聖書における讃美の重要性 21008/1
聖書の世界において讃美は、奥深い重要性を持っている。それはすでに旧約聖書の出エジプト記にその源流をもって以来、今日まで三千年以上の歳月を通して、讃美は人々の心を流れ続けている。今日ラジオでもどこかでクラシック音楽は演奏されているが、そのクラシック音楽の根源にあるものはキリスト教の讃美と深くかかわっていることは、バッハやベートーベン、モーツァルトの音楽に接するとすぐに分かることである。
キリスト教や聖書の世界でなくとも、もちろん歌や音楽はどのような民族にもある。文字もないような原始的な生活をしている人々においても音楽は不可欠なものとなっている。音楽によって、喜び、苦しみや悲しみを表したり、彼らの崇拝する神々に礼拝を捧げたりするものとなっている。
そのような普遍的な重要性を持っている音楽と、聖書に見られる讃美との違いはどこにあるだろうか。
それは、聖書で最初に見られる讃美がすでにその特質を備えている。
… モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。
わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。(出エジプト十五・1~2)
これは、単に自分が嬉しいから歌ったのではない。この歌の中心に「主」があるのはただちに分かる。それはこの歌を歌わずにはいられないように働きかけたのは、神であり、その讃美の方向も「主に向かって」であり、悪の力によってまさに滅ぼされようとしていたときに、神の力によって救われたという最大の出来事のゆえに、感謝と喜びが自然にあふれ出したものがこの讃美の根本にある。神の大いなる力を実際に経験したところからくる事実をもとにした歌ということである。
普通の歌は、自分の感情で歌われる。また、何に向かって歌うのかというと自分の気晴らしとか、聞いてくれる人間に向かって歌うということになる。いろいろなところに作られているコーラスも、のど自慢大会、各地のホールや文化会館のような会場での歌は、まず自分が歌が好きだということ、そしてその歌を周囲の人間に聞いてほしいという願いがある。すなわちそこには常に人間の感情があり、人間に向かって歌われる。
しかし、聖書における讃美はこの讃美にあるように、「主に向かって」なのである。共に歌う場合も、みんなが神に向かう心をもって歌い、そのような気持ちになれない人をも共にそのような方向へとうながす目的を持っている。
そこには、歌の上手さによって人々の関心を自分に引きつけるということは目的とはなり得ない。歌とか演奏は多くの場合そうした演奏者や歌手に関心が集中していく。そしてその歌手とか演奏者が讃美され、栄誉を受ける。
しかし、聖書における讃美は決してそのようなものではない。
歌った人間や演奏者がほめたたえられることで終わってしまうなら、それは本来の聖書の讃美ではなくなってしまうのである。
歌うこと、演奏することもすべて、歌い手や演奏者とともに、それを聞いている人たちも神へのまなざしを強められ、神への思いを清められて、神への感謝と神からの恵みと祝福を実感させるようにするのが本来の聖書における讃美であり、キリスト教讃美である。
私たちは、人間の歌う歌とか演奏以外に、それよりはるかに壮大で重々しく、かつ深い演奏や音楽を知っている。
それは神ご自身がその直接の被造物を用いてなす演奏であり、歌声である。大波の音、樹木の無数の葉や木々から生み出される深い味わいをもった音楽がそれである。また、小鳥の澄みきった讃美である。また渓谷を流れる水の音、あるいは山々の木々を吹きわたる大風の音である。
こうした音楽は、まさに神ご自身が創造された自然を通して、神の持っておられる無限の力や美しさ、そして清さを人間に注ぐため、そしてそこから人間が神を讃美するためになされているのが分かる。
それと同様に、本当の讃美、演奏ほど私たちはその演奏者でなく、その背後の神へと心が引き寄せられ、その神を讃美するようにと導くのである。
もし私たちが、そのようにならずに、単にその歌い手とか演奏者に喝采をおくってしまうと、その当人たちも自分が何となくすばらしいのだと錯覚しかねないような状況に置くことになってしまうだろう。
聖書の讃美、キリスト教の讃美が、ほかの歌と根本的に異なるのは、すでに述べたように、その方向がはっきりと神に向かっているということ、神に動かされ、神に向かい、神を讃美し、神を喜びとするゆえの讃美であり、音楽なのである。
そしてその讃美の対象である神こそは、永遠であり、そこからあらゆる幸いが流れ出てくるお方である。
そのために、神に向かう讃美もまた、永遠であり、一時的な流行などを越えて人々の魂に働きかけるものとなる。すなわち、讃美自体が真理となり、神の言葉となっていくのである。ここに聖書の、そしてキリスト教讃美のほかのいかなる歌とは異なる特質がある。
讃美が神の言葉となる、そのようなことはふつうは考えられないことである。歌を歌うのは人間の楽しみ、娯楽であり、慰めだ、というのがふつうの受け止め方だからである。しかし、そうした人間の持ち物、人間の一つの文化といった狭い枠を越えて、神の言葉という永遠のものとなり、普遍的なものとなる。
聖書に収められている詩編とは、そうした意味のゆえに、人間のつくった讃美の詩でありながら、まさに神の言葉となったのである。何という驚くべきことであろう。
古来、詩は重要であり、それらの内重要なものが古典となって残されてきた。日本の古事記、日本書紀にもあちこちに詩が組み込まれているが、万葉集というかたちになって大きな詩集となった。中国にも三〇〇〇年ほども前の詩を集めた詩経というのがあり、またヨーロッパにはホメロスのイーリアス、オデュッセイアのような大詩集がある。
しかし、これらのものと旧約聖書の詩篇とを読み比べるとその根本的な違いがすぐに感じられる。それは聖書の詩集が人間の心の叫びや讃美でありながら、その背後に神の愛と神の正義の支配、万物を創造するの力等々をたたえており、それゆえにどんな苦しみにある人にも届く深いメッセージがたたえられているということである。
詩編は実際に歌われた聖書の讃美集である。その讃美集が神の言葉となっているというところに、讃美の究極のすがたがそこに示されているのである。
このようにすでに数千年も昔から、歌、音楽というものが、神に向けられ、神からの恵みと導きによって生まれるならば、それは神の言葉となるということのなかに、いかに聖書、キリスト教の讃美が重要であるかが分かる。
それは礼拝のプログラムの中での決まりで形式的に、あるいは補助的に付けられているのではない。それ自体が神の言葉を曲をつけて歌い、また祈り、感謝を表すことになるのである。
またそれはそのように重要なことであるから、最初の讃美が言葉だけで、口で歌う歌だけでなかったのは容易に想像できる。実際、次ぎのように記されている。
…女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。(出エジプト記十五・20)
また、詩編の最後の第一五〇篇でも、詩編全体の締めくくりとなっている詩であるが、そこでも、次ぎのようにからだ全体で、また楽器をも用いての讃美がうながされている。
ハレルヤ。…
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。
しかし、しばしば人はこのような讃美はできない、自分は苦しみとか悲しみのさなかにある。どうしてそんな讃美などできようか、という状況に置かれている人たちは多い。この詩編の最後は、人間が導かれる究極的な姿を指し示しているのである。聖書はつねにそうであって、現在の状況がだれでもこのように神への讃美と感謝で包まれるといったことは言っていないのである。現実は暗く、罪にまみれた世にあって自分もそのような中にのみこまれようとする状況にある。しかし、その闇に光あれ、との神のみ言葉が出され、光を受けるようになるとき、そしてその光をしっかりと保ってさらなる光と聖霊を求め続けていくとき、主はこうした讃美と感謝の世界へと導かれるということを示している。
それはたとえ地上でかなえられなくとも、この短い地上の生を終えるときには必ずそのようなところへと導いていってくださる。
それは悪の支配するローマの迫害時代にあって、苦しみのさなかに、天の国において大いなる讃美の世界が開かれていることを黙示録は記しているがそれはこうした究極的に与えられることが暗示されているのである。
また声も出ない、歌えないという状況にある人も多い。病気、あるいは聴覚の障害などであっても、心のなかでこうした讃美をすることはできるし、またそのような讃美を聞くことで、私たちの心はともに讃美する心へと引き上げられることも多い。
詩編はそうした苦しみ、悪の力の支配のただなかで救いを求める魂の叫びは随所にある。キリスト教讃美というのは、そのように苦しみの中からの叫びや嘆きをも含んだ総体なのである。それゆえに、単に楽しいから讃美するというのでなく、苦しみのときも、孤独のときも、また主イエスがそうであったように、十字架上にあって死に瀕するときの叫びにも詩編の言葉がそのまま出されたように、いかなるときにも聖書の讃美はともにあることのできる深い内容をたたえている。
こうした苦しみのさなかにこそ、讃美は力を発揮するということはパウロの伝道について記した使徒言行録でも示されている。パウロたちはキリストの福音を語ったために、憎まれ、捕らわれ、役人たちに服をはぎ取られ、何度も鞭打たれた。当時の鞭打ちは、その先に金属片などを付けたりして何度も鞭打たれた者は意識を失ってしまうこともあるほどであった厳しいものであった。そして牢に投げ込まれた。パウロたちは、全身傷だらけとなり、痛みと苦しみでまっ暗で不潔な牢のなかにあって、その上彼らは、一番奥の牢に入れられ、足には足かせを付けられていたのである。
こんな状況に置かれたら、ふつうなら今後のことを思ったら暗澹たる思いになったであろう。 しかし、驚くべきことに、彼らの心は打ちひしがれず、かえって神への真剣な祈りを込めた讃美を歌った。このような時の賛美は楽しいから歌うなどといったものではあり得ず、まさに祈りであり、叫びであった。
… 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。 (使徒言行録十六・25)
これは、讃美の力がいかに大きいかを示すものである。牢の土台が揺れ動くとか牢の戸が開いた、鎖が外れたというのは普通ではあり得ないような力がそこに働いたということである。これは、闇の力のただ中にあっても、それでもなお神に向かって祈り讃美することがいかに神の力を注がれることになるかを示すものである。二人三人主の名によって集まるときに、私はそこにいる、と主は約束されたように、たしかにこのまっ暗な奥深い牢獄にあっても、主の名によってパウロとシラスという二人が心を合わせて祈り、讃美するときに主はそこにおられ、その力を現されたのであった。
そしてこのことは現代も私たちに与えられることである。喜びのときだけでなく、苦しみのとき、闇の力に閉じ込められたようなときであってもなお、祈りと讃美を主に捧げるとき、そこに主の力は働くのである。
そして、詩編の最後に記されているような感謝へと導かれることを信じることができるのである。