放蕩息子と背後の祈り 2008/2
天における喜び
このたとえでは放蕩息子が堕落して放蕩のかぎりをつくしたこと、そして苦しみの後に悔い改めて、父のもとに帰ったこと、父が喜びを持って受けいれたことがだれが読んでもすぐに分かるようなわかりやすい言葉で書かれている。
ことに放蕩息子が帰って来たときに、父がいかに喜んだか、次のような記述に表されている。
…彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。…
父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。(ルカ十五・20~24より)
ふつうなら、こんな放蕩息子を見たら今までの怒りをぶつけて激しく叱るということであろう。しかし、この父親は考えられないほどの喜びだけを表したのである。抱きしめて接吻をし、一番よい服を着せたということは、何にもまさる深い関係だということを意味している。そして、指輪をはめたということは、父の権威を与える象徴的行為であったという。
これは、いかにこの父親で表される神が、立ち帰ることを喜ばれるかをこれ以上はないと思われるほどに表している。
このたとえの前にも、次のように悔い改めを神が喜ばれることが重ねて強調されている。
…悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ十五・7)
…一人の罪人が悔い改めるならば、神の天使たちの間に喜びがある。(同10)
大きな喜びが天(神)にある、あるいは天使たちの間に喜びがある、というが、いかに地上での大きな喜びとかけ離れているかが際立っている。地上での大きな喜びは、マスコミなどで大きく報道される。サッカー、ゴルフ、あるいはプロ野球とかオリンピック、大相撲といったことで当事者だけでなく、ファンも大喜びするといった場面がよく見られる。
このような喜びを生み出すための優勝とかを勝ち取るためには、生まれつき特別な能力のある人、そして努力、周囲の援助、金の力などなどたくさんのことが恵まれた状態でなければ生まれない。しかも、優勝しても次の機会には別の人が優勝する、あるいは怪我をしてできなくなるなど、その喜びはすぐに消えていくはかないものでしかない。また、しばしば判定にも不正があったり、そもそも生活に追われている貧しい人たち、食物すらまともにないような多数の人たちにはそのような喜びはまったく縁がない。
しかし、 天において大きな喜びを生じさせ、天使たちも喜ばせるほどのこと、それは神の目から見れば大いなることであるがそれは、そのような社会的に目立つところでなく、どんな貧しい人にも、能力も健康もないような人たちであっても生じることである。
万能の神、あるいは天にいる御使いを喜ばせるということは、とてもできないように見える。この世では地位が高い人、大金持ち、あるいは権力者、スポーツや芸術など能力が恵まれている人たちは少しのことでは喜ばない。いつも大金を扱っている政治家に少しの献金をしてもまったく喜ばないだろう。
しかし、そうしたあらゆる資産家や能力ある者たちより無限に大きなものを持っておられる神を喜ばせることはだれでもできるというのは驚くべきことである。しかも、いかなる能力も、金も地位もいらないのである。さらに、どんなに悪いことをしてきた者であっても、長くまじめに働いてきた者と同じく、あるいはそれ以上に喜んでくれるという。それがただ、今までの自分の心の方向を変えて、神に向かって方向転換するだけでそのような喜びを神が持たれるというのは、信じがたいようなことである。
主イエスはまさにそのような信じがたいことをわかりやすいたとえで話されたのであった。
このように、神の喜びということはどんなところから生じるか、それは大きな事業とか目立った賞をもらうとかスポーツや芸能あるいは学問の世界で名を馳せたということでもない。
どんなに目立たない人であっても、ひとり病院の一室で、また家庭のなかで、ひっそりと行われる真の神への方向転換こそは、神が最も喜びとされることなのである。
そして主イエス以来この二〇〇〇年の間、私たちが神に立ち帰ることによって、実際に神が喜んで下さるということを、無数の人たちが魂の深いところで実感してきたと言えよう。
神が魂の方向転換という単純なことをこの上もなく喜んで下さるということを私たちは深く心に留めておきたいと思う。
父の祈り
しかし、それだけではない。こうした記述の背後にある重要なことがある。それは、父が、放蕩息子が立ち返るのを待ち望む強い願いと祈りである。そして帰ろうとしない息子への悲しみである。
この父親のそうした深い願いがどれほど大きかったか、それは、放蕩息子が帰って来たときにそれ以上はないと言えるほどの喜びを表したことでうかがえる。
自分の息子が財産をもらいたいと願い出たとき、ふつうならなぜそんなことを言うのかと詰問し、仕事をせよ、と怒って命じたことであろう。このたとえには、いろいろと驚くべきことが書かれてあるが、まずこの出発点において、父の忍耐と祈りがあったことを知らされる。
人はたいてい自分の意志や考えあるいは感情のままに生きて、そのあげくにさまざまの罪を犯してしまう。そのような状態から百八十度方向を転換して、真実な神に向かうようになるためには、父なる神の祈りがある。痛みと悲しみがある。
人間は、自分の愛する子供にできるだけ苦しまなくてもよいようにする。それが人間の愛の表現となっている。それが結果的に子供を甘やかして精神的に弱く、視野も狭い人間となっていくことも多い。
この世にはじつにさまざまの人がいる。しかし、いかに変わった性格の人であっても、自分の愛する者をわざわざ難しい病気にするなどということは聞いたことがない。
しかし、神はそのような人間の愛とは全くことなることをされる。この放蕩息子の場合もわざわざ財産の分け前を父親の死以前に受け取るというようなことは、ふつうなら決して許さないことである。しかし、この父親はそのような間違った方向をもあえてそのままにした。そして息子がその財産を金に換えて悪い遊びに身を持ち崩していくのをもそのままにした。
しかし、その背後には苦しみつつ見守るまなざしがあった。こうした神の真理や愛に背く人々に対して神の心はどのようなものであるか、それは預言書にそのことがうかがえる記述がある。
…主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。
わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。
いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。
ただあなたは自分の罪を認めよ…(エレミヤ書三・12~13より)
このように、神に背を向けて間違ったことを続ける民に対して、神はすぐに怒って罰するということや、見捨ててしまうということもせずに、立ち帰ることを待ち続けておられるのである。
そのように愛をもって見つめるゆえに、そこには深い悲しみがある。それは、エレミヤのつぎのような言葉に表されている。
わたしの頭が大水の源となり
わたしの目が涙の源となればよいのに。
そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう
娘なるわが民の倒れた者のために。(エレミヤ八・23)
人々が真実な神のもとから離れて神でないものをあがめることからさまざまの腐敗、堕落が生じてついには外国からの攻撃を受けて滅ぼされていく、その実体をありありと見たエレミヤは人々が死んでいくことや外国に捕囚となって連れ去られていくことに対して深い悲しみを持っていた。
この悲しみは神の心を反映したものである。神と結びついていない人間なら、自分が繰り返し警告しても聞き入れないでむしろ自分に敵対してくる人々への裁きを願い、彼らが滅びていくのを当然のことだ、神の裁きだと見下ろすような気持ちで見ることだろう。
しかし、神の心と深く結びついたエレミヤにはそのような心と逆の、深い悲しみの心があった。頭が涙の源となって嘆き続けたいと願うほどにエレミヤは自分の全身をもって民の滅びゆく苦しみや悲しみを感じた。
このようなエレミヤの民への愛は彼らが崩れ去っていくことに強い悲しみを持っていたために繰り返しそのことが現れる。
あなたたちが聞かなければ
わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。
涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。
主の群れが捕らえられて行くからだ。(エレミヤ一三・17)
このような滅びゆく民への深い悲しみは、エレミヤのものというより、それは神のお心を表すものである。主イエスも目前に迫ったエルサレムの滅びを神から啓示されて深い悲しみをもったことが記されている。
…いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、
「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。
いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。
それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。(ルカ十九・41~43)
主イエスが涙を流すほどに心の痛みを感じておられたこと、それはエレミヤと同様に真なる神から背いて間違ったものに心を向けていく人々、そのゆえに近いうちに神の裁きを受けてローマ帝国の激しい攻撃(*)を受けて滅びていくということがはっきりと示されていたからである。
(*)紀元七〇年にローマの将軍ティトスがエルサレムを攻撃し、神殿も炎上、破壊された。その後は、ユダヤ人はカナンの地(現在のパレスチナ)から追放されて世界各地に散在することになった。なお、パレスチナとは、ペリシテの地という意味であって、ユダヤ人と敵対していたペリシテをその土地の名とした
このような心の痛みと苦しみは、キリストがその魂の内に住んでいたパウロにも見られる。パウロはキリストの福音を伝えようとして赴いた先々で、ユダヤ人から迫害を受けた。(*)
(*)例えば、パウロたちが初めて地中海周辺の地域に伝道に赴いたとき、まずユダヤ人の会堂に入ってキリストの復活を証言することが多かった。最初にその記述があるのは、聖霊によって送り出されたパウロが現在のトルコにある町のユダヤ人の会堂に入ってキリストのことを証ししたことであった。
… しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。…
…ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
(使徒言行録一三・45~50より)
このようにしてパウロはその町を追いだされたが、そこから移った町においても、ふたたびキリストのことを語った。そのときは、多くのユダヤ人やギリシャ人も信じるようになった。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、パウロたちを迫害した。
…ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
… 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、
二人はこれに気づいて、その近くの地方に難を避けた。(使徒一四・2~6より)
また、その後も、パウロが迫害を逃れて行った町にて次ぎのようなことがあった。
…ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
(使徒一四・19)
このように、パウロが地中海沿いの地方へと宣教の旅に出発した最初の記述からユダヤ人がパウロを迫害したことが記されている。その後も、各地でパウロはキリストのことを宣べ伝えたが、少数のユダヤ人は回心してキリストを受けいれても、多くは激しく反対するのであった。
このような状況が繰り返し生じたゆえに、そんな迫害を次々と受けると普通なら彼らに対して憎しみを持ったり嫌悪感を持つとか、神が裁かれるとして見放してしまうかも知れない状況であった。
しかし、パウロはそのような命の危険すらしばしば生じたような状況であったにもかかわらず、彼は、ユダヤ人に対して次ぎのような気持ちを抱いていた。
…わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
(ローマ信徒への手紙九・2~3)
このような心は、まさに彼の内に住んでいたキリストの心であった。どんなに敵対されてもそれでも憎しみを持たず、また無関心になったり嫌悪感とか見捨てる心にならないということ、それはただキリストの愛と平和を内に持っていることによってのみ有りうることである。
放蕩息子が立ち帰ることを待ち望む心は、このような痛みと悲しみの心をまとったものであった。
…あやまちを犯さぬように守ってやるのが、人間の教育者の本務ではなくて、あやまてる者を導いてやるのが、いや、そのあやまちをなみなみとついだ杯から飲みほさせるのが、師たる者の英知です。
(ゲーテ著「ウィルヘルム・マイステルの修業時代 第七巻九章 筑摩書房 世界文学体系」二〇・二六七頁)
真の人類の教師である主イエス、そして神は、このような教育の仕方をなされる。私たちが過つことのないように妨げとなるものや苦しみとなるものを取り除いていくのでなく、あえてそれらを「なみなみとついで飲み干させる」のである。
そしてその過程において、ずっと見守り続け、その苦しみの杯を飲み干すことによって神に立ち帰ることを待っておられる。
この放蕩息子のことを、物語りを読むように自分とは関係ないこととして読む人が多い。しかし、実はこの放蕩息子とは人間のすべてのあり方を暗示したものなのである。
自分は財産を父からもらったこともない、という人がいるかも知れない。しかし、すべての人は何かを受けてこの世に生まれ出ている。神が愛であるなら、そして真実であるなら、どんな無意味なようなこともそこに深い意味がある。ただそれが分からないだけである。
人間ははじめから過ちをおかす存在だ。この息子は人間全体の象徴的存在なのである。人は誰でも神から能力を与えられている。それを神の国のために使わずに、自分のために使おうとする。そしてそのあげくに、追い詰められた状況になる。
与えられたものを使い果たして苦しむ。自分の力では生きていけないことを思い知らされ、汚れたものだと知らされ、何も持っていないということに気付く。このようにして、自分の中には何等誇るべきものがないと思い知った心こそ、主イエスの言われた、福音書の最初のイエスの教えの出発点にある、「心の貧しい者」なのであり、そこから神を求めるときに天の国が与えられると約束されている。それゆえに幸いな者となる道が開かれている。
放蕩息子は、このように自分が持っているものがいかにはかないか、もろいか、を思い知らされ、自分は何の役にも立たない者だと知って初めて、立ち返るべきお方に気付いた。
真に悔い改めた者、神への全面的な方向転換をした者は、自分がいかに罪深い者であるかを深く知らされた者であるゆえに、どんなことでもしようという気持ちになる。この放蕩息子は、「もう息子と呼ばれる資格はない。雇い人の一人にして下さい」と言う気持ちになった。
自分の罪深さを思い知った者、しかしその罪がキリストによって赦され、清められたと実感できる者は、滅びの中から取り出されたということになるので、もはや社会的に認められるとか、ほめられることを求めるといった心は消え去っていく。
また、放蕩息子の父の心は、神の心であるから私たちのような小さなもの、汚れた者には無関係だと思うこともまた間違っている。
私たちを神の子供として下さるという約束がある。そして、信じる者には、何でも与えられると言われている。
…私の父に祝福された人たち、天地創造のときからあなた方のために用意されていた御国を受け継ぎなさい。(マタイ二五・34)
御国を受け継ぐと言われているほどであり、私たちが心から求めるときには、神のお心をわずかであってもいただくことが許されるであろう。そのとき、私たちの最大の喜びは、自分が安定した生活になるとか、食べたり飲んだりすることや、地位が上がるとか、有名になるなどといったことでなくなる。
それは、自分も他人も神に立ち帰ることを喜びとするということである。どんなにひどいことをした人間であっても、また自分に悪意をもって攻撃してくるような人であっても、その人が神に方向転換することを願うようになるだろう。そして最大の喜びを、そのような人が神に立ち帰ることにおいて感じるようになるだろう。