は、キリスト教徒を迫害していたパウロに突然光を当てて、福音の使徒として召しだしたように、その御計画に応じて予想もしない人をその神の国のため、福音のために呼びだしておられる。
主イエスは、言われた。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ九・37~38)
と教えて、働き人が起こされるのは、神ご自身の願っておられることであるから、そのように私たちも祈るべきことが言われている。
このぶどう園のたとえは、ふつうの労働のことのたとえでありながら、そうした神の国のための霊的な働き人のことが、たとえの背後に隠されているのである。
神は、朝早くから、何度も繰り返しぶどう園の働き人を見出しては、ぶどう園へと送り出していく。一日の何時であってもその呼び出しは続いていく。それはこの世のいつどのような時代、状況であっても、神の国のための働き人は常に必要とされていることを示すものである。世の中にはさまざまの働き人があるし、それはそれぞれに必要なものである。米や野菜や牛乳などの生産をする人、運搬する人、またそうした飼料を生産する工場、販売する店、会社、あるいは、そうした知識や技術を教える教育機関、そこで使われるパソコンなどの機器類の生産や向上を研究する技術者等々、無数の働きがそれぞれにこの世において必要とされている。
しかし、そうした働きのためには、それぞれに誰でもができるわけではない。技術者のためにはそれだけの専門的な学びが必要であり、大学などで学んだ学識が必要とされるし、多くの仕事では健康が第一に必要な条件となる。
しかし、神の国のための働き人は全く異なって、そうした条件が必要とされないのである。
そのことが、夕方五時ころに雇われた人のことで示されている。
ぶどう園の主人が、夕方五時ころになって広場に来てみると、何もしないで一日中立っていた人がいた。なぜ一日中立っているのか、と問うたとき、その人は、「誰も雇ってくれない」と答えた。それは、この人に身体の上で病弱にみえるとか、障害があるとか、とにかく雇っても仕事ができないとみなされたからであろう。しかし、それでも一日中立っていたということは、どうしても働かねばならない事情があったと考えられる。家族が困っている、自分も病気とかのために治療費も必要だ、等々だれでも現在のように福祉とかの政策がない時代には食べるにも困るようになることがあっただろう。
そうした外見的に働けないような、相手にされないような人を、このぶどう園の主人はあえて雇った。そしてぶどう園に行きなさい、といって働く道を開いてやった。
一日の仕事が終わって、賃金を払うときになった。そのとき、驚いたことにその主人は、一番最後に雇われた人をまず呼んで、一日働いた人と同じ賃金を与えたのである。
およそ賃金を払うときには、ボーナスという勤勉手当があるように、よく長時間働いた人にはそれだけ多く与えるというのが常識である。夕方やっと仕事にきてわずかしか仕事をしなかった人は後回しになり賃金もわずかになるのは、誰が考えても当たり前のことである。
しかし、このぶどう園の主人はその当たり前のことを、しなかった。
なぜそのように、一番最後に来た人、だれも雇おうとしなかったような人を第一に呼んで、朝早くから仕事していた人たちよりも優先したのだろうか。そのように扱うということは、とくにこの主人が目をかけて、心を注いでいたというしるしである。
この主人はふつうの人間社会でするように、外側の仕事や時間ではかることをしないのである。その人を愛をもって見る。どんなにその人が困っていたか、またどんなに悲しみのなかで待ち続けていたのか、その苦しみや叫びを聞いておられる。この最後に来た人は、だれもやとってくれなかったのに、やとってくれて働かせてくれたことへの深い感謝があっただろう。それゆえにいっそう真実な感謝の心で働いただろう。ぶどう園の主人、神はその心の真実さを見られる。
憐れみをもって見て下さっている。
この夕暮れまで、「何もしないで立っていた」という人、それは一見自分とは関係ない人のように見えていたが、実は自分にも深い関わりがある,いや自分自身のかつての姿でもあったと感じさせられた。
どんなに勉強しても努力しても、活動してもそれは結局は自分のためであった。自分をよくするため、自分が人よりも抜きんでるため、であった。それは神の国から見れば、また神の霊的な基準で判断するなら、「何もしていない」ことになると感じた。
主イエスの有名なたとえがある。
…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ福音書十五の5)
この言葉はたいていの人にとって意外な言葉、反発を覚えさせる言葉であろう。
イエスにつながっていなければ何もできない! そんなことはない、イエスなど知らない人、信じない人がほとんどの日本にあってたくさんの人がよい働きをしているではないか。こんな誇張した事実に反する言葉はない、と憤慨する向きもあるかもしれない。
しかし、ここで言われているのは、神のような愛と純粋さ、真実や正義をもってそうした働きをしているのか、と問われているのである。だれかに何かをしてあげる、そのとき相手が恩知らずのようなことをしたら,すぐにそのような態度に憤慨して、それまでの好意は怒りや嫌悪に変るだろう。それはその人のよい行動のように見えたことも、実は自分のため、自分を満足させるためであったことのしるしである。もし純粋な愛から相手のためにしているのであれば、相手がそのような態度をとっても、そのような悪しき心がかえられるようにと静かに祈るであろうから。
このように、神のような愛や清い心を基準にして考えるときに、人間の愛や行動は不純に満ちている。それを「何もできない」と言われたのである。
自分を一番根本に置いて、万事をその自分のためにするような傾向を根本的に打ち破るためには、主イエスに直接に結びついている必要があり、それによってのみ私たちは純粋な愛をもってなすことができるといおうとしている。
このような愛は、人間の究極的な課題であり、誰も自分はそのようにできている、などと胸を張っていうことはできない。
しかし、このような自分中心に生きてきた人間をも、神は呼びだされ、神の国のために働くようにと送り出される。それは人生の夕暮れであろうとふつうにはもはや役に立たないように見られている人であっても関係がない。
報酬をお金でもらえるような働きは、たいていの場合健康でなければできない。例えば寝たきりの病気となったら、事実上、ふつうのどんな仕事もできない。このようなことは子供でも分かることだから、健康第一、とよく言われるのである。
しかし、神の国のための働きはそうではない。病人であっても障害者であっても、また健康であっても、老人であっても、また死が近づいた人であってもそれはできる。
水野源三や、星野富弘のような人は重い障害をもって、自分では起き上がることも歩くこともできない。しかし、水野源三は、その清く深い内容の詩によって死後も大きな神の国のはたらきをなし続けているのである。星野も多くの詩や絵画をもって神の国のために用いられている。
しかし、そのような有名になった人はごく一部であって人知れず神の国のために今も病床や自宅、療養所などで病気にもかかわらず御国のために働き続けておられる方々は数知れない。
この「いのちの水」誌でも何度か紹介したことのある、「祈の友」もそのような、人生の夕暮れ、否もう人生も終りだという絶望的状況に置かれた人から始まったものであった。どんなに重い病気であっても、寝たきりでも、他の病棟にいる苦しむ人たちのために祈りを捧げることができる、ということから「祈の友」は始まった。そしてもう七十年以上も経った現在もその働きは続いている。
神の国のための働きは、人生の終りになっても、また死の間際になってもできるということなのである。後でもう一度触れる、十字架でイエスとともに処刑された重罪人が、もうじき息を引き取る最期の近いときに、自分の罪を深く知り、そのような者であったが、主イエスが人間とは異なる、神の人であることを示され、死の後によみがえって神のもとに帰ることを信じていたその人は、「イエスよ、あなたが御国に行かれるとき、私を思いだしてください!」と必死に願ったその一言で、主イエスは、彼がパラダイスに今日行くことになると明言し、そのことが二千年にわたって宣べ伝えられることになった。
そしてこのことは、数知れない人たちを励まし、どんなに重い病気であっても、老齢になってどこへも行けないからだとなっても、また死期の近い状況になってもなお、私たちは神の国のために働くことができる、という希望に満ちたメッセージが隠されているのである。
一日の仕事が終わって、報酬を与えるときとなって、ぶどう園の主人は、朝から働いていた人を第一に呼んで報酬を与えると予想されたのに、まず呼んだのは、その人でなく、夕方まで、立ち続けて呼びだされるのを待ち続けていて、やっと仕事に呼ばれ、一日の終りころ一時間ほどしか働かなかった者を最初に呼んだのである。
第一に呼ぶというのは、それほど関心をもっているということである。注目し、心を注いでいるときにはその人を第一に呼ぶであろう。この主人の第一の関心の対象は、最後に来た人であった。なぜだろうか。それは、誰も仕事に雇ってくれなかったような弱い人、病気がちであるとか、何らかの理由で相手にされなくて無視されてきたような人を第一に見つめておられるという神のお心がここに反映されている。
報酬を与えるときに、何を考えるか、普通は、まず労働時間であり、その働きの熱心さや実績であろう。 しかし、このぶどう園の主人は、驚くべきことに、そのような観点から見るのでなく、一方的な憐れみゆえに最後に来ただれも雇おうとしなかった人に特別な恵みを注いだのである。
これは、この最後の労働者が特別に同じ賃金を下さいと懇願したのでもない。一方的に主人の方から本来与えられるはずはない報酬が与えられたのである。
このことは、新約聖書の中心にあることだと言えよう。
それは、最も重要なこと、罪の赦しにも同じようなことが見られる。私たちが何らかのよい働きをしたから罪の赦しが与えられるというのではない。そのようなことによって罪の赦しを得ようするならば、計り知れない働きが要求されることになる。罪とは神に対する罪であり、神とは無限の愛と真実、そして正義に満ちているお方なのであるから、私たちの罪は計り知れないことになる。
…天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。…(マタイ福音書十八・23~24)
このたとえで、借金とは罪のことで、タラントンという言葉が分からなかったら、このたとえの意味も分からない。一万タラントンとは、現在の金の値打ちで言えば、いくらほどになるだろうか。
主イエスのたとえでは一日の労働者の賃金が一デナリオンであるから、目安としては、現在の日本で大体一日の賃金を一万円とすると、一デナリオンは一万円となる。
一タラントンは、六〇〇〇デナリオンだから、一万タラントンは、六千万デナリオンとなり、現在の日本円の感覚で言えば、六〇〇〇億円、日数で言えば、十六万四四〇〇年分の賃金となり、これは返済不可能な金額であることは言うまでもない。
これは、私たちの主人(神)に対して、無限の借金をもっているということである。このような借金を持っている家来であるのに、その家来がひれ伏して「返すのを待ってください」と懇願するのを見て、主君は、かわいそうだと思ってそのまま帳消しにしてやったという。
そのような返済不可能な借金を、ただ主君に必死で待ってくれるのを願うだけで、本来借金を返せと言われていたのに、すべて帳消しにしてもらうという。無限の借金を無条件でなかったことにしてくれるというのである。
これはあまりにも不可解だと私たちには思われる。
しかし、これが神のなさる御支配の実体なのである。
私たちはだれでも深く振り返って見るならば、数知れぬ罪がある。愛を持っていたのか、と問われたら、だれが持っています、愛を働かせてきた、などと言えるだろう。愛とは、自分の気に入った人への好意を現すことでなく、敵対する人にすらその人がよくなるようにとの祈りの心を持ってすることであり、たまたま隣り合わせた人同士でもそれがどんなに醜い人、わるいような人であっても、その人の魂がよくなるようにと願う心だという。
そのような愛をいつも持っているとか、そのような愛で生きてきたなどとだれが言えるだろうか。
こうした私たちの実態にもかかわらず、神は罪の赦しを無条件で与えるという。
このように、私たちがずいぶんひどい罪を犯し、神のさばきを受けることは当然であるようなことをしてきても、なお、私たちの心からなる悔い改めのまなざしによって、それまでのすべての罪、悪行を帳消しにして下さるという、人間社会では考えられないことが記されている。
この計り知れない罪というものを何もそれを償うことをしないにもかかわらず、その罪の赦しが与えられるということ、それは、このぶどう園の労働者のたとえで、夕方やっと呼ばれてわずかしか働いていない者なのに、第一に招かれて朝から働いた者と同じ賃金を受けたということと内容的に似たものがある。それは、人間の側の働きでなく、神の憐れみゆえに一方的に与えられるということである。
また、同様なことは他にもみられる。
それは、十字架で主イエスが処刑されたときのことである。二人の犯罪人が同時に十字架刑にされたが、そのとき次のようなことが記されている。
… 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。(ルカ福音書二三・42)
ただ、この死の苦しみを前にした一言で、主イエスは「はっきり言っておく。あなたは今日私と共にパラダイスにいる」と言われた。
この十字架上の罪人は、自分たちは自分のやった悪行の報いを受けているのだから当然だと言っていることからすると、非常に重い犯罪、例えば強盗殺人などのようなことをしてきたようである。
しかし、この彼の人生の最後のとき、主イエスに出会ってイエスは死を超えたお方であり、殺されても復活して神の国に入るのだと信じていた。これは驚くべきことである。弟子たちですら、イエスが殺されたら何にもならない、と思っていたから、主イエスが十字架にかけられて殺されると予告したときでも、筆頭弟子というべきペテロすらも、「そんなことがあってはならない」とイエスを脇に引き寄せて非難したほどであった。弟子たちは復活も全く信じてはいなかった。
しかし、この十字架で処刑された重い犯罪人は、驚くべきことに、イエスが殺されてもそれで終わるのでなく、復活して神のところに帰るということ、これはイエスを人間以上のお方である、神の子であることを確信していたのがうかがえる。
主イエスはこのような人間をその生涯の最期のときに招かれた。この罪人は、自分の罪の重さをはっきりと悟り、しかも主イエスへの全面的な信頼を持ったゆえに、いわば一日の終りの最後まで(神のためには)何もせずに立ち続けていたような人間、それどころか重い犯罪を犯したような者であった。
しかし、彼は、主イエスによって はっきりとパラダイスに入るという約束を与えられた最初の人になった。
よく知られた放蕩息子のたとえも、何もせずに立ち続けていたものが、かえって手厚く迎えられるというぶどう園の労働者のたとえと通じる内容である。
父親の財産をもらってそれを持って遠くへと出かけ、享楽のために使い果たして生きることもできなくなって、ようやく自分のやってきたことの間違いに気づき、父に対して、また神に対しても罪を犯した、自分はどうなってもいい、父のもとに帰ろうと思って、帰り始めた。そうすると遠くからそれを見付けた父親は、走り寄って抱きしめ、高価な肥えた子牛を用いて料理させ、かつてないご馳走をふるまったという。
それに対して長い間忠実に働いてきた兄は、そのことを知って自分にはこんなに長い間働いてきたのに、一番安価な小羊一匹すら食事のためにはくれたことがない、といって父親に不平不満を繰り広げた。
ぶどう園の労働者も朝から働いた人たちはやはり、最後に来た人が最初に賃金を与えられ、さらに自分たちと同じ賃金をもらったということで、「私たちは朝から暑さを耐えて長い時間働いたのに、夕方からわずか働いた人と同じ賃金だ」と言って主人に不平不満を言った。
これはとてもよく似た内容である。
最後に来た労働者と、放蕩息子、この二つは、わずかしか働かなかったこと、あるいはまじめでなく、よい働きもしてこなかったことで、まともな人間扱いをされないような人を、神は驚くべきことだが、普通によい働きをしていると思われている人よりずっと熱い思いで見つめ、愛を注いでおられるということである。
そんな不平等なことはない、というかも知れない。しかし、なぜぶどう園の主人や、放蕩息子の父親は、そんな態度をとったのだろうか。
それは一言にして言えば、まじめに働いてきた人といえども、愛がなかったからであった。
ぶどう園のたとえで、朝から働いてきた人たちは、夕方になってやっと仕事に来た人が、賃金の受け取りのとき、自分よりも先に呼ばれ、しかも朝から働いた自分たちと同じ賃金をもらったことに腹を立て、主人に向かって、不平不満を並べた。
彼らは、夕方まで立ち続けていた人の苦しみや不安、だれもこのままやとってくれなかったらどうしょう、家族を支えることもできない、といったような背後にあることを全く想像することもできなかった。それゆえ、彼らは、その夕方に来た人が賃金を最初に受けたときに、共に喜ぶことができなかった。一日暑い中を、立ち続けて私たちと同じ賃金をもらってよかったね、何と思いやり深い主人なのだ、とその人とともに喜び、主人の愛の深さにも心動かされて感謝する、というのが、あるべき姿であった。聖書にも、次のように言われている。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(ローマ十二・15)
ここに言われていることが全くできなかったのである。
放蕩息子の兄も同様であった。
長い間放蕩を重ね、行方不明となっていた弟が帰って来た、しかも自分が父に対しても神に対しても大きい罪を犯したことを悟ったうえでの帰郷であった。それを兄も共に喜び、父親とともに喜びをもって迎えるというのが、愛ある姿であった。
しかし、この二つのいずれも、こうした愛でなく、自分中心の感情しかなかった。自分の報酬が少ない、自分には何もしてくれなかった、という自分への利益中心の考えなのであった。
いかに、勤勉であってまじめに働いているようであっても、それは結局自分中心であり、愛のない働きなのである。
愛がなかったら無であるというはっとさせられる言葉がある。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。(Ⅰコリント十三・2~3)
放蕩息子の兄や、朝から勤勉に働いてきた人たちは、いずれもまじめであり、よく働いた、言いつけもよく守った、しかし愛がなかった。
…これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。(コロサイ書三・14)
この言葉にある、完全に結ぶ帯である愛がなかったために、祝福が受けられなかった。先の者が後になり、後の者が先になる、という言葉のとおりになったのである。
この世では、まじめに働いたものが当然の報いを受ける社会であって欲しいと、よく言われる。そしてそれは社会的な問題としてはそのとおりである。働かないで、賭け事をしたりして儲けようとしたり、パソコンの前で一日座っていて金を手にしようと考えるのは本来のあるべき姿とは言えないのはだれでもが感じるところである。
しかし、神の御支配はそうしたこの世の常識をはるかに超えたところにある。
それは、弱い者、この世で相手にされないような者、悲しみや苦しみに置かれた人、そしてそれでも神を待ち望んでいる者、そのような者にこそ大きな祝福が注がれ、また悔い改めた罪人にこそ最大の神の祝福が与えられるのである。
福音書のはじめの部分で、主イエスによる最初のメッセージというべきものがある。
…ああ幸いだ、悲しむ者は!
なぜなら、その人は(神によって)慰められる(*)からである。(マタイ福音書五・4)
ここには、ぶどう園で一日立ち続けた人の心にあった悲しみが、神の愛によって慰め、励まされることと同じことを言おうとしているのが分かる。
(*)慰められる と訳された原語(ギリシャ語)は、パラカレオー parakalew であって、これは、「励ます」という意味をも持っているから、ここでも、深い悲しみに沈む者は、神へと真剣に求めるときには、魂において慰め、励ましを受ける、新たな力を得るという意味が込められている。
新共同訳でもこの原語は、つぎのように「励ます」と訳されている箇所もある。
・「…皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」(Ⅰコリント十四・31)
・どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。(Ⅱテサロニケ二・17)
このように、このぶどう園の労働者のたとえは、弱き者への神の愛、働きがなくとも、一方的に与えられる神の愛の本質、そして「正しきもの」の愛のなさが、浮き彫りにされていて、「ああ、幸いだ、心の貧しきものは!」と言われた主イエスの言葉をも思いださせる内容となっている。
この世の仕事のために、働き続けてきた人には、心の視点を神に向け、神の国のためにより直接的に働け、という呼びかけをこめたものであるし、弱き人、この世では相手にされない人に対しては神の国ではあなたもよき働き人となることができるし、報酬も多いのだ、という励ましに満ちたメッセージをたたえているのである。
現在、老年の世代がますます増えている。その一番の問題は、病気や体力の弱さではない。本当の働きを失っていくことである。そして同時に、さまざまの意味で弱い人たちが増えていくことである。それはしかし、この神の国の働きということに目覚めるとき、全くことなる様相を呈してくる。
神は万能であるうえにかつ愛のお方ゆえ、いかなる世の中の状況においても、対応するような新たな世界を開いて下さるのである。