悪を退かせる力 2008/3
私たちは、毎日の生活の中で、何に最も苦しめられているだろうか。病気、家族や友人、あるいは職場などの人間関係、老齢化ゆえの孤独、将来の不安、職業上の問題、お金や生活など経済問題等々である。戦争などが生じている地域においてもやはり、戦争のゆえに病気が起こり、さまざまの人が死んだり怪我して働けなくなったり、それがまた経済問題にもなっていく。
こうした問題はどこの世界であっても、昔から現代まで至るところにみられる。
私たちを苦しめるもので満ちていると言えるほどである。
そしてこれらの問題は深刻になるほど、だれもどうすることもできない。
しかし、よく考えてみると、これらの問題は一つが解決されてもいくらでもあらたな問題があとに続いているということである。例えば病気であってそれがいやされたとしたら何もかも解決して平安であるということはない。健康な人も数知れない問題や苦しみを抱えているからである。
貧しい人が食物やお金が入ったからといって、それですべて安心ということにはならず、新たな問題が次々と見えてくる。
こうして人間を苦しめる根本問題は、病気やお金、老齢化といったことだけでなく、目に見えない悪の力によって私たちは苦しむのだということである。
悪が入り込めば、いかに健康であっても地獄の苦しみに陥る。例えば、人を殺害するなど重い罪を犯してしまうとき、長期の刑務所暮らしとなるし家庭もすべて破壊されてしまう。このように悪というものは私たちがすでに持っている苦しみや重荷をさらに深刻なものとし、ときには解決不能な事態へと進んでいく。
それゆえ、人間にとって悪の力、闇の力がどうなるのか、ということこそ、最も深い関心事となる。
悪の力が除かれる時、私たちはたとえ貧しくとも、また病気があっても、あるいは大きな罪を犯しても、魂の奥深いところである平安を持つことができる。
聖書はまさに人間を苦しめる根源的な悪はどのようなものか、そしてそれは究極的にはどうなるのか、ということを徹底して追求している書物であると言えよう。
それゆえ、聖書はその最初から、悪について述べている。
この世界ははじめは、混沌と完全な闇であったという。それは悪の状況を暗示している。悪は秩序を破壊し、何が正しいか、善いことであるかを全く区別しない。方向を見えなくする。これが悪のわざである。悪はひろく人間を取り巻いている。至るところに闇と混乱がある。
しかし、そこに光あれ、との神の言葉によって光が存在を始めた。光は究極的に闇に打ち勝つという闇の末路が暗示されている。
詩編においても、この悪がどうなるのか、ということは最初から最大のテーマとなっている。ふつう、私たちが詩ということで思い浮かべることは、個人の感動を記したもの、であって、悪の運命はどうなるのか、などといったことではない。それは哲学的宗教的な問題であると思われていることが多い。
そのような予想と異なり、聖書に収められた詩集(詩編)では、その冒頭からして、悪の問題が記されている。
その内容は大体次のようなものである。
いかに幸いなことか
悪の道に歩まず、
主の言葉をいつも心においている人たち
そのような人たちは
流れのほとりに植えられた木のようだ
実を結び、葉もしおれることがない。
しかし、悪の道に歩む者は
神に裁かれ
風に吹き散らされるもみ殻のようになる。(詩編第一篇より)
これは、まさに神の言葉に従う者の祝福と、それと対照的に、人間をおびやかそうとする悪の運命が記されている内容である。詩集の冒頭にこのように、神に従う者の祝福と、それと対照的に悪に従う者の運命を内容としているのは、ほかの古くから知られてきたいろいろな詩集とは、大きくことなっている。
例えば、日本を代表する古代詩集は万葉集であるが、そこで第一にあげられているのは、雄略天皇の歌と伝えられている次のような歌である。
籠もよ み籠持ち ふくし(*)もよ みぶくし持ち
この丘に菜摘ます子
家 告らせ、名告らせ……
(*)ふくし 菜を掘り取るためのへら。
といった表現から始まる。
(以下は口語訳)
きれいな籠を持って
この丘で若菜を摘んでいる娘よ
家を教えよ 名を教えよ
大和の国は すべて 私が支配している
まず 私から名乗ろう 家と名を(巻一の1)
このように、四五〇〇ほどの歌を収めるにあたって、第一に何を置くかは十分に考えられたと思われるが、天皇が土地の娘に結婚を求めるという内容である。これは、作者の個人的な娘への愛情とともに、その土地の支配ということが背後にある。これは、本来は相聞歌(*)であるけれど、第一に置かれている理由は、結婚によって子孫繁栄と、天皇の支配ということを意味しているとされる。
(*)相愛の情を内容とする歌
また、その後の代表的な詩集というべき古今和歌集の冒頭は春歌で、次のようなものである。
年の内に春はきにけり ひととせを去年とや言はん 今年とや言はん
・口語訳… 旧年の内に立春が来た。一年を去年と言おうか、今年と言おうか。 ( 昔は旧暦であって、その新年は二月の始めころとなり、立春もほぼ同時期なので、旧暦の正月よりも前になることがあるのでこのように言った。)
これは特に思想的な内容ではなく、春を迎えているなかでちょっとした時間のことが心にかかって歌にしたものである。 この古今集の冒頭の序文にあるように、「心に思うことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり」ということで、日常の小さなことに感じたことを歌ったというものである。生活の小さな感情であり、世界や悪の問題などといったことは全く問題にはなっていない。
その配列も、万葉集は大体年代順に配列し、古今集、そしてその後に成立した新古今和歌集もまた季節ごとの配列となっている。年代や季節を第一においた編集であって、詩編のように善の祝福、悪の運命といった深遠な人間全体にかかわる永遠の問題とは大きく異なっている。
中国ではどうか、中国の最も古い詩集は、詩経である。これは孔子(*)が編纂したと伝えられる。数千のなかから、三〇〇ほどを選んだものとされ、今から二五〇〇年以上も昔の詩集である。
その第一に置かれている詩は次のような内容となっている。
関関たるしょ鳩は
河の洲に在り
ようちょうたる淑女は
君子の好きゅうなり(「中国古典詩集」世界文学体系七A 5~6頁 筑摩書房 一九六一年刊)
(原文は日本では使われていない難しい漢字が含まれる文。大体の意味は、「雌雄鳴き交わす鳥の声が河の洲から聞こえる。それにつけても思いだすのは、よき家庭で育った貞潔なおとめこそ、君子の妻としてふさわしい。」)
このように、日本と中国の最古の詩集が、その最初にともに支配者階級の結婚のことを歌っているというのは、興味深いものがある。これは、支配ということとよき配偶者を得て、よい子供を産み、その支配を永続化するということが重要な問題であったからだと考えられる。
またギリシャの最大の詩編(叙事詩)であるホメロスの作と伝えられるイリアスは、次ぎのように人間の怒りということから始まっている。
怒りを歌え、詩の女神よ、アキレウスのその怒りが、数知れない苦しみをアカイアに与え、たくさんの勇士たちの魂を陰府へと送ったのである。…(「イーリアス第一巻1より」)
このような他の著名な詩集と比べるとき、聖書の詩集(詩編)の内容はその巻頭の第一の歌から全くその本質が異なるのがわかる。
聖書の詩編においては、人間の季節に対する感情とか人間の支配や男女の情、時間の順などを第一に置かない。そうした揺れ動くもの、一時的なものでなく、永遠の問題を第一においている。それは究極的な善である神に従うことによる祝福と、それと逆の悪につくことによる運命である。
人間のあらゆる不幸な問題は、悪の力による。病気による苦しみの重さも家族の分裂や人間同士のいさかい、民族や国家同士の争い、戦争といったことも、要するに悪の力が支配するときにこのようなことが生じる。病気というのは、悪というのと本来関係なく、生まれつきの弱さや、栄養不足、災害や戦乱によっても生じることである。病気になったからといって、その人が悪に支配されたなどということはもちろん関係のないことである。
しかし、病気の苦しみは、私たちの心が悪に支配されているほど重いものとなり、私たちを苦しめるものとなる。それは例えば、もし私たちが他の人に大きな罪を犯してしまったとき、病気になるとその罪のことがいっそう病床にあってもその人を苦しめるであろう。
私たちは、他の人から何か悪いこと、中傷、攻撃、策略、暴力、破壊等々をされたゆえに苦しむことがある。そのようなとき、相手への憎しみが生じるといっそうその苦しみはつのることになる。憎しみというのは、本人をもむしばむからである。そして憎しみとは悪に負けた心の状態である。悪が私たちの魂を支配するとき、憎しみやねたみ、怒り、虚偽、傲慢、無気力等々が生じてくるからである。
それゆえ、主イエスは、病気そのものよりも、罪そのものを取り去ることを重要なこととみなされた。
中風で寝たきりの人を友人たちが、何とか主イエスの力によっていやしてもらいたいと、運び込んだことがあった。どうしてもイエスのいるところまで運べないし、まわりの人々が場所をあけてくれないために、最後の手段として屋根をはいで病人をつり降ろすという非常手段に訴えてまで、イエスのところに持っていこうとした。そのようなことは常識では許されることでないし、そもそもそんなことまでしてイエスのもとに連れて行こうとする熱心はなかなか見られないだろう。
しかし、そのような友人たちの必死な姿、それはイエスへの絶対の信頼を持っていたゆえであったことをイエスは見抜かれ、中風の苦しみを持っていた人の最も深いところの苦しみ、それは赦されない罪の苦しみであったゆえに、彼に罪の赦しを与えたのであった。イエスは、友人や本人たちが最も願い続けてきた中風という病気のいやしでなく、その奥にある最も重要なことに目をつけられたのである。それこそ、魂を支配している罪、つまり悪の力を追いだすことであった。
このように、悪の力とはすなわち罪の力であるから、主イエスはかれらの信仰によって中風の人を苦しめていた罪の力を追いだして平安を与えようとされたのである。
神に従うことと悪に従うこととの根本的なちがいは、詩篇第一編において歌われている。これは詩編全体のタイトルともなっている。それに続いて、本来の詩編の最初に位置づけられていると言える第二編もまた神なる善と悪の問題が前面に出されており、神の支配の力と比べて悪の力がいかに取るに足らないか、ということがテーマとなっている。
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
「我らは、枷をはずし
縄を切って投げ捨てよう」と。
天を王座とする方は笑い
主は彼らを嘲り
憤って、恐怖に落とし…
主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子…
わたしは国々をお前の嗣業とし
地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち
陶工が器を砕くように砕く。」
すべての王よ、今や目覚めよ。…
畏れ敬って、主に仕えよ…(「詩編第二篇より」)
初めてこの旧約聖書の詩編を読むときには、この詩は一見不可解なものとうつるだろう。詩というのは、「風景・人事など一切の事物について起った感興や想像などを一種のリズムをもつ形式によって叙述したもの」(広辞苑)と言われている。
しかし、詩編第二篇においては、人間の情や自然の移り変わりや美しさを歌うのでなく、そうした日常生活のこととは全く異なる世界のことが詩とされている。
すべての国々や王とか、地の果てまでとか、主が笑うといったことが書かれている。これはおよそ通常の詩というような範囲に収まらない内容であり、単なる一時的な感動とか興味のゆえに作ったのでない。
ここで言われていることは、何だろうか。
この世界全体が神の正義の支配などその存在を信じないで、真実や正義など見下す状況となっている。悪の力はたえずこのようにして、目に見えない正義の神の支配というのを否定し、自分たちの利益のため、都合のいいように人間を支配しようとする。このようにして神の生きた支配をなきものにしようとするのが悪の力である。
しかし、神はそうしたこの世の力、悪の力をいとも簡単に退けられる。「天を王座とされる方」とは神であり、神はそのようなこの世の権力者、支配者たちの動きを笑ってかれらの力を投げ捨てると言われる。
ここには悲壮な悪との戦いという光景でなく、じつに余裕のある堂々とした姿勢がある。神は、この世のあらゆる悪の力の動きを高みから見てそれらを一笑に付すのである。
そしてさらに、悪の力を打ち砕く新たな使命をもった神の子を地上に送り出し、神の力を全世界に表すということがこの詩の内容となっている。
このように、この詩は日常の花鳥風月に、また愛し合う者同士だけの限られた世界にしか通用しない感情などを歌う多くの詩とは全く異なって、善と悪の戦いの場としての世界を天の高みから見下ろし、そこからこの問題の究極的な解決を与えるものとなっている。
このような内容のものがなぜ詩なのであろうか。それは、そのような大いなる神の力を直接に啓示された者は、そのことこそ世界の根本問題であり、その解決が示されたということに、ほかにはない深い感動を呼び起こされているのであり、それゆえに、詩というかたちで表現せざるを得ないのである。
この深い感動は人間的なものでなく、神ご自身がとくに選んだ魂に起こさせたものなのである。
こうした世界的な範囲にわたる神の権威と力をまず、冒頭の二つの詩で述べた上で、詩編にはつぎに個人の深い苦しみや悲しみを表している詩が配置され、一、二篇で示されたような偉大な神であるからこそ、そうした個人の苦しみにも応えることができると言おうとしているのである。
このような神の悪の力に対する勝利は、詩編でもその深いところを流れるものとなっていて、数多くの詩がこのことをテーマとしている。ここではそれらのうちから、次の詩を見てみたい。
イスラエルはエジプトを
ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り
ユダは神の聖なるもの
イスラエルは神が治められるものとなった。
海は見て、逃げ去った。
ヨルダンの流れは退いた。
山々は雄羊のように
丘は群れの羊のように踊った。
どうしたのか、海よ、逃げ去るとは
ヨルダンの流れよ、退くとは
山々よ、雄羊のように
丘よ、群れの羊のように踊るとは。
地よ、震えよ、主なる方の御前に
ヤコブの神の御前に、
岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。(詩編一一四篇)
この詩は分かりにくい詩である。このような詩は何を言っているのか、初めて読むときにはとくに旧約聖書のことも知らない場合にはまるで意味不明である。こうした詩のゆえに、詩編全体が何となく我々とは遠いもの、私たちの心の問題とはかけ離れているような印象を与えることにもなっている。
これは、一一三篇からはじまって一一八篇までとくに「ハレルヤ!」(主―ヤハウエ―を讃美せよ!)という言葉がよく用いられているので、ハレルヤ詩篇と言われているなかに含まれているが、そのなかではこれだけが、ハレルヤ!という言葉を含んでいない。しかし、その内容には神の力への深い讃美がある。
この詩は四つにはっきりと分けられている。最初の段は、歴史を通じての神の導きを示している。イスラエルの民族としての歴史は、エジプトで奴隷として労役を強いられて苦しめられていたなかから神の力によって導き出されたことにその出発点がある。エジプトに行くまでは、アブラハムの孫のヤコブの家族だけであったが、エジプトで増え広がり、一つの民族となった。しかし、もし神によって送り込まれたモーセと彼によってなされた神のわざがなかったら、イスラエルの民族は滅びてしまっていた。
神はとくにイスラエル民族を覚え、奴隷としての闇の状態から救い出された。そしてその民族に神が宿るという特別な恵みが注がれていった。 ひとたび神がそこに宿るとき、あるいは神がその民とともにいるとき、そこには驚くべきことがなされる。それが、次ぎの段落である。
海は見て、逃げ去った。
ヨルダンの流れは退いた。
山々は雄羊のように
丘は群れの羊のように踊った。
「海が逃げ去る」とは、葦の海の奇跡のことを指している。モーセに導かれた民がエジプトの支配を脱してまもなく、前途に海、後方からはエジプト軍が追いかけてきて絶体絶命というときに、神の命令によってモーセが杖を高くあげ、手を海に差し伸べると、海のただなかに道が開けてそこを歩いて救われたという記事がある。
また、ヨルダンの流れが退いたということは、イスラエルの民が目的の地カナンに入るとき、ヨルダン川を渡らねばならなかった。そのとき、神の言葉を刻んだ石を入れた契約の箱を担った祭司がその川に入ると水の流れがせき止められて道ができてわたることができたという事実を指している。
海が逃げる、とは不可解な表現である。このようなことは大多数の人にとって思い浮かぶことのない感じ方であろう。しかも、「海」とは、古代の人たちにとって恐るべきものであり、その果てのない広がりと少し深くなると暗黒の闇となること、そして嵐のときなど船など何もかも呑み込んでしまうその力によって、聖書においては海は闇の力の象徴として用いられているところがある。そのような巨大な力を持っている海が逃げるという。そして、川の流れも単に止まったのでなく、後ろに退いた、つまり逆流したというのである。
ここには、この詩の作者が特別に深く神の力を示されたために、何もかも呑み込んでいくような海の力をも、また川の流れをも共に背後に退かせることができるというほどに、神の大いなる力を啓示されたのであった。
このことは、現代の私たちにおいても、意味深いことを示すものである。私たちの生活、命を脅かし、迫ってくる力はいつの時代でも存在する。それは病気や、人間の憎しみや誤解、またねたみや支配権の争い等々、そして事故、災害などそれらは皆、ここで言われている「海」の力、「川」の流れの力で象徴されるものである。この世のさまざまのそうした問題は、私たちをのみ尽くそうとしたり、正しい道を歩むことを妨げようとする。
しかし、そこに神の力が働くならば、そうした悪の力は退く、ということである。
これは人間が持つべき重要な確信である。このような確信をこそ、私たちは生涯ずっと持ち続けるべきことである。現実の世界は、それと逆のように見える。すなわち、悪の力が善の力を次々と押し出していく、そして善きものはこの世の悪の前に背後に退かされてしまう。
聖書の最初の部分、創世記の四章には、はじめての家庭でその兄弟たちの関係が破壊されてしまう記述がある。弟の神への捧げ物が受けいれられて兄のものが受けいれられなかったという、ただそのようなことから、兄は弟を憎みついに殺害してしまう。このように、悪の力は善きものを退かせてしまうことが、聖書の最初からすでに書かれている。
このようなことは、この世の現実であり、この聖書の記事はまさにきびしいこの世の実体をこのような記述で表したのである。
しかし、それにもかかわらずこの詩編にあるように、神の力は絶えず働いてきた。
山々は雄羊のように
丘は群れの羊のように踊った。
この記述は何のことか、そのままでは分からないような表現である。山々が、羊のように飛び跳ねるのか、という疑問が生じて、こんな記事はまるで現代の私たちには関係のないものと受け取られるだろう。
これは、シナイ山においてモーセが神から直接に神の言葉の基本となる十の戒めが与えられたとき、「山全体が激しく震えた」とあることを意味している。
この一見奇妙な詩を作ったのは、神の力の前には、本来動くことのない山々ですらもいとも容易に動かせるというのである。それほどこの詩の作者においては、神の圧倒的な力が迫ってきたのがうかがえる。
どうしたのか、海よ、逃げ去るとは
ヨルダンの流れよ、退くとは
山々よ、雄羊のように
丘よ、群れの羊のように踊るとは。
これは、人間を押しつぶしたり、呑み込んでしまう大きな力を持った海の力であっても、神の無限の力をはっきりと示された立場から見るときには、いわば子供を相手にするように、「なぜ、逃げ去るのか、退くのか」と、ある種のユーモラスな問いかけすらできる余裕をもって対することができるというのである。
この一見不可解に見える表現は、この詩の作者がいかに神の力をまざまざと実感していたかを示すものなのである。神の力が見えないほど、私たちは悪の力が大きく途方もないようにみえてくる。
昔から現代にいたるどのような時代においても大多数の人たちはこの世において、真実や正義、あるいは清い心などといったものより、悪の力がはるかに強いものだと思っているであろう。だからこそ、真実や正義そのものである神を信じることができないのである。そのような神を信じるということは、いかなる悪にも勝利する力が現実に存在するということを信じることなのである。
地よ、震えよ、主なる方の御前に(*)
ヤコブの神の御前に、
岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
(*)震えよ、という箇所の原語(ヘブル語)は、フール で、「震える、揺れ動く、苦しむ」などと訳される言葉であるが、この箇所では、ほとんどすべての英訳は tremble また、独語訳は erbeben であり、「震える、揺れ動く」である。日本語訳のうち、関根正雄訳は「ふるえよ」、口語訳、新改訳は「(主の御前に)おののけ」とある。おののくとは、恐怖のために震えることである。新共同訳だけが、「身もだえする」と訳しているが、この訳語では、大地が身悶えするなどという不可解な表現となってしまう。
この最後の段落は、全地に対して神の前に震えるほどの畏れをもって神に向かえ、という呼びかけである。そしてその神はすでに述べてきたような絶大な力をもったお方であるとともに、岩を水のあふれる泉とするような恵み深きお方であると結んでいる。
岩とは、何もそこには生まれないところである。私たちにおいては、出口の見えない困難、人間関係が破壊されたようなところ、事故や病気で絶望的な状況などはまさに岩のような状況で、そこにはいかなるうるおいもなく、人間の柔らかな心をも呑み込んでしまい、あるいははねつけてしまう。しかし、悪の力をただちに追い払うことのできる神は、そのような固く閉ざされた状況においても、そこから水を流れさせ、その岩のただなかに泉を生み出すお方だと言われているのである。
このような神の強力な力と、うるおいに満ちた側面がここには記されている。ここにあげたのは一例であって、聖書ではしばしばこのように並行して表されている。
新約聖書において
神の前には、悪の力が退くこと、それは新約聖書でも多くの箇所で記されている。以下にその一部を取り出してみたい。
主イエスがその福音を伝える最初のときに、悪魔(サタン)から誘惑を受けた。この世の支配権を得るとか、まず食物を求める生き方が重要だとか、あるいは霊的な力を悪用するとか、この世の支配権や物質的豊かさを与えられること等々、この世でだれでもが直面する誘惑にさらされた。
そのときに、主イエスは、自分の考えとか経験、あるいは議論をもって対抗するのでなく、聖書の言葉をもって一つ一つ対抗された。そうするだけで、「悪魔は離れ去った」(マタイ四・11)とある。
これはいかに神の力、ことにその神の力をたたえた神の言葉が力を持っているかということを示すものである。神の言葉は、迫ってくる悪の力を退かせる力を持っていることを意味している。
また、十二人の弟子たちを選んで、彼らに何を与えて送り出したと記されているだろうか。それは教えをたくみに語る弁舌の能力といったものではなかった。
まず第一にそれは、「汚れた霊に対する力」であり「汚れた霊を追いだす」力であった。(マタイ一〇・1)このように、悪の力を退かせるということは、弟子たちに与えられた第一の力であり、使命であったのである。そのために、パウロが受けたような律法などに関しての学問的な素地を与えるとか、そのような訓練をするといったこともなかった。それらが全くなくとも、悪の力(霊)を追いだすことは、直接に神から与えられる力によって可能となる。
今日の私たちにとっては、あまり使わないこの、「悪霊を追いだす」といった表現は、イエスのなされた働きに関して用いられている。
悪霊が追いだされると、口のきけない人がものを言い始めた…(マタイ九・33)
これは単に口がきけないという特別な障害のあった人だけのことを意味しているのでなく、ふつうは人間の言葉は真理でなく、しばしば間違ったこと、人の罪をあばいたり、話すべきでないことを言ったりするというまちがった使い方をしている。しかし、そのような狭いところに閉じ込めようとする霊を追いだすとき、人は神の国に関することを語れるようになる、ということの象徴的なできごとであった。
それは目が見えない人が見えるようになるという奇跡の記事の最後に、主イエスが、「こうして見える人が見えなくなり、見えない人が見えるようになる」(ヨハネ福音書九・39)と同様である。それは自分は何でもよくわかっている、と思い込んでいる傲慢な人がかえって最も重要なことが見えなくなる、ということであり、何も知らないと思っていたものに神の啓示が与えられるときには、神の国のことがよく見えるようになるということと似たことなのである。
次にの記述を見てみよう。
悪霊に取りつかれた人が、鎖でつながれていたがひきちぎってしまう手の付けられない状況になっていた。その人が墓場から出てきて大声で叫んだ。主イエスは彼らのなかに宿っていた悪霊を見抜いて、「汚れた霊、この人から出て行け!」と命じて、その悪霊を追いだされた。するとその人は、それまでの恐ろしい状況から救われたという記事がある。(マルコ福音書五章)
ここでも、悪の霊を追いだす力を持ったお方として記されている。
こうした悪の力を退かせ、追いだす力を持っている主イエスのことを、ヨハネ福音書ではつぎのように記している。
… それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。(ヨハネ一七・3~6)
イエスの弟子でありながら、イエスを金で売り渡すという驚くべき仕方で裏切ったユダは、武器をもった多くの兵士や宗教的指導者たちをも連れてイエスを捕らえようとしてきた。そのような悪の力の迫ってくる状況にあって、主イエスは、まったくひるむことなく、自らすすんで、彼らに対した。そして言われたのは、「わたしである」というひと言であった。
この箇所では、イエスがこの「私である」と言ったひと言のゆえに、大勢の人間たちがあとずさりし、しかも倒れたというのである。これは、ずっと以前、初めてこの箇所を目にしたとき、不可解な箇所として残っている。ひと言で、武器を持った兵士たちやイエスを捕らえようとしてきた多くの人間たちが、後に退き、それだけでなく倒れるなど、どうしてこんなことが起きるのだろうかといぶかしく思ったのである。
私たちがこの状況を思い浮かべるとき、ここには比類なき主イエスの力が浮かびあがってくる。ここで「私である」という言葉は、日本語での表面的な意味だけでは決してない意味が込められている。これはヨハネ福音書に独特の表現で原文では、「エゴー・エイミ」( egw eimi)である。(*)これは、英語の I am にあたるギリシャ語の表現である。英語でも、am はbe動詞 と言われるが、存在をも意味する。
(*)ギリシャ語で 「私、自分」を意味する エゴー(egw)は、英語にも入り、日本語でも使われるエゴイズムという言葉に含まれている。 エイミ(eimi)は、発音も似ているが、語源的に 英語の am と共通していることが分かっている。
ギリシャ語のこの表現は、旧約聖書の出エジプト記のギリシャ語訳(七十人訳)に表れる。それはモーセに初めて神が現れたとき、神の名が示される箇所である。神は、ご自分の名を
「在りて在るもの」、要するに、永遠の存在者であるとされた。名とはその本質を表すものであるから、神はご自分の本質を永遠の存在だとして表したと言える。このヨハネ福音書の箇所ではその箇所の意味をそのまま用いている。イエスが、「エゴー・エイミ」と言われたとき、それは私は、永遠の存在者である神に等しいものだ、という意味が込められている。すなわち、ここで武器を持った兵士や他の人たちが退き、倒れてしまったことは、永遠の存在者たる神の力に圧倒されたということなのである。
神の力がそこにあるとき、悪の力はこのように、退き、倒れてしまうという、霊的な真理をこの福音書ではこのような表現によって明確に告げているのである。
絶えず悪の力によって善きものが後ずさりさせられているかに見えるこの世にあって、数千年前から一貫してこのように、究極的な善である神の力がそこに来るときには、悪は必ず後退し、倒れるのだという確信が告げられてきたのは大いなる福音である。この確信と神の力の勝利する実感は、単なる経験や知識、また知的な優秀性とは何の関係もなく、神から直接に啓示として与えられることなのである。それゆえ、これからの世界においても、この確信は変ることなく、時代がいかに変動しようとも、生み出されていくであろう。時代の変化にいささかも影響されない神がその啓示を与えられるゆえに。