主よ、いつまで 2008/3
この叫びは旧約聖書、とくに詩編において多く現れる。しかし、新約聖書では黙示録に一度しか見られない。それは新約聖書では個人の苦しみや悲しみを詩のようなかたちで直接に表現したものはないからである。
このような点を見ても、新約聖書だけでは分からない信仰の世界が旧約聖書にははっきりと示されているのであって、詩編の重要性を示すものである。
とくに、旧約聖書のヨブ記も正しき人に降りかかる苦しみをテーマにした長編の詩である。そこでは、死を望むほどに苦しみや孤独が深く、いつまでこの苦しみは続くのか、という叫びに満ちたものが全編を覆っている。
わたしの生まれた日は消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。…
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。…
なぜ、労苦する者に光を与え
悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
彼らは死を待っているが、死は来ない。…
湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。
静けさも、やすらぎも失い
憩うこともできず、わたしの心はかき乱されている。(ヨブ記三章より)
神はわたしの道をふさいで通らせず
行く手に暗黒を置かれた。…
四方から攻められてわたしは消え去る。木であるかのように
希望は根こそぎにされてしまった。
神はわたしに向かって怒りを燃やし
わたしを敵とされる。…
神は兄弟をわたしから遠ざけ
知人を引き離した。
親族もわたしを見捨て
友だちもわたしを忘れた。
わたしの家に身を寄せている男や女すら
わたしをよそ者と見なし、敵視する。
息は妻に嫌われ
子供にも憎まれる。
幼子もわたしを拒み
わたしが立ち上がると背を向ける。
親友のすべてに忌み嫌われ
愛していた人々にも背かれてしまった。
骨は皮膚と肉とにくっつき
皮膚と歯ばかりになって
わたしは生き延びている。(ヨブ記一九・8~20より)
このヨブの苦しみは、財産が失われ、愛する子供たちも次々と死に、自らも重い病気となって夜も眠られないほどに苦しみ、妻からも見下されることになり、底知れない苦しみにさいなまれるものであった。そのような苦しみは耐えがたいものであったので、彼は日夜いつまでこの苦しみは続くのかと祈り、叫び続けたことであろう。しかし、その願いはかなえられなかったゆえに、はじめにあげたような、生まれてこなかったほうがよかったのだ、なぜ生まれてきたのか、という激しい問いかけとなった。
家族も幾人も失い、残った子供や妻からも嫌われ、病気の状況が嫌悪をもよおすような状態であったために、まわりの人々たちや友人たちからも見捨てられてしまった。
神を信じ、正しく生きてきたはずの者であってもこのような叫びをあげざるを得ないほどに、精神的にも肉体的にも追い詰められることがありうるということをこの詩は示している。
いつまで続くのか、というその問いかけに答えもなく、神が自分の行く手に闇を備えたのだ、としか思えない状態であった。
このような苦しみは歴史のなかでも、数知れない人たちが体験してきた。旧約聖書の詩集(詩編)にもそのような内容のものが多く見られる。
この世では、愛の神を信じていても、さまざまの苦しみが降りかかってくる。ときには病気や家族の問題、職場や周囲の人間関係など、それぞれに苦しみが続く。とくに病気の場合にはもう治らないというような病気である場合には、気力を失わせて、将来を生きる力が失われていくことも多い。
いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。
いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。(詩編十三篇)
この詩では、四回も繰り返して「いつまで…」という叫びが発せられている。このように繰り返し強調されているのは聖書のなかでもこの箇所だけである。それほど、この詩は、病気あるいは敵対する力によって追いつめられた人の心が表れている。この詩の作者は、全能の神を固く信じている人であっただろう。しかしそれでもこのような、耐えがたい苦しみに投げ込まれてどうすることもできない状況となっている。
この世にはこうしただれにも言えないゆえに、また言ってもどうにもならないゆえの深い苦しみに日々置かれている人たちが数知れなくいる。そうした逃げ道のない状況のゆえに、みずからの命を断つ人たちが年間三万人ほどもいるし、未遂に終わった人たちを含めるならばその何倍にもなるだろう。
そうした人たちとこの詩の作者との大きな違いは、前者がその苦しみを訴える相手を持たなかったのに対し、この詩の作者は、人間に言えない、わかってもらえない悲しみや苦しみを訴える相手を持っていたことである。
現代の私たちは、「敵」という言葉はあまり使わない。しかし、敵とは、昔の時代に武器を持って攻撃してくる戦争などの敵ということでなく、その本質は、私たちの心を傷つけようとし、またさらには生命をおびやかそうとするような闇の勢力のことである。そして私たちはそのような力に、現代においても私たちの生活やその周辺でしばしば直面する。それは、職場の特定の人間であったり、ときには最も身近な家族であったり、また病気や死そのものであったりする。それらが敵のように私たちの命や心に襲いかかるようにして迫ってくることがある。
そのような時、だれでも「主よ、いつまで…!」という強い叫びを出さずにはいられなくなるだろう。
神が私たちを忘れているのではない。しかし人間は神の無限に深いお心を量りかねて神は自分のことなど忘れておられるのだ、としか思えないような状況に陥ることがある。
このような状況にあって、この詩の作者は、こんな苦しみを与えるのだから神などいないのだ、というようには思わなかった。かえって、一層真剣に神に願ったのである。
わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え
わたしの目に光を与えてください
死の眠りに就くことのないように
敵が勝ったと思うことのないように
わたしを苦しめる者が
動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います
「主はわたしに報いてくださった」と。(詩編十三・4~6)
この作者はいつまで続くのかと思われる苦しみのただ中から、神がどうか応えて下さるようにとそのことを必死になって願った。
「光を与えてください!」というのがその願いであった。苦しみのときに、私たちはこの詩の作者のように祈るだろうか。今この苦しみを取り去って下さい、というように祈ることがずっと多いだろう。
しかし、ここで作者が全身をあげて求める光とは、死ぬかと思われるほどの苦しみに何の意味があるのか、またその苦しみの背後に神の愛の御手がはたらいていることをはっきりと見ることのできる光なのであった。
私たちの苦しみは、その苦しみが得体の知れない暗黒の力によってもたらされているかのように感じるゆえにいっそう魂に重い負担となる。苦しいほど何も分からなくなって、ヨブがそうであったように、神だけでなく、周囲の誰もが自分を見捨てているかのように感じられ、まったき孤独のなかに投げ込まれたと感じられてくる。
底知れぬ苦しみとは、闇なのである。ダンテもその神曲の最初に、かれが体験した苦しみを「暗き森」にたとえ、その苦しみは死ぬかと思われるほどのものであったことを記している。
神から受ける光があれば、そのような苦しみの限界や意味がはっきりとわかる。そのために待ち望むことができるようになる。光なきことこそ、最大の苦しみをもたらすものなのである。
それゆえに、この作者は光を求めた。「死の眠りに就くことがないように…」そして敵対する力が自分を呑み込んでしまうことのないようにと。
聖書において、神の光は、単に知識的によくわかるようになるというのでない。それは実際の生きるときの力なのである。これと似たことは、つぎの詩にも表れている。
主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。
さいなむ者が迫り
わたしの肉を食い尽くそうとするが
わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
よろめき倒れるであろう。
彼らがわたしに対して陣を敷いても
わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても
わたしには確信がある。(詩編二七・1~3)
この詩の最初の言葉「主はわが光」のラテン語訳の文(*)がオックスフォード大学の標語として用いられ、同大学出版局の頁数の多い書物には、書物の図の中にこの言葉がはめ込まれた一種のマーク状ものが背表紙に付けられている。「主はわが光」という言葉が、主こそは光を与え、真理探求という大学の使命を支えるものと受け止められているのを示している。
(*)Dominus illuminatio mea(ドミヌス 主 、イルルーミナーティオー 光 、メア 私の)
そしてたしかに神の光はあらゆる方面の真理の探求を啓発し、刺激して導くものだと言えよう。科学的な方面だけ見ても、ケプラー、ニュートン、パスカル、ファラデー、メンデル等々科学史上の巨人たちが多く神を信じる人たちであったことはそのことを示すものである。その他、音楽や美術、哲学などさまざまの方面においても神の光はきわめて重要な刺激を与えてきた。
しかし、この詩編二七篇を見ればすぐにわかることであるが、ここでは神の光とは、そうした知的な探求に光が重要だということでなく、この詩の作者を取り巻き、滅ぼそうとして迫ってくる悪の力に対抗するための力なのだ、ということが強調されている。
神の光こそは、何にもまして悪に打ち勝つ力なのであり、神の光を受けることによって悪の力が迫りくるとも、その悪に倒されない力を与えるということが言われているのである。
いかに科学など学問上の真理が分かっていても、数々の生きていく上での病気や悪との戦いの苦しみに打ち勝つ力を与えるものとはならない。自分や家族が事故や病気で苦しみ、死ぬほどの状況にあるとき、だれが科学書や学問的な研究書などを開いたりするだろうか。そうした複雑な学問的真理は、苦しみや悲しみの押し迫るときには役に立たないものとなる。
それゆえに、人間にとって根源的なものは、生きるための力であり、とくに闇の力が迫るときに死にたいと思うほどの状況にあってなお、踏みとどまる力を与え、慰めと潤いを与える力こそが、必要なのである。
聖書はそのことを深く知っているのがわかる。聖書とは単なる楽しみや、知的な満足や興味深さといったものを提供するものでなく、生きるか死ぬかという追いつめられた状況にあってなお立ち上がらせる力を与えるために書かれたものなのである。
この詩の作者は、恐ろしい苦しみを経たのち、最終的につぎのような魂の平安へと導かれた。
あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います
「主はわたしに報いてくださった」と。
人間も、医学もどうすることもできない困難の中から救い出すことができるのは、ただ神の光、神の力のみ。そしてこの詩は、いかに困難であろうとも、神に心からよりすがるときには、最終的には、このように「神は救ってくださった!
」という喜びと感謝の声をあげることができるという証言なのである。
聖書の冒頭にあるように、神とは、闇と混沌のなかに光を与える神なのである。そしてこの神の光こそは、はるか古代から現代にいたるまで、そして未来においても、つねに人間の「いつまで続くのか」という叫びに応えるものとなっている。