ことば 2007/12
(274)主と共にあれば
神とキリストとともに生きることは、この世では最も容易な生き方である。それは一種の気軽さをも生み出す。そしてそのような気軽さは、この世のどんな楽しみにもまして人間の生活を喜ばしいものとする。
しかも、そのためには金はほとんど、いや、むしろ全然いらない。そのような生活に必要なものは、ただ神とのゆるぎない交わりだけである。
これは、苦しむ人たちにとっての本当の救いである。実際、もしそのような人たちがこのことを知ってそれを求めるならば、必ずそれは与えられるからである。
(ヒルティ 眠られぬ夜のために上 十二月五日より)
(275)光に向かう扉
…アクテの頭には、今大きな混乱が生じた。光に向かう扉が開いたり、閉じたりし始めた。しかし、それが開いたとき、その光が彼女の目をくらますので、何一つはっきり見えなかった。
ただ、その明るさの中に、何か限りのない幸いがひそんでいることだけは推測がつき、その幸いに比べればほかのことは全く無に等しくて、例えば皇帝がその妃を追いだしてふたたび自分を愛するようになったとしても、つまらないことだと思ったであろう。
(「クォ・ヴァディス」 上巻 一二九頁 岩波文庫)
アクテとはローマ皇帝ネロに愛されて仕えた女の解放奴隷である。キリストのことは全く知らなかったが、神に仕えるリギアという若い女性によって初めて知らされる。
そのとき、この世俗の汚れに染まった女の心にも光の扉が見えてきた。しかし、まだそれは開いたり閉じたり…という状況であった。それでもその扉が開かれて向こうにある光を受けるときには、この世で最高の幸福と思っていたこれまでのことも全く無に等しいように感じさせるものがあった。
私たちにとっても、つねにこうした扉が前方にあるのを感じる。すでにキリストを信じてその光を受けている者であっても、油断していてこの世の考えや欲望に引っ張られるとき、その扉も閉じられてしまう。この世のさまざまの情報は絶えずそうした光の世界に向かう扉を閉じようとする力をもって働きかけているからである。
私たちの周りの自然も、聖書もそして日々の出来事も、私たちの見る目があり、聞く耳があるならそれらはすべて光に向かう扉であると感じ取ることができるだろう。
(276)いわゆる悲惨なことというのは、決して悲惨でないし、いわゆる富もまた本当の富ではない。
神を忘れることこそ、本当の悲惨であり、神を覚えていることこそ、真の富なのである。
(「目には見えない力」ガンジー著)
Misery so-called is no misery, nor riches so called riches.
Forgetting (or denying )God is true misery,remembering(or faith in)God is true riches.
(「The Unseen Power」M.K.Gandhi 31p INDIAN PRINTING WORKS )
この確信に満ちたガンジーの短い言葉は、現代の私たちにおいてもそのままあてはまる。
神を魂のうちに絶えず覚えていること、そこから永遠の富 が与えられること、それは聖書で一貫して述べられている。
私たちは、表面的な悲惨のかげで本当の悲惨なことをあまりにも知らないし、知ろうとしない。
また本当の豊かさ、富というのが、経済問題にかかわらずに存在しうるということも考えない習慣がついてしまっている。