風を受ける 2007/9
ある聖書の集会(いのちのさと作業所)の帰りに参加者を送って行くとき、そのうちの全盲のSさんが、車の窓から田畑を通って吹き抜ける風を浴びて、こんな風を受けるのは久しぶりだ、最近風に吹かれるということがなかったから、と言われた。
風に吹かれるということは、戸外に出ている人たちにとっては日常的なことである。しかし、長く入院しているとか全盲の人たちの内、何らかの理由で室外に出ることのほとんどない方々のような場合は田園地帯を吹き抜ける風に当たることは新鮮な出来事なのであった。
聖書には、樹木を揺るがせ、肌に感じる風とは別に、魂に吹き込む風のことが記されている。
別稿でやや詳しく書いているが、旧約聖書のエゼキエル書に、枯れた骨の集まりに、神が霊を吹き込んだときにその骨が生きたものとされたという啓示が記されている。
霊という言葉は旧約聖書の原語(ヘブル語)では、風という意味ももっている。神の国からの風とはすなわち神の霊であり、そのような風はたとえ室内でいようと、ベッドであっても、孤独な生活をしているところでも、どんな場所でもまたいかなる人にでも吹いていく。風は思いのままに吹く。聖なる霊もまた神の思いのままに吹いていく。
聖霊が吹いた最も著しい記録である、使徒言行録からそれを見てみよう。
キリストが処刑されたのち、復活という大いなる出来事に出会った。しかし、復活のキリストに出会ってもなお彼らにはそのことを伝えようとする力は出てこなかった。周囲の敵対的な人々のただなかで新たな力はさらに別の出来事が必要であった。それは聖霊が与えられるということである。復活したキリストご自身が、「約束したものを受けるように待ちなさい」と言われ、その聖霊を受けることが必須であることを預言されていた。
そして多くの弟子たちが集まり、祈って備えていたとき時が来て、聖霊が注がれた。
「…突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らがいた家中に響いた。」
(使徒言行録二・2)
聖霊は風のように吹いてきた。聖霊と訳される原語のうち、霊という原語(ギリシャ語)は、また「風」という意味も持っているから、これは、「聖なる風」という意味も同時に持っている。たしかに、聖なる霊とは、神の国から吹いてくる聖なる風なのである。
この風を受けて初めて弟子たちは、いかに反対があろうとも、そのただ中でキリストの復活を証ししていく力を与えられた。
真剣な祈りによって聖なる霊が与えられることは、ペテロとヨハネが捕らえられて後、釈放されたとき、彼らとともに多くの弟子たちが感謝と前途への守りと祝福を祈っていたときに、聖なる霊が豊かに注がれた事実にも見られる。(使徒四.31)
ときには、使徒が手を置いて祈ったときに聖なる霊が注がれたこともある。
…人々はイエスの名によって洗礼を受けただけで聖霊はまだ誰の上にも降っていなかった。ペテロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒八・16〜17)
また、次のように神の言葉を語っているときに、注がれる場合もある。
… ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。(使徒十・44)
このように、聖霊は主イエスが言われたように、風のように思いのままに吹く。とくに真剣な祈り、み言葉に耳を傾けているとき、そして信じる人たちが共に集まって祈りを合わせ、み言葉に聞き入ろうとするときに与えられているのが分かる。これは主イエスが私の名によって二人、三人がともに集まるときに私はそこにいる、と約束されたことを思い起こさせるものがある。
病気のために入院しているとか、自宅から出られない、あるいは近くに信じる人がいないときであっても、信じる仲間を覚え互いに祈り合うことによって主の名によって霊的に集まることになり、そこにも主イエスがいて下さり、聖霊が注がれることが期待される。
それだけでなく、まさに風が吹くように思いもよらない遠いところで聖なる霊の風が吹く例が記されている。
主イエスは、あるとき、いつも活動しておられたガリラヤ湖から直線距離でも六〇〜七〇キロ、道のりからすると一〇〇キロほども離れているような地中海沿いのフェニキア人の町に行かれたことがある。そのとき、見知らぬ異邦の女が、「主よ、ダビデの子よ、憐れんでください。娘が悪霊に取りつかれてひどく苦しめられているのです。」と必死になって救いを求めてきたことがある。
どうしてこのようなユダヤ人でなく、旧約聖書のこともイエスの預言も知らないはずの女が、イエスを悪霊すら追いだすことのできるメシアと信じることができたのか、実に不思議である。ダビデの子という表現は旧約聖書で預言されていた、ダビデの子孫として現れるメシアを意味しているのであって、彼女はイエスをメシアだと信じていたのである。
これは聖なる霊が風のように吹いたがゆえに彼女は信じることができたのである。イエスの奇跡や数々の教えを聞いてもなお信じないで、かえって憎んで殺そうとはかるようなユダヤ人が多く現れた一方で、まったく会ったこともなく奇跡を見たことのないはずの遠い異国の女がまっすぐにイエスを神の子と信じることができたのである。
このようなことは、ユダヤ人の間においても、日常的には隔離されてイエスのことも分からなかったはずのハンセン病の人が、イエスのことをやはりメシアだと確信していたことが記されている。あるハンセン病の人が、イエスの前に来て、ひれ伏し「主よ、御心ならば、あなたは私を清くすることができます。」(マタイ八・2)と、言って救いを求めてきたことがある。
また、人々の前に汚れているとされて出ることのできなかった、出血の病気のある女性が、イエスの服にでもさわったら癒されると信じて必死の思いで群衆に混じっていき、イエスにその心の深い願いをもって触れたとき、実際に癒されることが記されている。彼女のそうした深いイエスへの信頼もまた、だれから教えられたということもなく、奇跡も見ることもなかったと考えられるが、聖なる風によってそのような信仰へと導かれたのであった。
このような例が福音書には多く記されている。
…聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。(Tコリント十二・3)
彼らが、主イエスを人間以上のお方、主と信じることができたのはまさに聖霊によったのである。いかにわずかの言葉を聞いただけであっても、また神のわざに触れたことのないものでも、聖なる霊という風が吹いてくることによって、その人はイエスのことを神の子であり、神と同質のお方だと確信するようになる。
時代がいかに変わろうとも、天の国からの聖なる霊はいつも吹いている。それは妨げることができない。人間が心を開き、目を覚ましていることによってその風は私たちの魂のなかにも流れてくるであろう。
また神は思いも寄らないところ、予想していない人の心にこの聖なる風を吹き入れてその人を暗闇から救い出し、新たな神の働き人とされるのである。
私たちはまず自分のうちに、そして周囲の人々のうちにこの風が吹いてくるようにと願い、祈りを続けていきたいと思う。