土の器 2008/4
人間はどうしても純粋な心になれない。さまざまの嘘、不真実がある。善人が突然悪人になることがある。悪人といっても必ずしも人を殺したり、盗んだりという犯罪のようなことでなく、信じがたいような罪を犯したり、信頼を裏切ったり、長い交わりを破壊するような言動をする等々である。
聖書にはそのことが最初から書いてある。アダムとエバ、この二人は神によって創造された理想の楽園である時まで神の戒めを守って生きていたであろう。しかし、あるとき突然、ヘビの誘惑にあって神に背くことになった。
また、彼らの息子のカインもまた、幼児のときから兄弟ずっと仲良くしてきたと思われる。しかし、成長したある日、突然弟を襲って殺すという重い罪を犯してしまった。
夏目漱石もそうした突然変わってしまう人間の心のもろさ、みにくさを自らのうちにも感じ取っていたのであろう、彼のよく知られた作品に次のように書いている。
「…平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」(「こころ」28 )
この小説を読んだのは、中学時代であった。そのとき、人間とはそんなものなのだろうか、という幻滅のようなものを感じたことを覚えている。
人間とは実にもろく弱い存在である。真実であると思っていてもあるとき突然思いがけない不真実な態度を見せられてそれ以後は友としての関わりが持てなくなるということもある。
これは特定の人間がそのような弱さを持っているということでなく、人間そのものがその精神の奥にそうしたもろさを持っているということである。
音楽によって世界にはかりしれない感動や力を与え続けてきたベートーベンとかモーツァルトといったひとたちも、人間としては罪人であり、とくに真実を一貫して守り、キリストの愛を十分持っていたとは言えないひとたちであった。
しかし、そのようなふつうの人間としての間違いもあり、いろいろな罪も軽薄さもあり、それゆえの悩み、動揺なども持ちつつ、神はそのような人に、驚くべき音楽を託された。人間そのものは土の器であるが、そこに神は御国の宝を与えたのであった。
…しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(Ⅱコリント四・7)
使徒パウロはキリストの弟子たちのうちで最も大きな働きをしたし、また現在までの二千年ほどにわたってもやはり比類のない影響を与えてきたと言える。それはパウロの名を冠した手紙が、新約聖書のなかの手紙のなかの七割以上を占めていることを見てもわかる。とくにローマの信徒への手紙やガラテヤ信徒への手紙は「救いは、ただ、主イエスを信じる信仰による」という福音の根本が明確に記されていることのゆえに、それは後のキリスト教において中心的な位置を占めてきた。(私自身もそのローマの信徒への手紙の核心部分を書いた書によってキリスト教信仰を与えられたのであった。)
また、パウロによって、キリストの福音が狭いパレスチナを出て、広大なローマ帝国領土内のトルコ半島の各地に伝えられ、さらにそこからギリシャ地方、ローマへと伝えられて、キリスト教がヨーロッパ全体の宗教となっていくのに最も大きな役割を果たすことになった。
そしてヨーロッパの宗教になってから、それが宣教師たちによってインド、中国などにも広がり、日本もザビエルによって一五四九年に伝えられた。またアメリカ大陸にも伝わったゆえに今日南北大陸にキリスト教が広まり、日本にも江戸時代の終りころにアメリカからヘボンなどの宣教師たちが危険を犯して日本に渡ってプロテスタントのキリスト教が伝えられることになった。
このように、キリスト教が世界に広がるために、パウロはじつに大きな基礎を築いたことになったのであるが、そのパウロの偽らざる気持は、自分が「土の器」であるということであった。
聖書における人間の記述は、一貫して人間が土の器である、すなわちもろく壊れやすい、汚れた存在であるということである。すでに述べたアダムとエバ、カインにとどまらず、「箱舟」で知られているノアも、当時の世界で最も神に忠実な人間であったゆえに、彼とその家族は大洪水という人間への裁きからも救われた。しかし、救われたのちに生活が安定してきたとき、ぶどう酒を飲みすぎて酔っぱらって裸で寝ていて息子たちにその醜態をさらけだしたということも記されている。この記事がなければノアは当時の人間のなかでもただ一人神に真実をつくした人として記憶されただろう。しかしあえて聖書はノアのもろさ、弱点をもはっきりと記すことによって、彼もまた土の器にすぎないことを示している。
また、旧約聖書で最も重要な人物の一人、ダビデは子供のころから比類のない勇気と力を持っていた。さらに楽器も演奏でき、詩を書くこともできた。そのような多才な人であったので、当時の王に仕えることになったがあまりに敵との戦いにおいても非凡さを発揮して敵をくだしていったために、王以上に評価されることになり、王の憎しみを受けるようになった。そこから殺されそうになる危険のただなかで神への信仰を強めていった。その後さまざまの苦難を経て、王みずから自滅していった。そしてダビデが王となり、周囲の敵国を攻撃して支配するに至った。こうした生涯の絶頂期に人間的な欲望に負けて自分の部下である人を殺し、重い罪をおかすことになった。それ以前のダビデの生き方を知っているとき、このような大罪を犯すとは考えられないほどである。
しかし、ここに土の器たるダビデの姿があった。だれも立ち向かえない強力な敵に対抗できて勝利するような人間であったが、人間そのものに宿る欲望という敵に負けてしまう弱さ、もろさがあった。それこそ土の器のように砕け散るものだったのである。
しかし、そのような弱く醜いものを持つダビデに、驚くべき深い内容の詩を造る能力が与えられた。まさにその宝は土の器に与えられたのである。そしてその詩が核となって三千年の長きに渡って人類の魂に深い共感と励ましと慰めを与えてきたのである。
私たちの周囲の野草、樹木もその茎や幹、あるいは葉を見れば何でもないごくふつうの植物であっても、神はそこに目を見張らせるような花を咲かせ、ときには美味な果物を実らせる。
こうした身近なこともまた、見栄えのしない土の器に、宝を満たすことに通じる。
私たち自身は弱く不真実なものにすぎなくとも、神は私たちが十字架を見上げ、罪の赦しを願う心があるだけで、私たちを用いて下さる。
人間関係も同様である。つねに真実であり、愛が相互にあるとはとても言えない。しかし、そのような関係のなかにも、双方がとくに神を信じる者たちであれば、いっそうそうした土の器というべき関係のなかにも、宝を添えて下さるであろう。
主イエスを信じる何人かの集まり、それはそのまま聖書でいう「教会(集会)」である。そのキリスト者の集まりであってもときには互いに罪を犯し、意見や感情の対立がある。しかし、それでもなお、「二人、三人私の名によって集まる者のうちに、私はいる」と主イエスは約束してくださった。このこともまたそうした集まりが土の器のようにもろく汚れたようなものであってもなお、そこに神はよきものを与えて下さるということなのである。
十戒について
「十戒」というと、ずっと以前映画で世界的に有名になった。その印象が強くて、大昔の物語であって現実にあったというものでないという気持を持った人が大部分であっただろう。私は高校のときにその映画を卒業生を送る予餞会という学校行事としてみんなで見に行った。海が二つに分かれるところがとくに印象的であったが、それが現代の人間に何か関係があるなどとはだれも思わなかっただろう。単におもしろい映画、というだけであった。
しかし、それは実に深い内容と広がりを持っている。
十戒の最初に、つぎのような言葉がある。
…「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
…」(出エジプト記二〇・2~3)
ふつうは十戒というと、右の引用聖句の二行目の「私のほかに神があってはならない」からの内容を思いだす。しかし、その直前に言われている神の言葉が重要である。
神とは、「イスラエルの人々を奴隷にされていた状態から救い、導き出した神である」、そのことが十戒の根本にある。この大きな出来事があったからこそ、次に与える十の戒めを守ることができるのだ、と言おうとしている。できないことを命じているのでないし、何も神からの賜物を実感していない人間に向かっていきなり命令しているのでもない。
私は四十年ほど前に初めて旧約聖書に触れたとき、十戒とは十の戒めを書いてあるとしか思えなかった。また、何か強制的な堅い感じがあり、心にそのまま入ってくるものではなかった。しかし、その後、この十戒の最初に書いてある言葉の重要性に気づくようになった。
この十戒という用語は、もともと仏教用語であるが、モーセが受けた神の言葉を中国語に訳したときに転用したのであった。仏教のほうでは、戒とは、仏教道徳の総称を指す言葉であって、五戒、八戒、十戒、二五〇戒、五〇〇戒などいろいろな戒がある。このようなことから、十戒というとやはりしてはいけない戒めというように受け取ることになってそこに愛があるなどということは感じにくい用語である。
また、英語訳の Ten Commandments という訳語も、コマンド(command)とは命令する、という語であるから、十の命令、というように受け取られる。これは強制的な語感がある。
しかし、原語のヘブル語では、これは、アセレト ハッデバーリィム といい、アセレトは十、ハッ は冠詞、デバーリームは、言葉 であるから、直訳は、「十の言葉」となる。英語のもう一つの訳語は、Decalogue(デカログ)といい、デカは、十、ログとは「言葉」を意味するから、これは原語の直訳である。
このように、原語は、戒めとか、命令といった言葉でなく、単に「十の(神の)言葉」である。それはたしかに威圧するような命令や、自分で自分を引き締めようとする戒め、といったものではなく、神の愛ゆえの言葉であり、人間とはこのようになるのが本来のあり方なのだ、ということを指し示すものとなっている。
奴隷状態から救い出したのだ、だからその愛を実感するなら自然に、その神を愛するようになるし、それが究極的な人間のあり方なのだ、ということを指し示すものなのである。
私もかつて、たしかにある種の奴隷状態にあった。それは自分というものに縛られ、この世の闇の力の中で檻の中に入れられているような状況であり、どんなにもがいてもそこから出ることができなかった。その苦しみはどうしょうもなく、だれに聞いてもわかってもらえないものだと直感していたため一人苦しみのなかであえぐことになった。
しかし、たしかにそこから神は主イエスを通して救いの手を差し伸べて下さり、全く異なる世界へと導き出された。その確固たる事実があるからこそ、そのような大いなる愛を示して下さった神の言葉に従いたいという気持が自然に生じたのである。
○○の戒めを守れ、といきなり、高飛車に命じるというのでは全くなかった。神の深い憐れみに接したゆえに、ほかのいかなる人間の命令よりも、主イエスに、神に心から従いたいという願いが起こされたのである。
お前は、私のほかに神があってはならない、そう言われたから機械的に従うということではない。唯一の神、天地創造された神が私という迷える羊、遠く暗い森のなかにいて出てくることもできなかった一人の人間を救い出して下さったからこそ、「あなただけを神とします。」という気持に自然となっていったのである。
この十戒もそのような内容を本来持っているのであって、単なる命令では決してない。
ここには、この十戒から千数百年も後になって書かれた新約聖書の精神がはやくも流れている。それは、次の言葉である。
… わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになった。ここに愛がある。(Ⅰヨハネ四・10)
これは、すでに見たように、イスラエルの人たちをまず神が愛して、救い出した、ということの延長上にある。唯一の神を礼拝するように強要する神、というイメージが強く押し出されることが多いが、実はまず神の愛が根底にあったのである。
旧約聖書の神は怒りの神、裁きの神などといわれたりすることが多い。しかし、本当は最初から深い愛の神であった。まず道からそれてしまおうとする人間をみつめ、愛する神が示されている。アダムとエバという最初の人間においても、何の努力もせずして、神ははじめから彼らを愛して、見てよく食べても美味な数々の植物を生えさせて水の流れ豊かなところを与えたとある。
人間のほうがそうした神の愛を裏切って背いていくのであり、はじめの愛へと立ち返らせるために神の裁きも行われた。
ここでは、いくつかの十戒の内容について考えてみたい。
父母を敬え
この「敬う」という言葉は、「重い」という原語が使われている。例えば、出エジプト記十八・18に「あなたの荷が重すぎて…」というようにである。
父母の存在を「重く」受け止める、ということである。敬うことのできないような親もたくさんいるであろう。仕事をしない、酒飲みで家族を苦しめる、暴力を振るう、遊びまわって家族を顧みない等々、そのような親を敬え、といっても難しいであろうが、そのような親であっても、自分と最も近い関係の人間ゆえに重く受け止めて、そのような悪行にもかかわらずその親がよくなるようにと心を砕くこと、それが親の存在を重く受け止めるということである。
最も身近な人間が、最も心を用いて重く受け止めるということ、そのことの重要性がここに示されている。主イエスは隣人を愛せよと言われた。私たちにとって生まれたときからの最も身近な隣人は親なのである。
人を殺してはならない。
この当たり前のようなことがなぜ言われているのか。殺すということは、人間が自分中心になったときに起きる。自分が傷つけられたとか自分の愛が裏切られた、自分の欲望を遂げたい、自分の利益、快楽の邪魔をする、といったことである。
それ以外の殺すという行動は、しばしば憎しみがその背後にある。憎しみの究極的なかたちが殺すということになる。
しかし、憎しみがなくても生じるのは、戦争である。上官の命令、国家の命令というかたちで、他国に侵入し、そこで多数の人々を殺すということは、その人々には会ったことも関わりもなかったのであるから、本来自分の欲望を邪魔されたとか裏切られたということではない。
しかし、命令によって殺すようになる。戦争は個人の憎しみの感情からでなく、国の支配者の欲望から始まることが非常に多い。そしてひとたび戦場で自分が殺されそうになったり友人が殺されると個人的な憎しみが生じてくるゆえの殺害となっていく。
また、それとは異なる理由で殺すことが現代では生じる。それは交通事故による。
しかし、最も殺すということで一般的な理由は憎しみである。それゆえにこの十戒の言葉は、憎んではならない、ということにつながっていく。そしてもし、私たちが奴隷の家から導き出され、救い出されたということを本当に深く思っているならば、本来憎しみという感情は起こってこないであろう。
このような殺すということを究極的にその根本にある憎しみの感情を問題にしたのが主イエスであった。主イエスは憎しみの逆にある愛、祈りをもってその感情に置き換えられた。
そのような感情が生じるために、まず私たちの罪の赦しがあった。
これは、十戒においても最初に、「私は主、あなた方をエジプの国、奴隷の家から導き出した神である。」と言われていて、そのことを本当に受け取っているならば、以下のことが守れるのだと言おうとされているのと共通している。
主イエスも、莫大な金を借りていた者にその借金を帳消しにしてやる主人のたとえを話して、そのことのゆえに他者の罪を赦すのは当然であり、赦すことができるのだと言おうとされている。
あるいは、「多く赦された者が多く愛することができる」と言われて、赦しということをまず深く受けることが愛の源泉になることを示された。
人間の他者への関わりは、無関心が最も多く、憎しみか愛か、ということになる。好き嫌いという感情もそれがより強い感情になると、憎しみと愛ということになる。しかしこの二つの感情も自然のままの人間であれば、いずれも自分中心という点では共通している。無関心ということも同様であるから、私たちが自然のままの人間であるならば、すべて自分中心の気持ちでしかない。
こうした自分中心という深い本性を根本的に打ち砕くために主イエスは来られた。自分中心とはまさに罪ということであり、その罪の力を滅ぼすために十字架で死なれたのであった。さらに罪の力を滅ぼした後、何によって生きるのか、新たにされた魂を導くものとして、復活のキリスト、聖なる霊が与えられるということにつながった。
こうして、憎しみの根源が砕かれて殺すということがなくなる道が開かれたのであった。
憎しみは人を殺すことと同じだということを、繰り返し強調しているのは、ヨハネの手紙である。
…愛することのない者は死にとどまったままである。
兄弟を憎む者はみな、人を殺す者である。(Ⅰヨハネ三・14~15より)
このように、愛を持たない者自身は死んでいるも同然であるが、他者を憎む者は、相手をも霊的に殺す者となるといって、憎しみは自分をも相手をも死に至らせると言われている。
憎しみという死の力のうちに留まり、そこから出ることができなかった人間を、いのちの世界の内に留まり続けることができるように、そこへと導き入れるために主イエスはこの世に来られたのであった。
盗んではならない
こんな簡単なこと、子供でもわかることがなぜ書いてあるのか、盗みが悪いことだいうことはあまりにも当然で、言われるまでもない、と多くの人たちは考えるだろう。そしてほとんど気にもとめないで読み過ごしていくことが多いと思われる。
しかし、これはそのように単純なことではない。つぎの主イエスの言動を見てみればこの問題の根は深いことがわかる。
…それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ福音書二一・12~13)
主イエスは他では見られないような激しい態度で神殿で商売していた人たちを追いだした。このような行動は主イエスの生涯でもここだけである。なぜこのような激しい態度をとられたのか私たちにとっても謎のようなことである。
しかし、はっきり言えるのは、このような行動にでなければならないほどに、神殿であたりまえに行われていたことの中に重大なあやまちがあったということである。言葉だけでなく、目ではっきりと見える行動によっていかに主イエスが宗教的偽善に対して強い憤りを持っているかを示そうとされたのである。
神殿で両替とか売り買いをする商人たちが、強く非難されるべきことだというのは、現代の私たちには理解しがたいことである。神社のお祭のときにいろいろな店が出るのはごくあたりまえと思ってきたからである。ここでの商人たちの商いと現代の神社のお祭のこととはもちろん違っている。福音書で言われているのは、遠くから礼拝に来た人たちに礼拝に必要な捧げ物などを売ったり、両替をしていたことを指している。
神殿に献金したり神殿の税を納めるためにはイスラエルの決められたお金でなければならず、ローマ帝国の各地から来た人たちは、神殿で両替をしてもらう必要があったのである。その際に、商人たちは相当な手数料を取って自分たちのものとしてもうけていたのである。
また、動物の捧げ物をするには、傷ついた動物ではいけないので、検査が必要となった。それで検査済みの動物を買う人たちが多かったのである。これも、それによって多くの収益を得ていた人たちがいた。
しかし、こうしたことはずっとふつうに行われていたので、当時の人たちも彼らが「盗んでいる」などと考えたことはなかっただろう。
そのように、盗むということもまた、子供が考えてわかることもあるが、宗教的指導者やほとんどの人たちが気づかないところに、すでに盗みが入り込んでいるのである。
しかし、そのような日常的な営みのなかに、主イエスは神のご意志に反する明確な「盗み」を読み取っておられた。
当時の人たちが気づかないところに深い盗みの罪があることを見抜かれたが、そうした視点で見るときには、人間の営みには至る所で盗みがあると言えよう。
自分のものでないのに、自分のものとすること、それが盗みである。このごろ次第に強調されるようになった、著作権の問題も一種の盗みだからそのようなことがないようにしようとしている。
素朴な美しさを持っている高山植物を抜き取っていくとき、それは人間全体のものを盗んだことであり、またそのような美しいものを創造してそれに触れる人に神の国を指し示そうとされておられる神のものを盗んだことになる。
人間はみな神のものであるのに、特定の人間を奴隷のように扱うならそれはやはり人間の魂を神から盗んだことである。
貧しい国々の人々が長時間有毒な物質にさらされながら働いた結果つくられたものを、きわめて安価に購入し、それを浪費するなら、そうした貧しい人々の力や健康を盗んでいるということになる。
かつての日本も国が全体としてそのように一般の大多数の人間の労働を強制し、そこから生まれた産物を取り上げていた。
そうしたことが一六三七年の島原の乱が生じた重要な原因となったが、飢饉であっても農民が生きていけないほどにきびしく徴収するということすらあった。そうしたこともすべて国家や権力者による盗みといえよう。明治になっても、農民の貧しい人たちを会社が取り込み、十二時間以上の厳しい労働を強いて多くの若者が病に倒れるような状況をつくって経済力を高め、軍事力を強めていった。そして
戦争を次々に始めていった。
戦争そのものが、大規模な国家による盗みである。相手国の人間の生命、領土を奪っていくことであるからである。
アフリカで平和に暮らしていた人たちを拉致して、数千㎞の海を船に丸太のように押し込み、弱ったものは海に投げ込むという恐るべき仕打ちをしてアメリカに連れてきて奴隷として使った。これも明白な盗みであった。
日本も朝鮮半島の人たちを大量に連れてきて、炭鉱や鉱山など有毒物質で満ちているような衛生環境の極めてわるい地下で長時間働かせるということが多く行われた。これも労働力の盗みであり、人間のからだと命を盗み取るような悪事であった。
また、現代においても、限りある資源を特定の国や人々がぜいたくのために浪費するなら、それも人類全体のものを盗んでいるということになる。現代のアメリカ、日本やヨーロッパなどの先進国といわれる国々の発展はアジア、アフリカなどの国々の人間やその労働力、そして資源を大量に奪っていくことによって発展してきたという側面を持っている。
さらに現代の日本で次ぎ次ぎと生じてきた偽りの商品の問題がある。賞味期限、商品名、そして原産国をも偽り…、これも偽りを言うことでたくみに国民のお金を盗み取ったということになるだろう。
こうした社会的な盗みから目を個人に転じてみればどうだろうか。盗みということは犯罪で、そのような犯罪に相当することは多くの人はやったことがないと感じていると思われる。
しかし、このことも、少し深く考えてみるとそうではないのに気づく。
すでに今から数千年の昔、私たちが自分のものだと考えているものも、この全地、そこに生きているものもすべて特定の王とか皇帝あるいはどこかの国の所有でなく、神のものなのだ、と確信していた人がいた。これは神からの直接の啓示でなければ到底このような確信は持てないだろう。
…地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主のもの。(詩編二四・1)
私たちのいのちも自分のものでなく、神のものである。神が母親の胎内にいのちを与えたのであって、人間がそこに介在しているのはもちろんであるが、いかに人間が産もうとしても、体の状態が何らかの点でわるければ妊娠できないし、一定の年齢の期間でなければやはり胎児を宿すことはできない。そうしたホルモンとか、胎児を形作るからだの組織などすべて人間が備えたものでないことは誰もが知っている。そうしたことも万物を創造した神が備えているからこそ、新たないのちが生まれてくるのである。
それゆえに、自分のいのちもその背後の神の御手のうちにあるのであって、私たちのいのちはそれぞれの人にゆだねられているのである。
そのようなことだけでない。私たちがこの地球上で生きているということは、自分の力だけで生きているなどということはあり得ない。空気がなかったらそもそも生きていけない。そし大気も太陽の光もなければたちまち地上はマイナス二百度近くにもなってしまう。また大気や太陽があっても水がなかったらもちろん生きられない。
また、地球が太陽から離れずに回っているのは太陽と地球にはたらく万有引力による。もしこの引力がなかったら、たちまち地球は太陽から離れて真空の中を飛び続けることになり、大気も宇宙に飛散してしまう。こういったことを考えるとすぐにわかるのであるが、人間は自分がつくったもので生きているなどということは全くいえないのであって、人間が存在するまえから備えられていたさまざまのもののおかげで生きているにすぎない。太陽も、酸素も水もすべて人間が造ったのではなく、創造主である神が創造しそれによって人間は生きている。
このような事実を知るとき、私たちの存在は創造主たる神のものであり、人間の存在というのは神の御手のはたらきがなければ生きていけないきわめて小さなものであることがわかってくる。
それゆえに、 栄光や力は神のものであり、人間のものではない。それなのに、自分がその栄光を受けようとし、力も自分が持っているのだと誇るとき、それは神のものを盗もうとすることになる。
使徒パウロは、「…この宝を、土の器の中におさめている。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。…」(Ⅱコリント四・7)と言って自分たちに与えられているよきものは神のものであることを述べている。
高ぶりや傲慢ということ、自分が物事を成しとげたとか、自分が何でもできるのだといった態度は、自分が生きて、食事したり手足を動かしたり、仕事したりすることすべての力が神から与えられているのだということを知らないことである。そうした力はすべては神のものであり、神から与えられているのに、それを自分のもののようにみなすこと、それもまた一種の盗みだといえよう。
こう考えると、盗みというのは、特定の犯罪人のおかすものでなく、だれでも神のものを盗んで自分のものとしようという気持があるのがわかる。
それならば、盗みを伴わないような生き方はあるのだろうか。
キリストはまさにそのために来られたと言える。人間が神との間に越えがたい壁(罪)をつくっているために神との結びつきができない状態となっている。その壁を根底から除くために、キリストは十字架で死なれた。そのことによって人間は、神との結びつき(主の平和)が与えられ、神の無尽蔵のいのち、よき賜物を与えられる道が開かれた。そして私たちが神からの賜物を豊かに受けるとき、おのずから奪うとか盗むといったことと逆のこと、与えるということに導かれる。
神はキリストの十字架の死が私たちの罪を身代わりにになったしるしであることを信じるだけで、限りない海のような恵みに満ち満ちた世界へと招かれる。その尽きることなき恵みを与えようとしておられる。
私たちがその恵みを少しでも受けるときには、奪おう、盗もうとする本性から、与えようとする存在へと変えられる。
すべてを持っておられる神から、感謝をもって受け取るということである。 感謝をもって捧げるということである。私たちの健康や時間もエネルギーも、あるいはお金も神に捧げるという気持をもって使うとき、それは初めて正しい使い方となる。
「常に感謝せよ」と聖書で言われているのは、もし私たちがつねに神から与えられたものだと感謝して受け取り、それをまた神の国のために用いるということで神にお返しするとき、私たちは初めて神と人とに対して正しい関係になるからである。