詩の世界から 2008/2
山に向かいて
窪田 泉
わがこころ驕りてあれば
山はきびしく
わがこころ貧しくあれば
山はやさし
こころうなだれ
おもいみだるる日
山に眼をあげ
神を呼ばわん
(「曠野の詩」祈の友同人信仰詩集九〇頁より 静岡 三一書店 一九五四年刊)
・著者は、青山学院英文科卒。第一回山梨文学賞受賞。一九四七年召される。
若くして召されたこの作者、山を見つめる敏感な心が感じられる。自然というのは、私たちの魂の状態を反映して見えてくる。私たちの心が固く無感動になっているとき、何かに気を奪われて忙しくしているとき、自然もまた私たちには無関心なように何も語りかけてはこない。
あるいは、高ぶりの心あるときには、自然もまた私たちに厳しくなり、なにもそこから汲み取れなくなる。
しかし、ほかに慰めもなき苦しみや孤独にあるとき、砕かれた心もて山を見、樹木や野草に触れるとき、それらは私たちに近づき、やさしく語りかけてくる。
この詩は、聖書にあるつぎの詩が胸中にあってつくられたものであろう。
私は、山に向かって 目をあげる
わが助けはいずこより来たるか
天地を造られた主より来たる (詩編一二一より)
香りを近くに
ホイッティア (*)
John Greenleaf Whittier
どこからか分からないが、香りを近くに感じ、
旅人は、感謝の心を持つ
立ち止まって、帽子を取って
空からの祝福を受ける。
The traveller owns the grateful sense
Of sweetness near, he knows not whence,
And, pausing takes with forehead bare
The benediction of the air.
(*)アメリカのクェーカー(キリスト教の一派)の詩人。一八〇七~一八九二。内村鑑三には、自分の愛する詩を数十編原文とともに訳して日本人に提供した「愛吟」という著作がある。そのなかにもホイッティアの詩が含まれている。
ここにあげたのは、新渡戸稲造が、その著書「武士道」の最後に引用した部分。
…何世代か後に、武士道の名が忘れ去られるときが来るとしても、「路辺に立ちて眺めやれば」その香りは遠く離れた、見えない丘から漂ってくることだろう。この時、あるクェーカーの詩人はうるわしい言葉で歌う。…
(「武士道」 奈良本辰也訳 一七八頁 三笠書房刊 )
としてこの詩を引用して最後を締めくくっている。これは長い原詩 SNOW BOUND の最後の部分である。
新渡戸が述べている武士道の精神としての義や憐れみ、勇気といったものは武士たちの中にあったといっても、武士階級は日本人のごく一部でしかなかったのであり、日本人全体のなかに流れているとは到底言えないものであった。
そして、人々の心を引きつけた忠臣蔵に見られるように、義や忠義というものも仇打ち、復讐になって現れることもあった。
武士道の中心にあったとされる義や憐れみなどは、はるかに完全なかたちで、キリストに実現されている。
そしてそのキリストの香りは、私たちが静まって天を仰ぐときには、天からも雲からも、また吹きわたる風や山野の野草からも、そして現在生きて御国のためにはたらく人々からも、歴史のなかの人物からも、だれでもがどこにあっても感じ取れるようになっている。