リストボタン北海道・瀬棚の聖書集会と神の導き    2008/8

 毎年の夏に、北海道南西部の日本海側の瀬棚地方にて開催される、瀬棚聖書集会に聖書講話のために出向くようになった。今年は、七月十七日~二〇日(日)までの開催。そこにはキリスト教独立学園の卒業生が多く集まり、酪農などをして生活している。
 私が瀬棚に招かれてから今年で六回目になった。不思議な導きにより、それまではその地名すら知らなかった北海道の瀬棚という日本海側の地域にて、聖書講話をするようになった。
 今年の与えられたテーマは「キリスト者の喜び」ということであった。そのテーマに沿って四回の聖書講話をすることになっていた。そして最後の日である日曜日には、瀬棚から二〇キロほど離れた、日本キリスト教団利別教会にて合同の礼拝が持たれた。
 今回は、与えられたテーマに従って、私は旧約聖書、新約聖書から神を信じる者に与えられる喜びがどのようなものであるかを、学びたいと思った。
今年の瀬棚聖書集会での、感話会でふだんは家庭でも話さないような個人的な悩みなども一部話され、また初参加の若い人、いままでこうした全体の感話会で発言したことのない若い方の発言もあって、そのような個人的なことをも参加者を信頼して打ち明けるということのなかに、主がこの聖書集会のなかにいて下さって導かれているのを感じることができた。
この瀬棚聖書集会は、一九七四年に始まったので、今回で三五回となる。
酪農をしているひとたちを主体としたこの夏の聖書集会は、キリスト教横浜集会の野中正喜・智子ご夫妻の息子さん(野中 正孝さん)が、瀬棚で酪農を始めたとき、智子さんが何とかそこで生まれた子供たちの前途のために、神の言葉が教えられるようにとの願いをもっておられ、瀬棚の地で聖書集会が開かれるようにと祈りを強めておられた。
その結果が瀬棚聖書講習会が生まれることになり、その講師として、キリスト教横浜集会の責任者であった堤道雄は最初からの聖書講話の講師として参加し、以後二七年間にわたって毎年北海道という遠い地へ出かけられたのであった。
堤 道雄が最後に瀬棚聖書講習会に参加したのは、二〇〇一年七月である。そしてその翌年は、山形のキリスト教独立学園の桝本華子さんが講師として瀬棚に来られ、その翌年から私(吉村)が聖書講話の講師として出向くようになった。
堤 道雄は二〇〇五年一〇月に召されたので、死の四年前まで、衰えた体力のゆえ足の動きも弱くなった体で遠い北海道まで聖書の真理を語るために出向いておられた。
私が六年近く前に、瀬棚聖書集会での聖書講話の依頼があったとき、そうした集会のことは何もしらなかった。
しかし、調べてみると、その依頼をしてこられた西川 譲さんは、私どもの徳島のキリスト集会の礼拝の録音テープを以前からずっと聞いておられた、静岡市の西川こと姉(故人)の孫であることがわかった。
西川ことさんは、私が送付していた「はこ舟」誌(現在の「いのちの水」誌)について、毎月必ず郵便振替に小さな字で感想やお礼などを通信欄一杯にていねいに書かれて協力費をきちんと送られる方であった。西川姉の病気がかなり重くなってからのことであるが、私が静岡県に出向いたおり、清水市に聖書講話をする機会があったが、そのときには、会場の二階まで、四人のひとたちに車椅子をかついでもらって参加された。本来ならとてもそのような集会に参加できる状態ではなかったと思われたが、内にうながす力によって参加されたのであった。その後、西川姉はあまり長くない日々の後に天に帰られたのであった。
さらに、その二〇〇一年まで瀬棚聖書集会の事務局担当(責任者)をしていたのが、野中正孝さんであったが、その野中さんのご父君 正喜さんもまた、横浜のキリスト集会員で、私どもの集会のテープを聞いておられた方で、お手紙も何度もいただいていた。
そのような関わりがずっとあったその方々の息子や孫にあたる方々が運営していた聖書集会に、思いがけず参加するようになったことも不思議な導きである。
さらに、私の前に二七年もの間、横浜から北海道の瀬棚まで毎年の夏に出向かれていた堤 道雄が、最初にはっきりとした伝道の出発をしたのが、徳島の地であった。
堤が以後四八年間、「真理」という伝道のための印刷物を発行し続けたが、その第一号は徳島の地で出されたものであった。
ここで、瀬棚の聖書講習会の講師として長い年月にわたってみ言葉を伝えてきた堤の生きた跡を少したどってみよう。
一九四一年に早稲田大学を卒業後、一九四二年に召集され、二年半をミャンマー沖のインド領のアンダマン群島にて陸軍将校として過ごす。復員後、静岡藤枝の小学校、中学で教師。
・1年ほどで止めて、一九四七年 夏 浜松の戦災孤児収容所で働いていた。
・一九四八年一月 徳島の救護院(感化院)に移った。ここで、日曜学校を行った。それは県立の施設であったから注意されたが止めなかったので、解雇されたようになった。なお、この救護院は、徳島出身の賀川豊彦の関係する県の救護事業の一つであった。
・一九四九年六月 徳島無教会主義聖書研究会を立ち上げた。
・一九五〇年 「真理」創刊
・一九五一年(三三歳) 横浜に帰って 横浜聖書研究会をはじめる。(「真理に導かれて」堤道雄先生追悼文集 による)
堤の歩んだあとをふりかえると、若き日に太平洋戦争に加わり、後に戦争が聖書の真理に根本的に反することを深く知らされ、十字架の福音を伝えることを中心としつつ、平和主義をも重視して出発し、そのまま生涯変ることなく走り続けた人であった。(この点では、静岡県浜松にて、長く福音伝道と平和主義を強調し続けて、先年召された浜松聖書集会の代表者、溝口正と似たところがある。)
福音伝道においては、とくにごく普通の人、病人など弱き人をとくに重視してわかりやすい言葉で福音を伝えているのがうかがえる。
瀬棚で酪農などをしている人にはキリスト教独立学園の卒業生が多く集まっていることを前述したが、その独立学園は一九三四年にその最初の出発をしているからもう七〇年以上の歴史をもっている。それゆえその卒業生は各地に広く活躍しているであろうし、独立学園にかかわる多くの方々が日本にはいる。
徳島からは、独立学園に入学した生徒はだれもいない。四国の他県からも独立学園に進学した人はごく少ないだろう。そのために関わりは薄かった。
それにもかかわらず、私が独立学園の卒業生が多く集まっている北海道の瀬棚という遠いところに行くようになったのは、人間の思いを超えた神の導きを感じずにはいられない。
堤 道雄はこのキリスト教独立学園においても一九七〇年から二八年間にもわたって、とくに二月十一日の建国記念日に、憲法や平和問題、キリスト教信仰との関わりなどを生徒たちに語り続けた。(独立学園では建国記念日の制定が間違っていることを示すために、毎年登校日として講師を呼んで話しを聞くということになっていた。)
堤が北海道の瀬棚に聖書講話のために行くようになったのは、この独立学園への毎年の講話がはじめられた数年後であり、その延長上にあったといえよう。それは神が備えられた道すじなのであったという気がする。
堤 道雄の歩んだ跡を見てすぐに気付くのは彼の敗戦後の生涯は、キリストの福音伝道ということに深く根を降ろしていたということである。戦後の混乱期にあって彼の魂の根底にあったのは、彼に戦争の決定的な悪魔性を教えた聖書、そして内村鑑三の信仰にあった。普通の公立学校の教員を辞めてまでして浜松の戦災孤児収容所で働いたとか、その延長上にある家庭を失った子供たちへの救護施設に赴任するために、はるばる徳島まで誰も知る人もないのに移って来られたということ、そのことのなかに、まず弱いひとたち、無視されているひとたちへの配慮をもって行動に移した姿がみられる。それは彼の内に生きて働くキリストがそのように導いたのであろう。
そして慣れない地で、結婚してまもない状況であるにもかかわらず、徳島の少数の無教会のキリスト者たちに働きかけて、一つの集会として立ち上げたということ、そしてわずか数年の徳島滞在のときに三二歳のときに、伝道のための定期的印刷物「真理」という冊子を発行することを決断され、横浜に帰っても、すぐに横浜聖書研究会をつくってみ言葉を伝える基地としての集会の基礎をつくられた。
今年の五月に徳島で行われた無教会の全国集会も二二回目となった。この全国集会も堤道雄の伝道にかかわる深い主にある情熱からその着想が生まれ、提案されたものであった。
北海道の瀬棚の聖書集会、また全国集会なども堤 道雄に示された道を私どももまた歩ませていただいているのであって、六〇年ほども前に堤 道雄が徳島にて伝道の働きをはじめられたことの道の延長上にあるといえよう。
全国集会が開かれるようになった理由はいろいろあるが、次のことは重要である。
無教会には組織を作らないというのが自明のあり方のようになっていて、全国でどこにどのような無教会のキリスト教集会があるのかさえ、分からない。それで、県外に進学や就職で出た人にその地の集会を知らせることもできない、という状況であった。このようなことでは、せっかくの信仰も消えていくことになりかねない。そのために、横のつながりをも活性化して、互いに主にある交流をし、あらたな力をそれぞれが与えられ、それが福音伝道に寄与するようにという願いがあった。
これは、福音伝道ということを真剣に考えるならば、そして自分のところから別の府県に転勤、進学などする人がいるときには、その人にせっかく根付いた信仰を強め、さらに成長させるためには不可欠のことであるはずである。
キリストを信じる人たちの集まり(教会、集会)(*)は、「キリストのからだ」であると聖書に書かれているほど、重要なものである。そしてそのキリストの集会は単に自分の所属している小さな集まりだけがキリストのからだでなく、キリストを信じる人たちはどこの国の人でも本来はキリストのからだなのであるから、なるべく多くのキリスト者たちが互いに祈り合い、覚え合うのは重要なことである。(*

*)教会という言葉の原語(ギリシャ語)は、エクレシアという。これは中国で「教会」と訳され、それがそのまま日本語聖書にも取り入れられたが、エクレシアという原語には建物という意味はなく、「呼びだされた者の集まり」(集会)といった意味である。

堤 道雄の歩みを見ると、その行く先々で常に福音を伝えるということが彼の行動の中核にあったのがわかる。
キリスト教独立学園に彼が聖書の真理を伝えたいという願いがあり、学園の教師たちもその願いを共有し、そこから堤道雄と独立学園との深い関わりが生まれた。そして彼が学園に毎年行くようになった。そして北海道・瀬棚の聖書講習会はその四年後に始まっている。このように、福音を伝えようとする真剣な思いは、主によって導かれ、それはだれも予想したことのないような道筋をとって導かれていく。
そして堤 道雄の福音伝道のための働きのうち、ここに書いたのは、瀬棚に関するその一部にすぎない。
「収穫は多い、しかし働き人が少ない。」という主イエスの言葉が思いだされる。
福音は伝えられねばならない。今日の日本にあって最も必要なのはこのキリストの福音である。主イエスが教えたままのその教えである。神を愛し、隣人を愛するということ、それは活けるキリストに導かれ、その愛を受けてはじめて実行することができる。 そして、そうした愛や導きをもたらす聖なる霊を受けることである。
非戦とか憲法九条の平和主義ということも、この神を愛し、隣人を愛するということを本当に真剣に受け止めるとき、おのずから生まれる結果である。真理と慈しみの神、神のひとり子を十字架にかけて、死に渡されてまで人を愛してくださった神を愛するならどうして他国の無数の人たちを殺傷するような戦争を認めることができようか。
また、主イエスは、敵を愛し、迫害するもののために祈れ、肉体を殺して、魂を滅ぼすことのできないものを恐れるな。魂を滅ぼすことのできる神のみを恐れよ、と言われた。この教えに従うときにどうして他国の本来関わりもない人たちを攻撃して殺したりすることを認められようか。
それゆえにこそ、現代のような混乱した時代、おそらくますますその傾向が強められる状況にあって、それぞれの人が、その人の置かれた場においてなす聖書とキリストの真理を伝える福音伝道こそは、大いなる祝福の道であり、まただれにでも開かれた道なのである。
福音伝道に生きた堤道雄はさまざまのところに遣わされたが、その一つが北海道・瀬棚の地であった。彼はそこで神の言葉を語り続けた。そしてそのような集まりのはじまりには、前記したさまざまの人たちの祈りや働きがあった。
そして、この集会は祝福され、神によって守られ、導かれてきたゆえに、現在も続けられている。
神はこれからも、福音のための働き人を各地に起こし続けられるであろうし、そこでまた新たな集会が生まれ、キリストの命は流れていくのである。


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