闇と風の湖上をも 2008/9
私たちがこの世のさまざまの困難や希望を失うような事態に直面して、そこから助けのないと思われる状況に陥ることがある。だれもこの困難にはどうすることもできない、助けも与えられない。医学も科学技術も人間も、どんなこともこの苦しい状況を解決できない、そのような事態に陥っている人達はたくさんいると思われる。ただその苦しみがあまりにも重く、深いためにだれにもいえず、またそうした人はたいてい孤独であって訴える相手もいないことが多い。
そのような状況にあっても、ただ主イエスだけは、近づいてきて下さる。
それが、海(湖)の上を歩いて弟子たちのところに来られたという記事の意味することである。
夜通し主イエスは山に登って一人祈りを続けられた。マタイ福音書によれば、その夜を徹した深い祈りのあとで、海の上を歩いて弟子たちを助けに行くという記述が続いている。(マタイ福音書十四・22~33)
弟子たちは逆風のために深夜の大きな湖の上をどうしても目的地にいけずに苦しんでいた。しかし、イエスだけは、どんな風があっても、海のような湖であっても、ふつうなら決して行けないところでも行くことができる。
主イエスの夜通し続けられた祈りのあとに、この湖の上を歩いた記事があるのも、このような祈りをもって私たちの闇に近づいて下さろうとしているのを暗示している。
人々は、病気や孤独、あるいは罪のなやみ、職業上での苦しみ等々、私たちを苦しめ、悩ませる数々のことを持っている。人間は相手のその苦しみの心のただなかには入っていくことができない。
しかし、主イエスは闇の波立つ海の上でも歩んで弟子たちのところに行き、船に乗り込むことができた。そうするとたちまち風は静まり、波もおさまっていった。
イエスが処刑された三日後、弟子たちは部屋に鍵を閉めて閉じこもっていた。しかし、イエスは入って来られ、彼らの真ん中に立って、「あなた方に平和があるように。」と言われた。(ヨハネ福音書二十・19)
このことも、イエスはいかに人間が入れないところであっても、驚くべきことに入っていくことができるということを示している。