終わることのない讃美 2008/9
現在の日本では、神を賛美するということは実に分かりにくいことである。キリスト者は一%にも満たないという。万物の創造者としての神とキリストを信じない人達が九九%を占めているとすれば、その神に讃美するということはさらに不可解なことになる。これだけ世界に不合理なことが生じているのに、どうして神がいるといえるのか、その神に讃美などいかにしてできるのか、と多くの人は考える。
見える世界をいくらみつめても、そのような万物を創造した神、しかも愛と真実の神がおられるなどということは分からな
い。私自身も学校教育をいくら受けても全くそうした神に近づくこともなかった。
私が神のことをじっさいにおられると実感し、キリストの過去の人物でなく、人間を超えた神のごとき存在であるということが分かったのは、考えた結果でなく、不思議な力で受け入れるように導かれたからであった。
そうして自分の魂のうちに、神の存在を感じ、キリストの愛を知るようになって、はじめて神を賛美するということが分かってきた。
そして神に感謝し、その愛のみわざと万能をたたえるということははるかな昔からなされてきたことだと分かった。
さらにそのような讃美がつねになされている世界があるということも。
黙示録に次のような記事がある。
…天が開け、そこに神がおられるのが示された。そしてその神のまわりに四つの生きた天使的存在がいた。この四つのものには、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
全能者である神、主、
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(黙示録四・8より)
神のまわりにいた天使的存在が、夜も昼も絶えることなく、神への讃美を歌っているということ、そしてその生き物は翼があり、そこには一面に目があったという。それはこの天使的存在が、自由自在であり、すべてを見通す力を与えられていたことを示している。(翼と目がそれを表す)
ことに特徴的なのは、神に対して、いかなるものにも汚されず、動かされない永遠の存在であることを、「聖、聖、聖、」という三度の繰り返しで表していることである。いかにこの世が悪がはびこり、迫害のさなかであろうとも、霊的に神に引き上げられた魂は、そのような永遠の讃美を聞き取ることができたのであった。
そして、その神は、永遠の昔から存在し、今もおられて導き、悪をさばき、従うものにめぐみを与え、さらに時至れば、悪を(悪人でなく)根底から滅ぼす力を発揮される、ということがありありと示されたのである。
いかに雲が厚く地上を覆っていても、その上方には太陽が輝き続けている。同様に、いかにこの世が混乱し闇の力が覆うように見えても、それは一時的、表面的なことにすぎない。あくまで天の世界では神の聖なる存在は力をもって存在し続けている。
自然のさまざまの現象はそうした天の国の聖なる讃美を指し示すものとして創造されている側面がある。秋になると空はひときわ青く澄み、雲の白さも清く、草むらの虫の歌も聖なる讃美である。
秋の野山に咲き始める野草たちもまた地上の汚れに染むことなく、何千年となく咲き続けている。そうしてこの黙示録にあるような神への讃美へと見る者をつねにうながしているのである。