リストボタン忍耐と慰めの神    2008/10

人間はだれでも目には見えないものを感じることができる。神など信じないという人でも、心があるということはまず疑ったりしないだろう。心というのは目には見えないが、だれもその存在を知っている。
しかし、神の存在は単に目に見えないというだけで、信じないという人が非常に多い。
また信じるという人でも、例えば神社に行ってそこで祀られているとされている「神」とはどんなものだと想像しているだろうか。私も唯一の創造主たる神を知らないときには、神などというもの自体に全く関心もなく、神の性質なども考えたこともなかった。
しかし、聖書には実にはっきりと神の御性質が記されている。
旧約聖書のモーセの生きた姿が記されている出エジプト記には、聖書で最もはっきりと書いてある最初の箇所であると言えよう。

主は彼(モーセ)の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、真実との豊かなる神、(出エジプト記三四・6

このように、神の本質が憐れみにあること、慈しみと真実であることが、このように旧約聖書のはやい段階から記されている。そしてこの神の本質はそれ以後ずっと数千年にわたって変ることはなかった。
新約聖書では、神は赦しを与える神であり、それゆえに愛の神であること繰り返し強調されている。
そしてそれ以外に次のように、とくに忍耐の神、慰めの神、希望の神であることを述べている。
忍耐の神とはどういうことか、(新共同訳では原文にない「源」という語を補足して、「忍耐の源である神」と訳している。)
ここで忍耐と訳されている原語(ギリシャ語)は、ヒュポモネー である。忍耐というと、日本語の辞書では、「じっと我慢すること」という説明が付けられている。忍耐と希望とは別のことである。
しかし、ギリシャ語のヒュポモネーという語は、旧約聖書のギリシャ語訳聖書(70人訳)では次のような箇所にも用いられている。

・貧しい人の希望は決して失われない。(詩編九・19
・主よ、私は何に望みをかけたらよいのか(詩編三九・8
・主よ、あなたは私の希望。(詩編七一・5

これらの「希望」と訳された箇所のギリシャ語訳はみな、ヒュポモネーという言葉なのである。このように、忍耐と訳されるヒュポモネーという語は、また希望という意味をも合わせ持っているのがうかがえる。すなわち、聖書の民においては、忍耐とは、単なる我慢とかあきらめの気持で耐えることとは全くことなり、希望を持って耐えることなのである。
どんな困難であっても必ず主は知ってくださっている。導いてくださっていると希望をもって信じ続けることである。
ローマ帝国時代の長い迫害の時代に、見せしめのために大競技場で裸にされて猛獣の餌食にされたり、暗く不潔な牢での長い生活など、到底耐えられないと思われるような苦しい目に遭わされた人たちがいる。彼らの魂は、キリストからの愛の励ましの声を聞き取り、神の力をもいただいていたのだと思われる。
キリストのためにみずから命をも危険にさらし、遂にはとらえられて殺されてしまう。そこにも彼らの忍耐が最高度に発揮された。その忍耐こそ、希望の伴ったものであり、だからこそ、そのような恐ろしい苦しみにも打ち負かされなかったのであろう。
主にあっては、忍耐とは希望であり、希望とはまた忍耐にそのまま結びついているのである。
次にパウロは神のことを、慰めの神と言っている。「慰め」と訳された原語は、パラクレーシス であって、この語は、「勇気づける、励ます」といった意味も持っている。このため、英語訳では、次のように、encouragement(勇気づけ
、励まし) を用いているのも多い。

May the God who gives endurance and encouragement give you a spirit of unity among yourselves…
New International Version

この場合も、日本語の「慰める」というのと、「勇気づける、励ます」とはニュアンスが相当違っている。原語ではこの二つの意味があるときは別々にまたあるときは重ね合わせられ、融合させたかたちで用いられている。
聖書における慰めは単に、いわば悲しむ者の頭をなでて一時的にほっとさせるようなことだけでなく、さらに新しい力を与え、立ち上がらせ、勇気づけ、また励ますといった意味を持っているのである。
この、慰める、励ます、勇気づけると訳される、パラカレオーという言葉は、有名な山上の教えにおいて現れる。

ああ幸いだ、悲しむ者は。その人たちは慰められるから。
(マタイ福音書五・5

ここでも、悲しむ者は、慰められ、また新たな力を与えられ、励まされ、勇気づけられるということが読み取れる。
旧約聖書においてもこうした忍耐を与え、慰めと励ましを与える神の姿は随所に見られる。
詩編とはそのような忍耐をもって待ち望む魂が神からの慰めと励ましを与えられる事実を詳しく記した書物となっている。
この世にはいつの時代にも、人の心を萎えさせる出来事が満ちている。信仰を持っていてもなお、この世の予想していなかった力の強さに動揺させられることもある。
そうした現実のなかにあって、私たちがたえず必要としているのは、その現実に打ち倒されない力であり、人間を超えたところからの慰めと励ましである。
主イエスの「求めよ、そうすれば与えられる」という約束は、こうしたことにもあてはまるゆえに私たちはどこまでも希望をもって待ち続けていきたいと思う。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。