神の言葉を日本語に    2008/2

日本人へのキリスト教伝道、日本語訳聖書のために命をかけた人 ヘボン

現在私たちは最も深い魂の助け手としての聖書を自由に購入し、読むことができる。このようになったのは、どのような人が、どんな苦闘をした結果なのであろうか。このようなことは、私たちは、ふだんほとんど考えてみることもないように思う。
アメリカ大陸にヨーロッパ人が初めて到達するまでに、コロンブスの困難で危険な航海があった。それは死と隣り合わせのようなものであって、どこへ行き着くのか誰も分からないような冒険であった。
また、厳しい差別と人権などを徹底して無視していた江戸幕府が滅ぶためには、数多くの命が犠牲となった。天皇を神とするような間違った体制のもとで国家が運営され、教育もそのような誤りを強制され、戦争することが最大の美徳であるかのように言われた悪夢のような時代が終わるためには、アジアの数千万という人たちの命や体の健康や家庭が破壊され、日本人も数百万人が犠牲になってはじめてそのような悪夢のような体制が打ち破られた。
何事も、ある大きな壁が打ち倒されるためには、非常な犠牲が払われてきた。
聖書という世界で最も重要な書物が日本語で読めるようになるまでに、数多くの人たちの血のにじむようなはたらきがあった。
聖書を日本語に訳するという大きな仕事に終始一貫して打ち込んだのが、ここに紹介する、ヘボンである。(*
 彼は、江戸時代の終り頃に日本での、医療を通しての伝道を志したアメリカ人である。

*)ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn
ヘボンという発音は当時の日本人が、Hepburn (ヘップバーン)という発音がしにくく、簡略化してヘボンと言っていたことからそのように発音されるようになった。彼が後に作成した日本で初めての本格的英語辞書には著者として 「美国 平文先生」となっていて、漢字では「平文」と表していたのがわかる。 なお、アメリカの大女優として知られるヘップバーンも、先祖は同じ一族であって、イギリスのスコットランドからアメリカに移住してきたという。


小学校や中学時代にヘボン式ローマ字というのを学校で聞いた。それは、例えば、「つ」をローマ字で書くとき TU と書かないで TSU と書き、「し」ならば、SI でなく、 SHI と書くような書き方のローマ字だと知らされた。ヘボン式のほうが外国などでは用いられているのだと知った。それ以来ずっとローマ字には二通りあって、日本で考案されたのと、ヘボン式のがある、ということはずっと知識としては頭のなかにあった。
しかし、そのヘボンというのが、人名だと分かっても単にローマ字の別の書き方を考案したのだといった程度で、その後は全く学校でもならうこともなく、話題になることもなく過ぎていった。
キリスト者となってから、ヘボンが江戸時代の終りに日本に来た宣教師だということを新たに知り、彼が医者でもあって、辞書や聖書の訳にかかわったということもごく表面的に知るようになった。
そして、その後、「ヘボンの手紙」という本をふとしたことから入手してヘボンが大きな犠牲を払って日本に来たことを知らされた。江戸時代の鎖国中、キリスト教を日本人に伝えるなどをすれば、すぐに捕らえられるし、キリスト教を信じるようになった日本人は殺されるほどの厳しい状況なのであった。
そんな恐ろしい状況にどのような心ではるばる来たのだろうか。その背後の神の力を感じさせられていた。

ヘボンは、一八一五年にアメリカのペンシルバニア州で生まれた。その両親は信仰篤い人であった。ヘボンは優れた素質と学業の習得も十分になされていたということで、十六歳という若年でプリンストン大学の三年に編入し、わずか一年半ほどで卒業した。この間にコレラが流行し大学は閉鎖され、そのときに医学のなす重要なはたらきに目を覚まされたと思われる。卒業後はさらにペンシルバニア大学医学部に進み、医者になった。そして神は彼の心に福音を全く知らない遠い日本への宣教を志す思いを起こされたのであった。
しかし、そのことを持ち出すと両親とくに父親は激しくそのようなことに反対した。両親ともに社会的な地位が高く、安定した生活が保証されている息子が、命の危険を伴う鎖国下の日本に、しかも何カ月もかかってアフリカやインドを経て行くということは、考えられないようなことであっただろう。
そのような状況にあるとき、一人の女性と出会った。クララ・リートである。クララの何代か前の祖先はイギリスの国教会の重要な地位にあったが、清教徒たちの真剣な信仰に感化され、その地位を捨てて清教徒の指導者としてアメリカに渡った。
そのクララは、ヘボンの志を聞くとその困難な命がけの宣教について深い共感を示し、両親の強い反対のゆえに、決断できずにいたヘボンを後押しして二人でそうした神のためのはたらきをするべくすすめたのであった。
しばしば女性は、聖書の最初からアダムを誘惑して神に背く道を開いてしまったこともあるように、悪の道に誘うことがある。
 しかし、他方では、ルツ記に見られるように、その固い信仰と決断によって道のないところに神の国への道を開くことに大きく働いた女性のことも記されている。
クララはヘボンを霊的に後押ししてきわめて困難な道への旅立ちをともにすることになったのである。結婚したその翌年に三カ月もかかってアフリカやインドを経て遠い東アジアに向けて出発していく、周囲の親しい人たちにもその本当の意図を理解してもらえない状態であった。
「私の家族、とくに父は私の考えに強く反対しました。何とかして私の決心を翻させようと努力していました。私自身も、決意を断念すべきか否かについて迷い、悩みました。」
このような悩み苦しみの中から決断して旅立ったが、乗組員十七名という小さな捕鯨船で大西洋を横断するという長期にわたる船の旅のゆえに、妊娠六カ月となっていたクララは船酔いに苦しみ続け、その結果流産し、その子供を海に葬るという悲しみにまず直面した。
 クララは、その後も狭い船室に一か月もの間横たわったまま船室外に出ることができない状態であった。
 この頃の彼の日記には次のように、祈りにおいて、神からの励まし、なぐさめを受けていたこと、そして苦難の中から新たな力を与えられていることがうかがえる。

「悲しい心をなぐさめてくれるのは、ただ祈りのみ。祈りに優るなぐさめはない。聖書の真理が現実に理解され、感じられる。私たちはこの航海を通して忍耐することと、神に信頼することを教えられた。
信仰と希望と愛と謙遜は、すべてこの苦しみを通して成長するように作られていることを確信する。
主は必ず私の精神を純化し、主との霊的な交わりのために捧げる私の祈りに応えて下さる。
それがどんな形で応えられるか分からないけれど、神の大いなる、数々の恵みに確信しよう。
ああ、どうか信仰がさらに強められ、忍耐が信仰によって全うされますように。」

三カ月を経てようやくシンガポールに着いてそこでの生活がはじまった。その後、長男が生まれたがふたたびその命は失われた。わずか数時間の命であったという。
 そこからヘボンは中国に移り、そこで次男が生まれた。そうした間にも中国の言葉を覚え、キリスト教宣教のために日夜心身のエネルギーを注いでいたのであったが、ヘボン夫妻はマラリヤに感染し、回復困難であったので遂に祖国アメリカに帰ることに決断した。いったん帰ったらふたたびアジア宣教に戻れるかどうか、あれほど反対していた両親や周囲の人たちからはやはり、ヘボンたちの考えは間違っていたと言われるであろうから、ふたたびアジアに出発することはできなくなるのでないか、等々さまざまの思いがあったであろう。アメリカの東海岸を出発して
五年という歳月が経っていた。
アメリカに帰ったヘボン夫妻は健康を回復し、ヘボンはニューヨークで開業した。彼は医者として献身的かつ技術的にも優れていた上、アジアの人たちに命を捧げようとしたほどの愛を持っていたゆえに、治療に来る病人たちにもそうしたキリストの愛をもって対処した。それゆえに、まもなくたくさんの患者がくるようになって病院は大きくなっていった。そしてニューヨークで一、二とも言われるほどの大病院となった。そうした医者としての高い名声、評価を受けるようになったが、その間に三人の子供が生まれた。しかし、しょうこう熱や赤痢などで、次々と死んでいった。五歳、二歳、一歳という年であったというから、そうした天使のような子供たちを相次いで失っていくことは、大きな悲しみであったであろう。
こうした悲しみは、ヘボンがその後に日本への伝道という大きなはたらきをするための、神による準備のようなものであった。「ああ、幸いだ。悲しむ者は。天の国は彼らの者である。」という主イエスの言葉はヘボンにもあてはまるものとなった。アジアへの船旅の途中で一人、シンガポールにて一人、そしてニューヨークで三人、合計五人もの子供を亡くしていったという特別な悲しみによって、この世の病院の事業が大いなる評判を得て、豊かな生活を与えられるということにも流されず、悲しみのなかから神の国を求め、それを与えられていったことがうかがえる。(*
このような悲しみを通って、ヘボンの中にかつて燃え始めたアジアの人たちの魂の救いへの思いが一層清められ、深められていったのであった。

*)このように家庭の悲劇によっていっそうその神からの使命に目覚めていくのは、日本で初めての知的障害者教育を、夫の石井亮一とともに創始した、石井筆子のことを思い起こさせる。石井筆子は、一八八〇年に日本人初の女性留学生としてフランス、オランダに留学し、帰国後は華族女学校でフランス語の教師をしたり、父親も福岡県令(現在の知事)をしていたような社会的地位の高い人であったが、子供が、次々と障害や病気で亡くなっていった。
長女は知的障害者、次女は虚弱児で生後まもなく亡くなったし、三女も結核性脳膜炎で死亡、最初の夫も三五歳の若さで死去した。このような家庭の悲しみを越えて、キリスト教信仰をもって一〇年あまり不幸な子供や女子教育に力を注いだ。その後、知的障害児の 福祉にすべてを注いでいる石井亮一と出会って結婚した。そして知的障害者の施設を夫亮一とともに献身的に守り、恵まれない子供たちの保護と教育のために一身を捧げた。 家庭の悲劇がなかったら石井筆子のこうした活動はなかったし、このような深い悲しみや苦しみを経験することによって、いっそう神のみに頼り、神の導きにゆだねて、その使命に目覚めていったのがうかがえる。


そのような病院の隆盛を伴いつつ、十三年の歳月が流れていった。ふつうならもうそのような豊かで社会的にも広く知れ渡った評価のもと、一度は挫折したアジアへの宣教といったことを断念して医者として大都市の中で病気に苦しむ人たちを助けるために働くことに志を変えていくだろう。にもかかわらず、ヘボンの心には神に点火され、アジアの闇に閉ざされた人たちへの愛の炎が燃え続けていた。
ヘボンの弟スレーターは、牧師であって終生兄弟愛を続けた。ヘボンが弟に宛てた手紙を次に引用する。

あの子は今朝二時ごろ死にました。四週間ばかり病気でした。だんだん弱っていってとうとう今朝二時、その霊は去ってイエスのもとに永遠の命に入ってしまいました。
ああ!スレーター君、私どもの深い悲しみ、わたし共のこの予期しない淋しさをどう君に説明することができようか。わたし共は、この小さい子はきっと命をとりとめると思いました。
しかし、私は心のそこから、「私の思いでなく御心をなし給え」と言うことができると信じます。(神の)無言の英知と愛はわが子とわたし共には与えられないように見えても、神はすべてにおいて善くなし給うことを信じています。どうかこのことが祝福となりますように。
こうした苦しみや悲しみに打ちのめされるということは空しいことではありません。ああ、私たちをさらに神のもとへと導いて下さるように、我らをさらにキリストのようにして下さいますように。
しかし、勝利は神のみにある。幼な子は勝利した。彼はイエスの胸に抱かれて安全となった。私の胸は張り裂けるほどだ。私につばさがあったらどこか寂しいところに飛んで行きたい。これが悪しき思いならば、神よ、赦してください。(「ヘボンの手紙」高谷道男著 有隣新書二七~二八頁 一九七六年刊)

このような悲しみによって霊的に鍛えられ、強められていったヘボンの心にはいっそう日本への宣教の思いが強まっていった。その頃日本は、長い鎖国をようやく改めて開国の方に向かっていた。一八五三年にペリー提督が日本に開国を迫り、幕府との長い交渉の末、ようやく日本との交流がはじまった。しかし、キリスト教は絶対禁止のままであり、キリスト教の宣教を目的として日本に来るということは捕らえられ、あるいは幽閉され拷問を受けるなど、どんな恐ろしい状況に直面するかも分からないのであり、命の危険を覚悟しておかねばならないことであった。
そのような困難を見つめた上で、ヘボンはふたたびアジア、特に日本への伝道を決断した。すでにニューヨークでは代表的な大病院となっていたし、社会的にも名医として確固たる地位をえていたヘボンには財産もあった。立派な邸宅、大病院、別荘などすべて売却して伝道のための資金とした。多くは伝道団体によって一般のキリスト者からの献金が集められており、それによって宣教師たちはその生活や伝道が支えられるが、ヘボンはそうした支えとは別に自らも多額の資金を日本伝道のために用意したのであった。
ヘボンの信仰の決断によってその後も大きな心の負担となることが伴った。それは次々と生まれた子供が亡くなっていくなかで、一人無事に成長した十四歳になる一人息子のサムエルを宣教には同伴できないことである。幕末の日本には言葉がそもそも分からない、日本にはアメリカ人としての必要な教育を授ける機会というのは全くないのであって、たった一人の子供であって青年期にさしかかる重要な時期であっても同伴することは到底考えられないことであった。親しい友人に預けて進学の保証を取り付け、後ろ髪を引かれる思いでヘボン夫妻は日本への出発を決断したのであった。

かわいそうなサムエルは、学校に通うために、昨日友人の家に引き取られました。これがわたしの遭遇する最初の別離であり、最もたえがたい試練でもあります。ほとんど胸も張り裂けるほどの悲しみでした。
しかし、私は主なるわが神を信じています。神は父なき人々の「父」であると約束して下さっています。いつか近い将来、日本においてふたたび私ども家族が一緒に住めるという望みを抱いています。そうなればどんなに喜ばしいことでしょう。たとえそれが果たせなくとも、天において再会することができます。     (「ヘボンの手紙」三四頁)

このように、胸も裂けるかと思われるほどの悲しみをも、神の国のために一人息子を他人の手にゆだねて日本に向けて出発することになったのである。
そして彼の家族、親族や親しい人たちも、ヘボンの真の意図、神が実際に彼に働きかけたのだということをなかなか信じようとしなかった。

ただ、私が残念に思ったのは、彼ら(故郷の親しい人たち、親族たち)が私が日本に行くことについて、キリスト教的な考え方を持っておらず、彼らの感情や目標がキリスト教的なものでなく、私が日本の人々に福音を伝えようとする努力に対して、好感を持とうとしないし、私がみんなに期待したほどに救い主の栄光を望もうとはしなかったのです。
みんなは私が一時の熱心にかられてのことで、賢明な判断ではないと考えています。彼らみんなが熱心な生きたキリスト者であってほしい。そう祈っています。
    (「ヘボンの手紙」三四頁)

最も理解してほしいと願った身近な人たちからも十分な理解を得ることもできなかったが、ヘボンはそれらの無理解のただなかで決断を変えることはなかった。

数千年も昔、アブラハムが、次のような神からの言葉を受けた。

「あなたの国を出て、あなたの親族に別れ、あなたの父の家を離れて、私の示す地に行きなさい。
私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」       (創世記十二・1

このアブラハムが受けたのと同じようにヘボンにも住み慣れた故郷、そして家族や親族のところから出て、神の示す地に行くようになった。そして彼が日本に聖書の日本語訳をなさしめ、キリストの福音をもたらすなどで大きな祝福の基となった。
聖書の言葉はいくら読んでもその意味は深く味わいは底知れない。それはこのように、数千年を経てもなお、人間の生涯を支配し導いていき、そこから大いなる祝福をもたらす神の御計画は今も変ることなく続いているのを知らされ、生きてはたらく神の御手を実感するからである。
愛する一人息子をアメリカに残していたためずっとその息子のことには心を注いでいたが、弟から、息子のサムエルを預けておいた友人が、息子を嘘つきといって鞭で打ったということを知らされた。そのことを息子からも知らされたとき、ヘボンは、大きな心の痛みを感じたのであった。

私は息子の手紙を読んだときに、胸は痛みました。たとえ息子が間違っていたとしても成長した息子をそのように罰するのは、よくないと思います。息子を預けた友人が息子を嘘つきと非難したりするのは、紳士的でなく、キリスト教的でないと思います。もしこのようなやり方でなければ息子を教育できないと友人が考えているようならば、息子を他のところに移して下さい。
私がアメリカを去って以来、こんなに悩んだことはなく、急いで帰国しなければならないかと思ったほどです。
しかし、このことや私の心の憂いを、すべて父なる神にゆだねるようにつとめます。
       (前掲書 1415頁)

こうした抜き差しならない試練にも直面しつつも、彼は、聖書の日本語訳という道のないところに道を切り開くために日夜働いた。それはまず、医者としてのはたらきから始めた。公然とキリスト教を説くことはとてもできない状況にあったし、そもそも日本語が分からないから説くこともできない。日本語を習得しようとしても、幕府の役人がさまざまの手段を使って妨げ、できないように見張りを置いたりする。
当時の日本は、外国人が侵略など何らかの悪事を日本に対してなすのだと考えて、攘夷という考えが激しくなっていた。ヘボンは当時の日本の状況を報告する書で、「暗黒の地」として表現したという。イギリス公使館の通訳が殺され、また人々によって「近いうちにお前ら異人は皆殺しだ」などと脅迫されたとか、五〇人の浪人が外国人襲撃未遂の疑いと捕らえられたとか、ロシア使節の部下たちが斬られた、またオランダ船長と船員が宿を出たところで殺された等々という暗い事件が相次いだ。
日本が鎖国を止め、アメリカなどと貿易を始めるようになってから一年ほどで十数人の外国人が刀で殺害された。日米修好通商条約は一八五八年にハリスの努力で締結されたが、彼の通訳であったヒュースケンは、オランダ語と英語ができるということで貴重な通訳として活躍していたのに、単純に外国人を憎む一部の者によって暗殺されてしまった。
ヘボン自身に関しても危険はすぐ近くまで忍び寄っていた。家で雇った使用人もヘボンの暗殺を計画したり、彼らがスパイであることも多かったという。そしてしばらく住み込んでみたが、ヘボンが全く怪しい人間でなく誠実さとか親切さ、そして非常な能力を持っているにもかかわらず、高ぶったり見下したりしないというので、斬りすてたりせねばならないような人間でないと分かって辞めていった者もあった。
また、ヘボンの妻のクララもあるとき、外出したおりに後ろから棒で殴りかけられて倒れ、意識不明になったほどで、もし打たれたところが肩でなく、後頭部であったら助からなかったかも知れないようなこともあった。
ヘボンが来日したのは、一八五九年、江戸時代の末期であり、明治になる一〇年ほど前である。開国したといってもキリスト教は厳禁されたままであり、一般の人たちがキリスト教に触れるようなことがあったらすぐに捕らわれて牢獄入りとなり、拷問などひどい仕打ちを受ける状況であった。外国人が必要上持ち込もうとする書物も一つ一つ検査して、少しでもキリスト教に関する言葉が入っているなら集めて焼いてしまうという状況であった。
このようなキリスト教への敵視と異常なまでの迫害は、明治になっても続いたほどである。長崎県浦上村の一八六七年におきた大規模な迫害は有名である。ここでは江戸時代の後期にとくに厳しい迫害が行われた。四回にわたるものであったからそれを一番崩れ、二番崩れ四番崩れといっている。 最後の浦上四番崩れという迫害は、江戸時代から明治に変る一八六七年におきたものであった。信者は捕らえられ、牢に入れられ、拷問を受けた。明治の新政府になってもこの迫害の姿勢を全く変えず、政府は村全体のキリシタンたち三四〇〇人ほどにも及ぶ村人たちを、数多くの県に流罪として村を滅ぼすという驚くべき強硬な手段に出た。こうした非人道的なやり方が外国の使節団によって強く抗議され、外交問題となりそれによってようやく政府は、一八七三年にキリスト教の禁制を解いたのであった。
こんな状況のなかであったから、日本語を学ぼうとしても話しかけると逃げていくし、彼らは外国人と親しいかのように思われたら、自分たちの命が危ないというので恐れていたのである。
日本人にキリスト教を伝えるにはまず言葉が分からないと何もできない。そして生きた日本語のためには周囲のふつうの日本人との会話が不可欠である。それができないので日本人を雇って日本語の研究に力を注いだ。ヘボンは医療を通じて人々と近づき、キリスト教を伝える接点としたいと考えて、治療所(施療所)を開く許可を幕府に申し出ていたが、当時の幕府はこうした外国人からの申し出とか願い出はできるだけ引き延ばして結論を与えないという方策をしばしばとっていたため、彼の申し出もなかなか許可されずに放置されていた。
ヘボンはこうした状況がいつまで続くか分からないと思われたので、日本に来て一年あまり経ったときに、無許可のままにキリスト教宣教の糸口をつかむためにと施療所を開いた。
この施療所は次第に周囲の人たちの注目を集めるようになった。その評判は広く関東一帯に知れ渡り、貧しい人から地位のある武士、女性、子供、また結核や眼病、天然痘、手足の怪我などありとあらゆる病気の人たちが押し寄せるようになった。医者なども訪れて自分の手術などの技術を高めたいとするものたちも来訪するようになっていった。
そうしたなかに後の明治政府で重要な役割を果たすことになった大村益次郎もいた。大村はもともと村の医者であったが、後に幕府の講武所教授となり、長州藩の代表的人物の一人となったが、ヘボンの卓越した医者としての見識に学ぶために、幕府から派遣されたものであった。
このようにして少しずつヘボンの霊的な力は浸透していった。
ヘボンは、日夜わずかの時間をもむだにせずに働き、また聖書を日本語に訳するためには極めて重要な日本語の研究を続けていた。
彼の霊的な慰めや力の源泉はもちろん神であり、主イエスであったが、神の創造された目に見える植物にも大きな慰めを得ていたのがつぎの手紙で知ることができる。

私の花壇はいつも変わらぬ慰めであり、仕事の源泉です。私の作ったすばらしいイチゴ畑をお見せしたい。庭の畑には、トウモロコシ、トマト、エンドウ、タマネギ、レタスなど多くの野菜類を植えています。
ある婦人から二六種類の種をいただき、別の人からは百十一種類の種をいただきました。みんな蒔きました。私は自分の花園を、この国における最大の祝福の一つと思っています。これは私の憩いとなり、園芸をしているときほど幸いなことはありません。
こうした多くの美しい花を地上に満たして下さる私たちの父が、どうして私を導いて下さらないことがありましょう。(「ヘボンの手紙」八六頁 一八六四年四月四日の項)

この手紙が書かれたのは、江戸時代末期であって、遠い異国にあって風俗習慣もまったく異なるところで、ヘボンが最も大切にしているキリスト教信仰が厳禁されていて、キリストを伝えようとすることが発覚すればたちまち捕らえられるような幕府の束縛や身の危険が感じられるような状況のなかである。
ヘボンは、さまざまの人たちの治療を経てたくさんの人々との接触が与えられ、日本語の習得もすすんでいった。それが七年七カ月という歳月を経て、日本で初めての和英辞書が出版されることになった。一八六七年、それは徳川幕府が倒れて明治という新しい年がはじまろうとする歴史的な状況のときであった。
この辞書は中国の上海で印刷されることになったが、印刷製本も困難なものであったから、非常に高価なものとなったが、一度に数十冊を購入していく武士とか崩壊寸前の徳川幕府も三〇〇冊も購入していったとかで、明治の時代になっても売れ続けた。
現在では、英和辞書、和英辞書の類は数えきれないほどある。そしてだれでもそうした辞書によって英語の学力をつけていったのであるが、こうした和英辞書の日本での最初のものがヘボンによる辞書であった。まもなくそれには英和辞書も付けられてそれがその後三〇年ほどは比類のない辞書として尊重されたというが、それによって日本の精神を広く世界に向かって開く絶大なはたらきをすることになった。西洋医学がオランダ語によって日本に伝わって鎖国下のなか、貴重なヨーロッパの学問への窓となったが、英語という世界語の辞書によって世界に窓を開くことにつながったのであった。
ヘボンの最大の目的はもちろん日本語と英語の橋渡しをすることによって聖書を日本語に訳し、キリストの真理を伝えたいということであった。
それゆえ和英・英和辞書の完成のつぎは、聖書の日本語訳という事業に他の宣教師たちとともに着手する。最初に手がけた新約聖書の日本語訳の分担は、四つの福音書、ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙、テサロニケ書、ヤコブ書といった大半の部分をヘボンが担当し、使徒言行録やガラテヤ書など一部を同労者であったブラウンやグリーンといった人たちが担当した。
そして五年半の労苦の結果、一八八〇年に日本で初めての新約聖書の全訳が完成した。さらに、その後は旧約聖書の完成に向けて日々変ることなき熱心な努力が捧げられ、七年後に旧約聖書の日本語訳が完成、新約聖書と旧約聖書の完成に十一年の歳月が費やされた。
ヘボンは最初から日本語訳を目的としていて、そのはじめから数えると三十年近くもかかってついに聖書を日本語に訳するというおおきな仕事を完成したのであった。そしてこの翻訳には多くの人がかかわったが、最初から最後までかかわったのはヘボン一人であったという。
まさに神は、この仕事のために、あらゆる困難をも家庭の悲劇をも経験させ、その類まれな能力をも用いて日本にキリストの福音を日本語でもたらすという霊的、かつ歴史的な事業をゆだねたのであった。
現在の日本では中学の義務教育で全国民が英語を学ぶし、そのときに英語の辞書を何らかのかたちで用いる。その英語教育の根本になる辞書をずっとさかのぼっていくとこのヘボンの英語辞書に行き着くのである。
また、明治以来無数の人たちが聖書を日本語で読んできた。信じる人にならないまでも、聖書はおびただしい日本人に読まれてきた。その源流をたどってもやはりヘボンが主となって訳した聖書にたどりつく。
こうしてその生涯をかけ、命がけで日本に来たヘボンを「私の言葉にしたがって私が示す地に行きなさい」と命じた神、その神の祝福が日本人のあらゆるところへと流れていったのがわかるのである。
これは、単にヘボン一人のことでない。聖書はつねにそうした特別な人だけのことでなく、どんな人にも生じる内容なのである。神を信じ、その神の言葉に従っていくことこそ、さまざまの困難や悲しみも伴うこともあるが、それらを越えて神の祝福は与えられ、その祝福は本人だけにとどまるのでなく思いがけないところへと広がり、流れていくということなのである。

 このヘボンについての記述には、「ヘボンの手紙」有隣新書、「横浜のヘボン先生」(いのちのことば社))
、「ヘボンの生涯と日本語」(新潮社)、「S・Rブラウン書簡集」他を参考に用いた。


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