希望の枯れたところに 2007/9
「我々は枯れ果ててしまった。希望は消え失せ、もう滅びるしかない。」
このような気持ちは多くの人が経験していくことだろう。 しかし、どんなに乾き、ひからびてしまったものであっても、徹底的に枯れてしまったものであっても、決して絶望ではない、そのようなメッセージは旧約聖書には多く見られる。
詩編には病気や敵対する力などあらゆる希望が失われたようてところから神に叫び、そこから神の力が与えられていった状況が多く記されている。
神は万能であり、愛であり真実なお方であるからいかなる乾いたものをも生かすことができる。
エゼキエル書は、一般にはとても親しみにくい書物である。聖書の多くの引用とか聖句集などもエゼキエル書からというのはごく少ない。
しかし、意外なところでエゼキエル書の一部の内容と関係した歌で広く知られているものがある。それはドライ・ボーンズという歌(ゴスペル)である。これは、「乾いた骨」dry
bones という意味である。(日本語訳聖書では「枯れた骨」あるいは「干からびた骨」と訳されている。)
アメリカのあるコーラスグループが歌って彼らを世界的な名声を得るようにしたのが、このドライ ボーンズという歌であったというほどに、ポピュラーになった部分もある。
しかし、このような歌を日本人が聞いても全く本来の意味を類推することもできないし、単にメロディーがおもしろいとか、歌詞の内容が、からだのいろいろな部分の骨が次々と結びついて、最後に立ち上がり、歩けるようになる、どこかユーモラスでさえあり、一風変わっているというだけのものとしてしか受け取れないだろう。
ことに、英語のままでは発音もわからず何の意味を歌っているのか皆目分からないまま、そのメロディーで覚えているといった程度になるだろう。日本語では、ドライという言葉は、「彼はドライな人だ」というような表現でわかるように、割り切ったとか冷淡な、といった意味で使っているから何となくそんなイメージで聞いている人も多かったのではないか。
しかし、この歌の元になったエゼキエル書の内容はそうした軽いもの、単に気晴らしに歌うといったような内容とは全く異なって、奥深い意味をたたえている。
…主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。…
主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、見よ、音を立てて、骨と骨とが近づいた。
わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。
主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。…
わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。(エゼキエル書三七章より)
一見この内容は異様なものがある。枯れた骨が生き返る、などということは私たちの日常生活においては考えることもしない。しかし、この内容は、私たちにとっての福音なのである。
預言者エゼキエルが神に導かれて、見たのは谷の上に非常に多くの骨があり、それらは徹底的に枯れていた。these bones were completely
dry.(NJB)
それはまさに絶望の大集団であった。そこには何等命もなく、力もなかった。骨があるというだけで、それは死を意味するものであるが、それが「非常に(完全に)、乾いていた(枯れていた)」という強調によってこれらが命を完全に断たれたものであることが示されている。
さらに、これらの骨はさまざまに、バラバラになって散乱していたのである。ここにもこの状況が回復が不可能であることを示している。
そのような状況を見せられてエゼキエルは、神に問われた。「これらの骨は生き返ることができるか」と。
当然その答えは、普通なら「到底できません。不可能です」であろう。しかし、エゼキエルは、「主なる神よ、あなただけが知っておられます」と答えた。
ここには、人間的な判断としては全くの絶望的状況であっても、神はそれをも動かすことのできるお方であるという神への信頼が見られる。
エゼキエルは、自分の民族が祖国で徹底的に打ち破られ、多数の者がはるかに遠いバビロンに捕囚として連れてこられ、今後どうなるか分からないという状況のなかで、数々の啓示を与えられ、ほかの人にはまったく分からない神の本質や神の力、今後生じることなどを示されたのであり、そのような神の大いなる力に触れてきたエゼキエルは、こんな絶望的状況でも、それをどのようにして回復するかは、神のみが知っておられる、という気持ちになったのである。
自分が本来ならば全くわかることもあり得ないことを、特別に神の霊によって引き上げられ、まざまざと見せてもらった者にとって、今自分の目の前にあることがいかに全くの闇であり、混沌であってもだからといってあきらめないであろう。
神から深い霊的な真理を多く示された者であればあるほど、自分が知っていることはきわめてわずかだということを深く知っているからである。
私たちにおいても、どんなに現状が絶望的であっても、そこからの解決の道は神のみがご存じであるゆえに、神の万能に委ねるという希望を与えられている。
こうした神のみがご存じであるというエゼキエルの信頼に応えるかたちで、神はこの枯れた骨に向かって語れと命じた。
聞くこともできない、もはや死んで相当の時間も経っているゆえに乾ききっている骨に対し、またその辺り一帯に散在している骨に向かって語るなどは、本来全く無意味なことである。
しかし、神の言葉は相手がどんなに死んだような者であっても、神の力が働くときには力を発揮する。
「枯れた骨よ、主の言葉を聞け! 私はお前たちの中に霊を吹き込む。」 (三七・4)
命を全く失ってしかもバラバラになって散在する無数の骨の集団に対して、神はあたかも生きた人間に対するようにエゼキエルを通して語りかける。
ここに神の愛がある。人間は、相手が死んだような状態となればもう顧みないことが多い。病気とか死の近い人、あるいは重い障害者となったりすると、もう見舞いにも行かない、また遠くに去って行って会うこともなくなった場合には、そういう人たちはいわば枯れた存在となって、働きかけることもなくなっていく。
しかし、聖書に現れる神は、どんなに私たちが死んだようになり、バラバラの混沌状態であっても、愛を持って語りかけて下さる。
これは、新約聖書に現れる放蕩息子のたとえの父にも表されている。多額の金を持って家を出て行き、働きもせず遊び暮らして堕落していき、ついに食べるものもなくなって豚の餌でも食べるというほどになった。そのような彼の心の状況はまさに、何の潤いもない乾いた骨、ばらばらになった骨のようなもので人間らしさを全く失ったような状況であっただろう。しかし、そのような者をずっと心に留めていたのが父親で象徴されている神であった。神はそのような落ちぶれた息子に自分の罪に気付いて立ち返る心を与えたのである。
彼が悔い改めの心をもって父の元に帰って来たとき、父は遠くからそれを見付けて走り寄って彼を迎え、抱きしめて彼の悔い改めを喜び最大のもてなしをしたという。
乾いた骨、しかもバラバラになった骨の大集団、これは何かあまりにも我々の日常の生活とかけ離れているような異様な光景である。
しかし、実はこれは現在の世界の状況を象徴的に表しているとも言えるのである。
本当のいのち、永遠の命を知らないで、乾いた心を持って真のつながりもなく離ればなれになった人間の大集団、これはまさに現在の状況と言えるのである。
そのような状況は、今に始まったことではない。二千年前にキリストの最大の使徒パウロは次のように書いた。これもまた、乾いた骨、散在している骨が実は人間の集団そのものであると言おうとしているのである。
「正しい者はいない、一人もいない。…皆迷い、だれもかれもが役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」
(ローマの信徒への手紙三・10〜12)
これは旧約聖書の詩編からの引用であり、すでに旧約聖書の霊感を受けた詩人もまたこのように、世界にはその深い心の奥まで見るならばみんな罪深い集団なのだと見抜いていたのであり、パウロはそれに深い共感をもってこの詩を引用したのである。
聖書は不思議な書物である。過去のはるかに遠い昔のこと、しかも我々と全く関係のない古代の国々のことを書いてありながら、それを一度神の光に照らして見るとき、まざまざと現代の私たちのことを言っているのだと分かってくる。その鋭さ、深さは他のいかなる書物にもないもので、過去の出来事を見ながら現在を同時に見つめることになるのである。
このような絶望的状況は、多くの人は知っていてもどうすることもできないからそれに触れようとしない。それから目をそらし、一時的な楽しみで忘れようとする。スポーツやさまざまのイベント、数々の飲食店、娯楽施設等々はそうした目的で用いられていることが多い。
しかし、聖書はこの人間世界の本質をまっすぐに見つめて、現状を見抜き、そこからの道をも同時に指し示している。
エゼキエル書においては、このような絶望的状況を書くだけでは決してなく、そこからの解決の道があることを示すことが目的なのである。
それは、神がまず神の言葉を語りかける、それだけで枯れたバラバラになった骨が動き出すということで示される。ここには、たしかに神の言葉の重大な意味がある。そして、それだけでは終わらない。そこにさらに神の霊が吹き込まれる必要があった。神の霊こそは、そうしてまとまってきた私たちの魂にいのちを与え、新たな歩みを与えるものになるのであった。
バビロンだけでなく、さまざまの周辺の地に散らされ、バラバラになったイスラエルの民族、彼らは彼らの努力とか英知や組織とかでなく、神の言葉によって集められる。たしかに古代のほとんどの民族が消滅していったのに、イスラエル民族だけがアッシリアやエジプト、新バビロニア帝国、マケドニアなどの大国の攻撃を次々と受けてもなおその特性を保って存続してきた。そしてたしかにエゼキエルが預言したように、神の霊を吹き込まれて解体して消滅することなく歴史のなかで生き続けてきたのである。
このように、聖書は単に個人の心のなかの平安の問題を説いているのでなく、一人一人に平安を与える神はまた、国家や民族、世界全体をも否宇宙をもその御手のなかに置いて、その御支配をなさっているのである。
私自身も、人間の意見や思想のようなものに絶えず接してきたがそれによっては混迷が深まるばかりであった。しかし神の言葉、聖書のごくわずかの言葉によってそうした混乱が驚くべき仕方で整理されていくのを目の当たりにした。まさに、そのあたり一面の枯れた骨が神の言葉で動き出し、一つ一つが結びつき一つのからだになっていくということであったのだ。
キリストの十字架、それは自分の心の持ち方を変えるとか、考え方を変えるとか、別の場所に行くとか職業や交際相手を変えるなどでは決して変ることのない人間の罪深い本性を変えるためであった。罪という点から見ると、パウロ自身が、自分を振り返って「ああなんというみじめな人間なのか。死に定められたこの体から誰が私を救ってくれるだろうか!」(ローマの信徒への手紙七・24)と言ったように、エゼキエル書の表現を使うならば、人間は誰もが、実は乾ききった骨のようなものなのである。
そこに、主イエスが神から送られて、その権威と力に満ちた言葉によって飼い主のいないようなさまよっている人々、枯れた骨のような人々を一つに集める大事業をはじめられたのである。
…イエスは、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有り様を見て深く憐れんだ。(マルコ六・34)
そのような人間にイエスはそれまでの預言者とは異なって、神の言葉を与えるだけでなく、神の力そのものも与えてハンセン病のような最も暗く重い病気とされたような人たちをもいやし、悪霊に取りつかれて人間が崩壊していたような人たちから、悪霊を追いだし、死人をもよみがえらせて死という最大の壁をも打ち壊して神の国への道を拓かれた。
エゼキエル書にあるように、主イエスは、まず神の言葉の権威と力をもって、ばらばらの枯れた人間を集め、力を与え、さらに、イエスの死後は聖なる霊を与えて信じて求めるものに、だれでも永遠のいのちを与えたのである。
このように、荒唐無稽と見えるような、枯れた骨の大集団に神が言葉を語りかけ、さらに神の霊を吹き込んでひとつのからだとして立ち上がらせる、というエゼキエル書の預言は、イスラエル民族の崩壊した状況からの再生を預言するだけでなく、万人の現状とそこからの再生をも預言するものとなっている。
私たちにおいても、どんなに枯れた状況であろうとも、再生不可能のような事態であっても、神はそうしたただ中にその御言を語りかけて下さるお方であることを覚え、自分自身や他人、また世界の状況がどのようであろうとも、神は必ずそれに目をとめ、神の言葉を語りかけて再生へと導こうとされているのを知ることができる。