リストボタンまず受けること     2007/12

私たちの日常生活では、積極的に生きねばならない、自分で考えて自分から行動しなければならないということは当然のことである。他人が言うままになっているのはロボットのようなものだ、自主性がない、主体性がないと非難されるだろう。
このことは、私も聖書の世界を知るまではごく当然のことだと思っていた。
しかし、聖書の世界は万事を新しくする。自分で考えて自分で行動するというが、その自分というのがいかに頼りないかを思い知らされる。自分の考え、判断が実にもろく確固としたものを持っていないし、周囲の人間や学校などの組織、会社、役所、政府などを見ても同様である。
国家が教育や社会のしくみ全体を支配して間違ったことを強制していくこともあり、それはその政府が倒れるとたちまち反対のことを言い出すのである。 太平洋戦争前と戦後ではまるで反対のことを言い始めたたくさんの教育者、政治関係者、マスコミがあったことは広く知られている。
また、自分の考えが大事というが、その自分というものが実に変わりやすい。学生のとき、卒業して職業についたときとでは全く違った考えになることもよくある。四十年ほど前の学生運動に関わっていた多くの者たちがそうであった。またそれから老年になったらまた大きく変るし、病気や大きな困難に直面したらまた変る。
それゆえに、だれでも動かないものと強固に結びつかない限り絶えず海の波のように動揺を止めることがない。
このような事実があるから、聖書はまず自分で考えてせよ、などとは言わない。自分とか他人とかのような吹いたら飛ぶような軽い存在でなく、千年万年経っても不動の存在に固く足場を置いてそこから祈り、不変の真理そのものから示されたことを受けて考え、行動せよという。
その不動の足場、岩のごとき土台こそ、神であり、キリストであり、その土台が文字で書かれたものが聖書という本である。
その土台に立つとき、私たちは自分がじつにもろく弱い存在であっても、その自分に与えられる神の愛があることに目覚めさせられる。主イエスと結びつくだけでそのように全く知らなかった神の愛が太陽の光のように注がれているのに気付く。
そのときから私たちはまず神によって愛されていること、罪が赦されたこと、そして主イエスがその愛のゆえに私たちのことを覚えて下さっていること、言い換えれば私たちのために祈っていて下さることを感じ始める。
私たちがまず神を愛したのでなく、まず神から愛され、赦され、主イエスとイエスに導かれている人たちから祈られていること、そして神によって長い年月を導かれてきたことを知るのである。
その実感があってはじめて、私たちは他者を少しずつでも愛し、祈り、赦し、そして神の国へと指し示すことができるようになる。
そして、まず愛するとか正義を実行するというのでなく、まず神の愛を私たちが心のとびらを開いて受けること、神の正義が私たちの罪の赦しのためになされたのだと信じること、それならば本来だれにでも開かれたことである。そのためには特別な能力も、健康も金も地位や学歴など何も関係ないからである。どんな弱い人、罪を犯した人でも、この世から認めてもらえない人でも、孤独に悩む人でも、だれでもができることなのである。

私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛して下さったからである。(ヨハネ第一の手紙四・19


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