リストボタン休憩室    2007/12


最近の夜明け前の夜空
早朝五時半頃から六時ころにかけて、東の空を見ると、すばらしい輝きを見せ続けている金星が見えます。夜明けが遅いので、六時三〇分ころになっても十分見えています。しかし、やはりまだ暗いうちにみるときにその強い光が私たちの心のうちにまで射し込んできます。
そしてその金星のすぐ右に、小さいけれども輝いている星は、乙女座の一等星スピカです。金星があまりにも光が強いので、小さな光に見えますが、すぐとなりなので見付けやすいので、乙女座のスピカを見たことがない人はすぐに見付けられます。
また、南の空の高いところには、二つの明るい星が見えます。右側がしし座の一等星レグルスで、左側の星が土星です。 なお、西の空には、強い輝きの星が沈もうとしていますが、それが恒星では最も明るいシリウスです。
火星は、夜十一時ころには、東の高い空に赤い輝きが強い星としてすぐに見付けられます。この時間には、一年中で最も多くの明るい星々を散りばめた夜空がやや東よりの南方には広がっています。南の空にはほとんど誰でもがすぐに見出すオリオン座がその端整なすがたを見せています。
このように、最近の夜空は、夜寝る前にも火星を含めて強い輝きの星たちが東から南、そして北東の空を飾っており、夜明け前には土星や金星などとともに春の星座が見られて心を引き上げてくれます。

神の絵筆
秋が終り冬の到来となると、野山にはほとんど花も咲かなくなり、多くの木々もその葉をさまざまの色に染めて枯れ落ちていきます。
多くのカエデの仲間や、ハゼ、ヤマハゼ、ヤマウルシ等々では、その葉は赤くなり、カツラやイチョウ、イヌビワなどの葉は黄色、クヌギやコナラなどは、茶褐色などになり、山々に色彩の変化をもたらしてくれます。
あたかも神が目には見えない大きな筆で樹木の葉を塗り替えていくようです。
神は、私たち人間をも、またこの世界全体をもそのご意志に従ってさまざまの色に塗りかえていくのだと思われます。
どんなに人間が目立つ色で塗り上げようとしても、神は一筆で、そうしたものを抹消してしまうこともできるし、何の目立つはたらきもできない弱い一人の人間が、心から悔い改めるときには、美しい彩りをもったものと変えていかれるのだと思われます。

九州、中国地方のいくつかの集会を訪ねて。

十一月十六日(金)から二十一日(水)まで、四国、九州、中国地方の各地の人たち、また集会を訪れて、共にみ言葉を学び、讃美、祈りのときを与えられて感謝でした。
十六日(金)は、愛媛県の冨永 尚兄宅を訪問、交流の時が与えられました。肱川という長さ百kmほどの河の下流、海辺でもあるところで、肱川からの強い風が吹き下ろすところだとのこと、天の国からもそのようにいつも清き霊の風が吹いてくるようにと願ったことでした。
その後は、佐田岬を経て九州・大分に渡りましたが、途中佐田岬半島の手前の長浜の付近から海岸に接する山々の斜面に白い野菊があちこちで見られ、それは五十㎞ほどもある
長い佐田岬の高いところを走る道路沿いにもしばしば見られました。それはリュウノウギクという白い色の花で、野菊としては花も大きく目立ちます。
このリュウノウギクは、徳島県ではなかなか見当たらずときたま見付けてもごく少ないものですが、この佐田岬付近にだけはたくさん群生しているものです。これは、葉には独特の芳香があり、花の美しい白色とともに秋の野菊として印象的なものです。(*

*)リュウノウギクという名前は、その葉の香りが竜脳という薬用植物の香りに似ているから付けられた。竜脳という植物は、日本にはなく、常緑大高木でボルネオ・スマトラの原産。高さ五メートル以上になるという。

 大分市の梅木宅にての夜の集会。その後、MP3対応の機器について説明しました。新共同訳聖書の録音版CDは以前のものは、新旧約聖書全巻では、一〇八巻にも及ぶもので価格も五万円ほどもしていたのが、MP3版になって、わずか六枚、九八〇〇円になって、いろいろな意味で扱いやすくなっています。
 また、私どもの徳島聖書キリスト集会では、毎月の一か月分の主日礼拝と夕拝の全内容の録音をMP3形式で録音したものを、希望者に配布していますし、ヨハネ福音書の聖書講話もMP3版にして、希望者に配布しています。(価格送料共で二千円)これは二年半ほどの期間にわたる主日礼拝での聖書講話の録音です。
しかし、これらを聞くにはMP3対応のプレーヤが必要なのでその説明をしたわけです。実際にその機器を数種類持参していたので、実物をもって説明できたので初めての方もわかりやすかったようで、参加していた方は購入を検討されるようでした。
十七日(土) 大分から熊本に向かう途中で、時間の余裕がないので、高速道路のICから近いところとして「祈の友」の二人の方が在住であるのが分かったので、Nさん宅とTさんを訪ね、その後熊本の集会。河津宅(ハリ治療院)での集会でした。国内最大のハンセン病療養所におられて信仰を守ってこられた二人の信徒の方々も毎年参加されていますが、主がその方々の重荷を負ってきて下さったことを感じました。

十八日(日)は、福岡市のアクロス福岡にて、福岡聖書研究会、天神聖書集会合同の主日礼拝。聖書講話は、「聖書における神の愛」と題して語らせていただきました。(その内容に加筆して今月号に掲載しました)
 その後、食事と懇談会で、ここでもそのMP3機器の説明をしましたが、八名ほどの方々が購入を希望されました。 これからの録音はカセットテープでなく、このようなデジタル録音となっていくと思われますが、デジタル録音にすると、ダビング、発送、再生や頭出しなどの操作性、テープのようにカビが生えたり切れたり、磨耗したりしないといった保存性などすべての点においてカセットテープよりはるかに扱いが便利なので、次第にそのように移行しつつあります。
 その後、会場に比較的近い「祈の友」会員のUさんを訪ねました。今度新たに「祈の友」の九州地区の世話人となられたというOさんに案内されて、福岡の集会に参加されていたKさんたちと共に訪問し、短い時間でしたが、み言葉と祈り、讃美のときを与えられました。Uさんは八十歳ほどになる高齢でお一人の生活ですが、主イエスが共におられての日々であるのが感じられ、若き日に主が負って下さったゆえに、白髪に至っても主が支えられるということを目の当たりにした思いでした。こうしたお名前だけ知って祈りに覚えていた方々とも主にある出会いが与えられ、そこでも「祈の友」としての祈りを共にすることができました。

十九日(月)午前にやはり九州北部の玄海地方に在住の古くからの「祈の友」会員であるHさんを訪ねました。そこで「祈の友」の昔からのことも聞くことができてより福岡の「祈の友」のことが分かってきた思いです。また、花田さんがかつての病気のときに服用した薬の副作用のため、片方の耳が聞こえなくなり、残った耳も聞こえが悪く、教会の説教も聞き取れない状態というのが分かったので、持参していた集音器を紹介して、聞こえを実験したところ、使えるのが分かりそれを使うことになりました。さらに九州地区の「祈の友」の写真集がじつによく整理されているのを見せていただきましたが時間の予定がかなり過ぎてしまっていたので、お借りして帰りました。
 九州に出発する直前に届いた手紙で「いのちの水」誌に関心を持たれてその送付を希望されたN・Kさん宅が、玄海地方から高速道路のICに行く途中にあるのが分かり、初めてそのお宅を訪問し、また仕事から帰ってこられた息子さんともいろいろなお話しをすることができました。かつて全国集会のときにご夫君が突然に天に召された東京のE・Uさんの友人Kさんの友人にあたる方でした。
 このように「いのちの水」誌という印刷物が仲立ちをしてくれて、新たな主にある交流が与えられることも主の導きと感謝でした。
 その後、広島の施設におられる以前からの教友であるTさんを訪ね、短い交わりの時間を持つことができました。高齢となり生活も難しくなって介護の方にずっと来てもらっていますが、主によって魂は支えられているのが分かりました。
 さらに夜は、広島東北部の東城町にての沖野兄宅での家庭集会が与えられ、小学生、中学生、高校生の三人の子供さんたちも加わりました。そうした幼い魂に主が働いて下さいますように。

二〇日(火)初めて鳥取市の長谷川さん宅での家庭集会を訪れました。長谷川さんはキリスト教情報誌で無教会のことを初めて知って、今井館に問い合わせて岡山の無教会集会の香西さんを紹介され、その香西さんから私にさらに連絡があったことから主にある交流が与えられるようになったのでした。

二一日(水)午前はかつて「祈の友」四国グループ集会の世話人をして下さっていたことのあるHさん宅を訪問し、「祈の友」のことなどしばしの時をすごし、岡山を経て四国に渡り、時間の関係で高速道路に近い愛媛県の二人の「祈の友」の方々(Tさん、Nさん)を訪ねました。Tさんは、からだの具合もよくない状況で一人で生活するのはたいへんと思われました。Nさんは施設にてご夫妻ですごしておられます。からだの痛みがいろいろとあるようでしたが、お二人とも、信仰によって主に支えられているのを思いました。
 訪問というわずかな関わりしか持てないのですが、そのような少しの時間であっても、主が働いて下さって主にある結びつきを強められ、その結びつきのなかに主がとどまってくださいますようにと祈ります。二人、三人が主の名によって集まるところには主がいて下さるという約束があります。これは、実際に目の前に二人三人がいなければならない、ということでなく、たとえ距離が離れていても、主にあって祈り合う関係があるとき、その中に主イエスがいて下さるということでもあります。
 たとえ遠く離れていても、祈りによって主がその当事者それぞれのうちに来て下さるということは、感謝すべきこと、喜ばしいことです。


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