リストボタン神は何を私たちに下さるのか    2008/

天地創造をされて今もすべてを愛と真実で支え、導いている神などいないと思っている人にとっては、神が私たちに何かよいものを下さるなどということは考えられないことである。そのようなものはなくて、逆に毎日の新聞やテレビなどのニュースで、いやなことばかり起きるから、この世はそのようなよくないものばかりが人間にふりかかってくるのでないか、と思う人も多いだろう。
しかし、神は存在していると信じることができる人でも、なかなか神はよいものを下さらないと思う人も多い。それどころか、苦しいこと、試練のようなことばかり次々と生じると感じる場合もある。
私たちの日常的な直感では、神はいったい何を与えようとしているのかと、疑問になったり分からなくなったりする。
だからこそ、私たちの一時的な感情や周囲の状況によらないで、物事を考えていくために聖書がある。
人間の考えや気持ち、あるいは感情はずいぶん大きく揺れ動く。あるときは、有頂天になるかと思えば、他のときには悔しさや怒りなどでいっぱいになる。ある時はやる気に満ちているのに別のときにはもう何もする気になれない、等々である。
このような人間の揺れ動いて止むことのない現実のためにこそ、決して変ることのない基準を与えて下さっている。それこそ、自分一個の感情や周囲の状況などに動かされない永遠の基準である。
そのような観点から、神は何を私たちに与えようとしておられるのかをきちんと知りたいと思う。
このことについては、聖書は実に多様な表現でさまざまのことが与えられると記している。与えるのが神の本質であるゆえに、聖書の冒頭から与えることが暗示されている。
天地創造のときには完全な暗黒であって限りなく深い闇で覆われていた。そのときに光あれ、との神の言葉によって光があった。と記されている。それもこの世の闇にもかかわらず、そのただ中で光を与えるという約束なのである。
神の言葉とは、確実であり、真実な言葉であるゆえに、このようにただ「光あれ!」というお言葉が出されたあとすぐに、光がその闇に存在するようになったのが分かる。
このように、聖書はその最初から、与えるということを前面に押し出して書かれた書物だと言えよう。
新約聖書においてこの「与える」ということがさらに大きく深くなってくる。

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
  (ローマの信徒への手紙八・32

ここで言われていることは、あまりに大きすぎて読む人の心にとどまることなく、素通りしてしまうのではないだろうか。神は私たちに御子とともにすべてのものを下さるとは一体どういうことなのか。すべてとは、身近なところから言えば、家、周りの人間や土地、山々、海や大河も小さい川も、お金、権力、健康や職業、家庭がうまくいくこと、健康、家庭などなど、限りなくある。
そんなものがみんないただけるということを言っているのであろうか。
そのようなことは考えられないのはすぐに分かる。
これは、山や川などの自然の持っている本質的なよさ、清さやその力、美といったもの、さらに人間同士の最善の友情、よき家庭の持つ人間同士の愛のある交流等々、そうしたこの世で味わうことのできるすべてのよいことの最上の部分が与えられるということを意味している。
人間同士でも、相手から何らかの深い真実をもって接する機会が与えられたら、相手の魂の最も大切な部分を与えられたという気持ちになる。
こうした目には見えない最上のものを与えられること、それをヨハネ福音書でも最初に述べている。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。     (ヨハネ福音書一・16
ここで言われているのは、キリストの満ちあふれる豊かさのなかから恵みを十分に受けたということであり、キリストの豊かさとは神の豊かさそのものである。そして神の豊かさとは真実なもの清きもの、愛に満ちたものなどすべてを完全に備えた豊かさである。そのようなものの中から受けるならば、私たちはすべてのものを受けたと実感するであろう。
このような神の豊かさそのものを、聖書ではまた永遠の命と言っている。
ヨハネ福音書で次のよく引用される言葉がある。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。     (ヨハネ三・16
また、その福音書の最後の部分でも次のように言われている。

これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
       (ヨハネ二〇・31
このように、神は究極的に何を私たちに与えるかということは、実に明確に記されている。このような永遠に壊れることも奪われることも、また時代のいかなる状況においても変質することのない神の国の賜物を与えられるということを、信じるかどうかであり、信じるものには、この地上に生きているときにすでにそうした永遠の命の実感を与えて下さることが記されている。

「生きていて私を信じる者は、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ十一・26

決して死ぬことがないとは、いうまでもなく永遠の命を与えられるということである。肉体は病気や事故、あるいは殉教といったかたちで失われる。しかし、それにもかかわらず、その魂は永遠の命、すなわち神の命を与えられているゆえに、神のもとで生きるということが最終的に与えられることとして約束されている。 http://pistis.jp FAX 08853-2-3017


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