一匹の羊を探すために 2008/2
九十九匹の羊を置いて、迷い込んだ一匹の羊を探す。これはよく知られたたとえ話である。迷える羊という言葉は、キリスト教と関係のないところでも使われているが、新約聖書においてどのような意味で使われているだろうか。
ここには、失われた者を探し求める神の心がある。人間的な心は、一〇〇人のうち、一人くらいは迷い込むのは仕方がない。大勢の方が大切だということになる。こうした考え方のゆえに、戦争ということも生じる。一発の爆弾によって数多くの人たちが死傷する。 武力による解決ということは、必ずこうした弱い人たちを犠牲にするということが生じる。
この世ではどこにでも見られることは、少数の弱い者、能力の乏しい者は放置されるということである。
これはどこでも、当然なこととして見られる。会社でも定年になったら知的にも、体力的にも乏しくなるから退職となる。そこには何等不自然なことはない。そのようなことに慣れているのである。
しかし、聖書の世界ではそうしたごく当たり前ということとは別の考え方がはやくから記されている。
すでに創世記からそのような失われた者をそのまま見捨ててしまわないで見守るという姿勢が記されている。
聖書における最初の家庭の記事、それは家族間の憎しみであった。何の罪もない弟を兄のカインが襲って殺すというようなひどいことが生じた。このようなことをした兄は、当然神から厳しい罰を受けると予想できる。たしかに、神は、カインを楽園から追いだし、地上をさまよう者となるとされた。本人も自分の犯した罪の重さゆえについには殺されてしまうということを自覚していた。
しかし、そのような罪深い者に対して、神は驚くようなことを言われた。
…「カインを殺す者は、だれであれ、七倍の復讐を受けるであろう。主は、カインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、カインにしるしを付けられた」(創世記四・15~16)
このように、罪もない兄弟を殺したという重い罪をきびしく罰するということに終わるのでなく、そのような重い罪を犯してさまようことになった人間が殺されないようにと特別にしるしを付けるという意外なことが記されている。
ここに、迷える羊をも探し求める神の姿の本質がはやくも現れていると言えよう。罪を犯し、よい状態から追いだされてしまった者たちを罰して滅ぼすということでなく、あえて立ち帰るのを待ち続ける神の愛が感じられる。
こうした何らかの集まりから追いだされた者、あるいはそこにいられなくなった者への配慮は、旧約聖書において、「逃れの町」という記述にも見ることができる。
…人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。(出エジプト記二一・12~13)
…あなたたちは、人を殺した者が逃れるための逃れの町を六つレビ人に与え、それに加えて四十二の町を与えなさい。あなたたちがヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るとき、自分たちのために幾つかの町を選んで逃れの町とし、過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい。
町は、復讐する者からの逃れのために、あなたたちに用いられるであろう。人を殺した者が共同体の前に立って裁きを受ける前に、殺されることのないためである。
あなたたちが定める町のうちに、六つの逃れの町がなければならない。…これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、過って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる。(民数記三五・6~15より)
…モーセはその後、ヨルダン川の東側に三つの町を定め、意図してでなく、以前から憎しみを抱いていたのでもないのに、隣人を殺してしまった者をそこに逃れさせ、その町の一つに逃れて生き延びることができるようにした。(申命記四・41)
このように、繰り返し旧約聖書で「逃れの町」ということが書かれているのは意外なことである。というのは、故意でなく、うっかり何かの事故とか、仕事中で他人を殺してしまう、などということはめったにあることではないからである。
昔は農業や牧畜、狩猟、あるいは漁業などが多数を占めていたはずである。それは食べることの基本にかかわる仕事だからである。現在のように、工場、銀行、商社、公務員などといったものがないのであるから、これは当然のことである。
そのような仕事において、人をうっかり死に至らせた、などということはきわめて稀なことであったはずである。それは現在も同様である。聖書ではこのようなほとんどだれの一生にも起こらないような出来事についてわざわざ詳しく繰り返し延べている。このような記述の仕方に、このような問題に力を注いでいるのが感じられる。
人の命を奪った者は、自分の命をもって償わねばならない、と記されている。(*)
それゆえ、何かの理由で、故意にでなく人の命を失わせた者は、その親族たちから命をもって償え、と迫って来られることになる。それは故意ではない、といっても、その証拠がなかったら親族たちから殺されるということも十分に有りうる。
そのような全く無実の者がどうしても言い開きできないで殺されてしまう、という追い詰められた状況にある人を、この「逃れの町」という規定によって救おうとしているのである。(**)
(*)目には目、歯には歯、手には手、足には足、 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(出エジプト記二一・24~25) 後になって、このことは、目には目、歯には歯というのは、復讐を意味する言葉として受け取られるようになったが、旧約聖書に出てくるのは、このように、復讐とは全く異なる、償いなのである。
自分が他者に与えた苦しみと同じ苦しみを自分も受けて償わねばならない、ということであって、犯した罪の重大性を徹底的に自らも味わわねばならないということなのである。
(**) そしてその逃れの町にいる間は、不当な復讐からは守られるが、そこから出ると復讐にさらされる。しかし、大祭司が死ぬと自分の土地に帰ることができる。
(民数記三五・16~28)このように、大祭司の死によって復讐の危険から解放されるようになる。このことは、キリストは、旧約聖書に言われている大祭司の完全な成就であり、キリストの死によって罪のさばき、滅びから解放されるということを指し示すものともなっている。
この逃れの町に関する特別な言及は、たった一人の苦境にある人間をも顧みようとする神の心が現れている。しばしば私たちの苦しみや悲しみは一人で担わねばならないものである。どんなに追い詰められた心境になってもそれは周囲の人たちには分からない。学校の生徒で自ら命を断ってしまうことが時々報道されるが、多くの場合、周囲の人はまさか死ぬほどの苦しみを持っていたとは分からなかったと言う。時には最後に会った人たちと笑顔で別れたのに、その後命を断ったということもよくある。
これは、いかに人間は孤独な苦しみや悲しみを持っているかということである。そしてそのような一人で負うことを余儀なくされる苦しみを知ってもらえるのは、人間ではなく人間を超えたお方であり、父なる神だけがそのような苦しみを分かって下さる。悩みの暗闇に入り込んだ魂を探し求めて下さる神の愛がそこにある。
人は誰でも実は迷える羊であるが、それぞれの人間が負わされる苦しみや悲しみは他人には分からないゆえに、自分一人が他の人にはないような苦しみに追い込まれているというように感じるのである。
逃れの町、それはもしそのようなものがなかったら、追ってくる人たちによって殺されてしまうということである。私たちも、自分の苦しい問題や犯した罪のことを思うとき、それを真剣に考えるほど、闇の力や罪を責めてくる人たちが迫ってくるとか、見えない裁きの力が私たちを追いかけてくるような気持ちになるだろう。
そのような人間の心に逃れの町に相当する逃れの場というべき存在を神は備えて下さった。それが主イエスである。主イエスは、「疲れた者、重荷を負った者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(*)と言って下さった。
(*)文語訳 「すべて労する者、重荷を負ふ者、われに来れ。われなんじらを休ません。我は柔和にして心低ければ、わがくびきを負ひて我に学べ、さらば魂に休みを得ん。」(マタイ福音書十一・28~29より)
さらに、私たちが正しい道からはずれ、ある人たちあるいは周囲の人たちに大きな苦しみを与えてしまったという罪、またもしあのようにしなかったらこんなにならなかっただろう、といった過去の過ち等々、それぞれ人によってそのようなことがあるだろう。
そうしたもはやどうすることもできなくなった過去のことについて、思いだすたびに心の痛みを感じることになる。それは人間の力、金や地位があろうともそのような類の悩みや苦しみはどうすることもできない。
それをいやして下さるのはただ一つ、すでに述べた重荷を負って下さる主イエスであり、キリストの十字架である。キリストが私たちのそうした魂の重荷をも知って下さり、それを担って下さる、しかも過去の過ちや罪をも赦し、あたかもそれらがなかったかのように扱って下さり、新たな力すら下さるということ、それはこの世の闇や人間の弱さや醜さに疲れ果てた魂には最上のいやしとなる。
戻らざりし一匹は いずこに行きし
飼い主より離れて 奥山に迷えり…
主は越え行きたまえり 深き流れを
主は過ぎ行きたまえり 暗き夜道を
死に臨める羊の 鳴き声を頼りに…(新聖歌二一七より)
この讃美にあるように、谷あり、山ありの奥深い山の中に迷い込んでしまい、もはや自力では戻ることができなくなった一匹、それは誰もが困難のときに感じる思いであるだろう。深く迷い込みもはやそこから脱出することはできない、と思えるほどに深く暗い闇に入り込んだと感じるのである。
その霊的な高さで群を抜く詩人、ダンテもまたそうした深い森に迷い込んで死ぬと思われるほどの苦しみを体験してきたことがその主著である「神のごとき詩(神曲)」の冒頭にある。
人生の道の半ばで
正しい道を踏み外した私が
目をさました時は暗い森の中にいた。
その苛烈で荒涼とした
峻厳な森が
いかなるものであったか、口にするのもつらい。
思い返すだけでもぞっとする。
その苦しさにもう死なんばかりであった。(「神曲・地獄篇第一歌より」)
迷い込んだ一匹の羊、それは何も特別な一〇〇人のうち、一人二人といったものでなく、人間そのものの存在が生まれたときから暗くて深い森の中に迷い込んだ存在なのである。ダンテはそのことをこの一万四千行を越える大作の冒頭にもってきたのである。それほどに、この歴史的な作品そのものが人間の存在が深い森に迷い込んだものなのだと表現しようとしているのである。
聖書にも、そのことはさまざまに表現されている。聖書の最初の書である創世記にやはりダンテの神曲のようにその冒頭の描写はほかならぬこの闇の森にいるということを、次のように表現している。
…地は混沌であって、闇が深淵の面にあり…(創世記一・2)
神からの光なければ、この世界は闇と混沌であるということを指し示すものである。それは、また新約聖書においても、イエスが地上に来られたのは、「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」への光としてであったことが記されている。(マタイ福音書四・16)
こうした記述は、みな人間は失われた者であり、暗い闇の森に迷い込んだものであることを示すものである。それはダンテが言っているように、思いだすだけでもその時の恐ろしさがよみがえってくるというほどの苦しさであり、死ぬと思われるほどであった。
パウロはそのことを次のように、人は死んでいたのだ、と端的に述べているほどである。
…あなた方は、以前は自分のあやまちと罪のために死んでいたのです。(エペソ書二・1)
こうしたすべてのことは、私たちが自分の力では戻ってくることのできないところまで迷い込んでいるという状況を思わせる。一匹の迷える羊とは、ごく一部の者を指しているのでなく、人間全体がそのようなものなのである。
だれもが見出してもらわなかったら死の暗闇へとさらに迷い込んでいく存在でしかない。死ということの本質は、科学技術では生物学的なことしか扱えないのであって、死という無限に深いことがらのごく表面的なことしか扱えないものである。それはこの二〇〇年ほどの間に科学技術は飛躍的に進んだことを思ってみるとよい。ライト兄弟による初めての飛行機が飛んでまだ一〇〇年と少ししかならない。しかし、超音速のジェット機や月にまで到達できるほどの技術、目に見えない原子核の核分裂を用いて核兵器や原発が作られ、コンピュータ関連機器は生活の至るところに入っているし、手のひらにのる携帯電話でさまざまのことができる状況になっている。
しかし、死の迫る孤独な苦しみ、そして死のかなたに何があるのかは、科学技術では全く慰めを与えることもできないし、死のかなたの世界に迫ることもできない。科学技術がどんなに束になって取り囲んでも死の闇をいささかも照らすことはできないのである。
そのような暗い森に迷い込んだ人間、死の闇にあり、人生の終りには必ずそこに向かっていくところにまで闇に光る探照灯のように照らすものがある。
それこそ、一匹の羊をも探し尋ねる主イエスでありその父なる神なのである。