聖霊の導きのもとに祈りなさい。
神の愛によって自分を守りなさい。
(ユダの手紙20~21より)
賞を得る 2008/8
今年の夏は毎年の高校野球だけでなく、オリンピックがあったため、ニュースでもいつもそうしたスポーツ番組ばかりのような気がするほどであった。
そこでは、勝つ、負けるという言葉が何と多く使われていることだろうか。
新聞やテレビなどでは連日大々的に報道され、世界の最大の出来事のように扱われる。
しかし、この世では大騒ぎするが、神の国ではこのようなことは全く問題にならないだろう。
なぜなら、たった一人の人間が、それまでの生き方が間違っていたことを知り、悔い改めて神へと心を向け変えること、それは天で大きな喜びがある、と言われているからである。
神の国での大いなる喜びは、ひそやかに、また人知れずなされたことに対してなのである。
この世の目に見える出来事でなく、主によって喜べ、としばしば言われている。
スポーツなどで勝つこと、負けることなどは大した問題でない。あと一か月も経てば人々はまた別のニュースに関心を向けるだろう。あれほどの大々的報道はどこにいったのかと思われるほどになる。― 夏草や つわものどもが 夢のあと― といった状況になる。
新約聖書の世界でも、スポーツの世界で使う表現が出てくることがある。
… あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけだ。あなたがたも賞を得るように走りなさい。(Ⅰコリント九・24)
特定の場所が競技場なのでなく、この世界全体がその場なのである。賞を受けるのはただ一人だと言っているからといってそれなら自分は与えられないだろうと考える必要はない。
いつの時代においても、神の国を目指して走っている人はごく少数という状況だからである。ダンテが神曲の煉獄篇第十歌で象徴的に描いたように、神の国を目指す人は砂漠のなかを歩くかのように、人が見当たらないほどなのである。
主イエスも、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。またそれを見出すものは少ない。」と言われた。
しかし、神の御手によってその門を知らされ、神の国への道にと導かれるとき、その細い道、歩く人が少ない道を走ると、だれにでも賞は与えられる。
それは、放蕩息子のようにただ心から悔い改めて、神へ心を向け変えるだけで、あたかも一番をとったように、神は喜んで迎えてくれるからである。まさに、ただ一人に与えられる賞を得たかのように父のほうから走り寄って迎えてくれる。(ルカ福音書十五・19~24)
そのような賞は永遠に朽ちることのない天国の金メダルである。
競争する者はいない、金も組織もいらない。長い間の苦しい練習も不要である。怪我や年齢が増したり、あるいは敗北を喫したり大きな失敗をしたとたんに見放されるこの世のスポーツの世界とちがって、また心から立ち返るならば、どんな大きな失敗や間違いがあっても、まっすぐ走ったと同じように、目には見えない「永遠のいのち」という賜物が与えられるのである。