リストボタン見よ、この人を!    2007/9

旧約聖書が含んでいる時代は、数千年に及ぶため、旧約聖書にはいろいろな人物が現れる。
しかし、キリストよりも五百数十年昔に書かれたとされるイザヤ書の五十二章の終りに近い部分から五十三章では、それまでだれも聞いたことのない人について記されている。
それは、まずその人物が、高く上げられるということから始まっているがその表現は特別である。(*)
… 見よ、私のしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
(イザヤ書五二・13 新改訳)
Behold, he will be raised and lifted up and highly exalted.

(*)ここには、英語訳で 「上げる、高くする」という意味の三種の言葉、raise, lift, exalt が訳語として用いられていることに反映されているが、ヘブル語原文でもルーム、ナーサー、ガーバ という三つの動詞が使われていて、それらは、「高くする」、「引き上げる」といった意味の言葉である。

このように、三つの異なる言葉を重ねて、高くされることが強調され、さらに最後には、「非常に」という意味のヘブル語が用いられて、全体を強調している。それゆえ、これは他には例を見ないほどの強調した文章なのである。
この預言者は、これ以上は高いものはない、ということを最大限に強調するためにこのような特別な表現を用いたと考えられる。
これから書き記される人とは、ほかに例を見ない人物であった。それゆえ、まずこの特別な人物を記すにあたって、著者は、「見よ!」という間投詞からはじめる。
私たちが全身全霊をあげて注目すべきは誰なのか、それはいかなる歴史上の重要な人物にもまさって、比類なき重要性を持ったお方なのであると、言おうとしているのである。
なぜ、「見よ!」と、特別に注意を呼び覚ます強い表現が用いられているのか、それはこの書を書いたイザヤが、神からのかつてない特別な深みをもった内容の啓示を受けたからであろう。だれでも、自分が圧倒されるようなこと、驚くべきことを体験すればそれを黙ってはいられない。見よ、これを! と語らざるを得なくなるし、指し示さなくてはいられなくなるからである。
預言者イザヤが、特別に力をこめて指し示した人とはどのような本質を持っていたのであろうか。その重要な部分を抜き書きする。

…彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、
一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い(悲しみの人で)(*)、病を知っている。
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、
彼らの罪を自ら負った。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。
(イザヤ書五二章〜五三章より)

(*)「多くの痛みを負い」と訳されているヘブル語原文は、イシュ マコーブであり、イシュは「人」、マコーブは、「悲しみ、痛み、苦しみ」という意味を持っているので、この個所は、「悲しみの人」、「痛み(苦しみ)の人」という意味になる。
日本語訳では、以前からの口語訳、新改訳は、「悲しみの人」と訳している。 英語訳でも、代表的な英訳として知られる、New International Version や New Jerusalem Version 、古くからの King James Version などでは、a man of sorrows(悲しみの人) と訳されているし、フランスの新しい訳(TOB)でも、やはり homme de douleur(悲しみの人) と訳されている。 原語が、悲しみ、苦しみ、痛みといった意味を兼ねて持っているから、この有名な個所でも、ここで預言されている人はこうした深い悲しみや苦しみを担った人なのだということが浮かび上がってくる。

このように、全く見栄えがせず、外見も見下されるようなものとなったという。それでもここで預言されている人は、主の前に育ったと記されている。ここで言われている人は、だれもこのような人がいるとは思いもよらず、聞いたこともない全く考えられない生き方をしたのであった。それは、外見的にも全くすぐれたようには見えず、人々から見捨てられ、軽蔑されていた。しかし、その人は、私たちの罪のすべてを担うという、かつてなかった人なのであった。創世記からはじまって、アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、その後のモーセ、ダビデ、などいろいろな信仰に生きた勇気ある人物が多く聖書には記されている。そしてアモス、ホセア、イザヤ、エレミヤといった深い信仰の預言者も現れる。 そのうち、モーセは民の背信のために苦しみ、自らもエジプトにおける苦難から救い出した民によって殺されようとするほどに苦しみ、人々に対して深い悲しみを持った人であった。
モーセよりずっと後の時代にエレミヤが現れた。当時の人々が真理の源である神を捨て、偶像崇拝に押し流され、不正なこと、汚れたことに身を任せることになったために、国は滅び、彼らの信仰の中心となっていた神殿は破壊され、多くの人たちは殺され、多数の人たちが、捕らわれて遠いバビロンへと捕囚になった。
こうした激しい動きのただなかで、エレミヤは深い悲しみを持って人々に神からの警告の言葉、神の約束の言葉を語り続けた。そこには、いかに人々が間違った方向に進んでいこうとも、なお人々を決して見捨てないで心を注ぎ続けた一人の神の心を持った姿があった。
しかし、それでもなお、イザヤ書五十二章の終りの部分〜五十三章にかけて記されている人は、そうした数々の旧約聖書に現れる偉大な信仰者、預言者とは大きく異なっていた。
それは、見た目にも何のよいところはなく、見下され、軽蔑される、といったことが一つである。すでに述べたような旧約聖書の重要人物たちは、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」というように描写された人たちはだれもいない。王として最も有名なダビデは「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。」(サムエル記上一六・12)というように記されていて、ダビデにおいてはとくにその外見もすぐれていたことが記されている。
しかし、このダビデに対する記述は例外的であり、ほかの旧約聖書で信仰の偉大な人物にはこうした外見の記述はみられない。そのようなことでなく、例えば、唯一の神を信じる信仰の源流となったアブラハムについては、神は、「私はあなたを祝福し、あなたを高める。祝福の源になるように。」(創世記十二・2)と言われた。イスラエルの十二部族の元になったヤコブについても、「主はヤコブについて言われた。私はあなたと共にいる。」(同三一・3)と記されている。 ヤコブの子供たちが、一つの民族となったのはエジプトに売られていったヨセフによって、彼らが食糧難をも救われエジプトに寄留するようになったからである。そのヨセフについては、繰り返し創世記において、「主が共におられた」と強調されている。(特に三九章においては、その短い内容に四回もこのことが書かれている。)
また、預言者エレミヤにおいても、その冒頭の章において、神から呼びだされたエレミヤは、自分は若者であり、神の言葉など語れないと恐れて言ったが、神は、「彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」(エレミヤ書一・9、19)と強いメッセージをおくっている。
また、将来現れるとされたメシアについて、イザヤ書のはじめの章では次のように言われている。

…その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。(イザヤ書十一・2〜5より)

ここでは、メシアとは神の霊が注がれる人だということ、そして弱きを守る正義のお方であるということが特に取り上げられている。
福音書では、主イエスの子供のころは、「英知に満ちており、神の恵みがその上にあった」(ルカ福音書二・40)あるいは、 それとともに「神と人とに愛された」(同52節)と記されている。こうして幼い頃のイエスの特質が表されている。そしてさらに伝道のときには、聖霊が注がれたことが強調されている。
これは、イザヤ書十一章の預言がそのまま成就しているお方であることを意味している。
このように、神がとくに選んだ人というのは、神が特別に祝福を与えること、神はいつもその者と共にいること、それはまた神の霊が注がれていることなどで特徴付けられる。
しかし、イザヤ書五二章の最後の部分から五三章にかけての個所では、そうした内容と全く異なることがメシアの特質として言われているのがわかる。それゆえにこそ、この個所のはじめの部分で、「多くの民は驚かされる」「口を閉ざす」「だれも語ったことのないことを見、一度も聞かされなかったことを悟る」「私たちの聞いたことをだれが信じられようか」 などと、繰り返しその意外性を強調しているのである。
神の霊が与えられ、神の祝福が与えられる、神が共におられる、といったことは、旧約聖書の最初からすでに述べたようにさまざまの神に選ばれた人たちに対して言われてきたことであり、それだけならば、決して「だれも聞いたことがない、信じがたいこと」とは言えない。
このイザヤ書の個所で言われている全く予想もしていないこと、聞いたこともないことというのは、さげすまれ、見捨てられ、外見的にも見栄えせず、風格もなく、好ましい容姿もない。 しかも、黙って死んでいったというところにある。
無視されるというのは深く人を傷つける。それゆえ、誰かを憎しみを持って見下そうとするときには、その人を無視するというかたちを取る。
子供たちの間でもこのようなかたちの無視によって学校へ行けなくなり、自ら命を断つものすら現れてくる。
ここで言われている主のしもべは、まさにこのような無視され捨てられたかたちであった。

…苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
(イザヤ五三・7)
このように、沈黙のうちに人から目立つことなく、見捨てられたままで死んでいった。しかし、みんなが無視してしかも神からさばきを受けて死んでいったと思われた者が、実はかつてない神のわざを担ったのであった。
彼の死は、私たちが正しい者とされるために、私たちの罪を担い、悲しみ(苦しみ)を負い、病気を身代わりに負うという深い意味を持っていた。
アブラハムは、滅びようとする罪深い町々の人々のために、必死で神にとりなしをした人物として知られている。ヨセフも兄弟たちの悪意をそのまま一身に受けてそこから神によって導かれていった。モーセも民の憎悪や不信実をみずからの上に絶えず降りかかってきたのを受け続けて歩んだ。ダビデも彼が仕えたサウル王の敵意に対して武力で報いようとせず、ただ祈りをもって逃げるということに徹した。
このように、すぐれた信仰者たちは、それぞれに悪意ある人間たちからの攻撃や憎しみを甘んじて受けたり、とりなしの祈りをしてきた。
そうした偉大な信仰に生きた人とどこが異なっているのか、それはこのイザヤ書五三章で書かれている人物は、人々の前で神の言葉を公然と語り、神の霊がゆたかに注がれ、偶像崇拝を厳しく指摘し、神の道に立ち返ることを人々の前で公然と述べる、ということが全く記されていないことである。
他のメシアの預言で記されていることがあえてここでは省かれて次のただ一点に集中して光が当てられている。
すなわち、見捨てられ、神から罰を受けたと誤解され、人々の罪を担い、しかも黙って死んでいったということである。ここにはあらゆる名声や人からの評価、社会的な地位、人間のひそかな自負心、自分の地位や家柄学歴、能力や業績を誇るといったこと、また自分の持っている支配力を及ぼしたいなどといった人間的なるものが全くないということである。
どこから見ても神のしもべとか預言者、王、指導者などとは見えない。にもかかわらず、最も困難なこと、多くの人たちの罪をになって死んでいくという、大いなるわざをなすべく神から特に呼びだされたのであった。
このような人間のすがたはたしかに旧約聖書全体においてもどこにもみられない。何もよいことはしていない、と思われ、見下されて死んでいった人が、多くの人間の罪を担い、それによって人々が救いに入れられるなどということは考えたこともないことであった。いまだかつて見たことも聞いたこともない、そのことがこの「主のしもべ」と言われる人によって実現されたというのである。
当時、このような生き方に何らかの点で暗示を与える具体的な人物がいたと言われることがあるが、それは聖書には明確なかたちでは記されてはいない。 このイザヤ書の記述は、数百年を越えて実現する出来事を神から直接に啓示されたことが記されているのである。
 それはこのときから数百年を経て、キリストによって初めて完全な意味で実現されていったのである。 このような沈黙のなかで、人々の罪を負って死んでいったというのは、主イエスにおいて実現された。
イエスは、単によい教えを述べたというにとどまらない。新しい考え方、思想を生み出したということだけでもない。まためざましい驚くべき行動、奇跡をしたというだけでもない。イエスはそれらすべてを比類のないかたちで現していった。
しかし、ほかのどのような歴史上の偉人や思想家とも異なっていたのが、人間の罪を身代わりに負って死んだということであった。どんな奇跡をしても、また思想家であっても、科学技術の天才であっても、自分や他人の罪そのものをどうすることもできない。ことに無数の人間の罪を沈黙のうちに負って死んでいった、というようなことはたしかにどこにも聞いたことがない。
イザヤ書の五二章の終りのところから、五三章にかけての内容は、そのような人間の姿をまざまざと神から啓示されたということなのである。これと同じ人物は、実際の人間としてはあり得ないと言えよう。せいぜい、周囲の悪意ある人たちや同じ民族に属する人たちの罪のある部分を負って死んでいったという人はいるかも知れないが、人間すべての罪を担うなどということは、神以外にはあり得ないことはいうまでもない。
たしかに、この書が書かれてから五〇〇年ほども後になって現れたイエスのみがその啓示を完全なかたちで実現したのであった。
それゆえに、イザヤ書のこの記事の冒頭のところで、「見よ、わたしのしもべは栄える」と言われているが、それはあたかもイエス・キリストを霊の目でまざまざと見て言っているかのようにはっきりとした表現である。
旧約聖書の全世界がこぞって、「この人物をこそ、見よ!」と呼びかけている。
この強い呼びかけを聞き取って、やはり同様な呼びかけをしたのが、新約聖書に現れるバプテスマのヨハネである。

…ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
…そしてヨハネは証しした。「わたしは、(神の)霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『(神の)霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人こそ、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。(ヨハネによる福音書一・29〜37より)

洗礼のヨハネは、このように、ヨハネによる福音書のはじめの部分において、二度も「見よ、神の小羊たるこの人を!」といって、人類が真に注目すべきお方は、主イエスであることを福音書の最初の部分で強調しているのである。
そして、二度までもこのように「見よ!」と繰り返し指し示しているのは、新約聖書ではここだけなのである。
このように、これらの箇所において共通した強調点がある。それは、「神の小羊」ということである。
小羊とは、死んで捧げられるものであるということは、聖書を読む人々にとってはよく知られたことであった。

…イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、
その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。…
その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。…
あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。(出エジプト十二・6〜13より)

このようにして、小羊の血によって滅びから救われるということが、キリストより千数百年も昔のエジプトからの脱出の際の記述に現れる。
洗礼のヨハネが、「見よ、神の小羊を!」 と繰り返し強調したのは、こうした旧約聖書からの見方が反映されている。神の小羊とは、血を流すことによって私たちが滅びることから救うのだというキリストの福音の本質がはやくもこのヨハネによる福音書の最初の部分で示されているのである。
そしてまた、その主イエスの広大無辺な働きがこの一言で凝縮されているといえよう。
この世には、実にさまざまのものがあふれている。そして私たちに絶えず働きかけて、これを見よ、あれを見よ、といって関心を惹こうとする。
新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、ビデオ、インターネット等々、科学技術の発達によって情報というものの量は飛躍的に増大していった。そしてそれらは人間に向かって絶えず、これを見よ、とばかりに目新しいものを常に提供していく。事件やスポーツ、催し物、政治の状況など、次々と現れるそうしたものは、私たちの関心を引き寄せるが、また次々と消え去っていく。深い魂の目で見つめるべきものはそうしたマスコミからはなかなか与えられない。かえってそれらは失われていく。
このような中にあって、いつどのような状況になろうとも、またどんな境遇の人、健康であろうと病弱であろうと、また平和のとき、戦争や災害のような大きな混乱のときであっても、なお、聖書で言われている「見よ、この人(キリスト)を!」という強い呼びかけはいつも生きている。
キリストこそは、いつどんなときでも、真実で愛に満ち、しかも万能で永遠であり、今も生きて働いておられるからである。


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