皇帝のものは皇帝に、神のものは神に 2008/10
現代の私たちには、このような言葉は一見無関係のように見える。皇帝(*)というような用語ははるか過去の外国のものとみなされて話題にもならないからである。聖書にはこうした初めての読者には親しみにくい言葉や内容が多くある。二千年、あるいはそれよりまだはるかに昔の遠い外国の書物であるからこれは当然のことである。
現代の私たちにはつねに、今の私たちにはどのような意味があるのか、この言葉を通して神は私たちに何を語りかけておられるのかと考える必要がある。
(*)この言葉が現れる箇所はルカ福音書二〇・25他であるが、口語訳や新改訳では「カイザル」と訳している。原語は、カイサルであり、もともと、ユリウス・カエサルというローマの軍人であり政治家であった者の名(姓)であったが、彼は帝政ローマへの道を開いた重要人物であったため、カエサルという語が、皇帝そのものを意味するようにもなった。
神のものを神に返そうとすることを、ユダヤ人たちは熱心に追求していたと言えるだろう。旧約聖書はまさにそのことを内容としている。アブラハムのように、住み慣れた郷里や親族を捨てて、神の示すところへと神の言葉に従って未知の遠くの地域へと出かけていくことも、神に属する忠誠心を神に返すという行動であった。
モーセが神から受けた十戒を中心とする神の言葉も、人間のものを人間に返すことしか知らない一般の人々に対して、神のものを神に返すその道を指し示すものであったと言えよう。
例えば、神だけを拝する、偶像礼拝をしないということは、真実な心をもってなされる礼拝を唯一の本当の神に返すということである。また、安息日を守るということは、神が特別に祝福した日をふつうの労働をせずに、神への礼拝の日とすることによって神に返すことであり、それが祝福を受ける源となることを約束したものである。
人を殺すな、という戒めも、人の命は神のものであるから、神のものを人間が奪い取ってはいけないということである。そして命を神に返すとは、神のために与えられた命を使うことである。自分の命も他人の命をも大切にし、重要な使命があって神から命が託されていると信じることである。
預言者というのは、人々が唯一の神のことを知っていながら、その神に従おうとしない人々に、神の言葉を示し、彼らがいかに正しい道から離れているかを示す働きをする人たちである。言い換えると、神のものを神に返すようにと命がけで語り続けていった人たちである。
しかし、当時の人々は預言者の警告を受けいれようとしなかった。それは、神のものを神に返そうとしなかったからである。
主イエスはローマ皇帝に税を納めるべきかどうかという問いかけに対して、「皇帝のものは皇帝に返せ。神のものは神に返せ」と言われた。しかし、世界の歴史において一般の大多数の人たちは、皇帝(支配者)のものとして強制的に税を取り立てられた。そこには選択の余地はなかった。
日本においても、例えば江戸時代には三大飢饉といわれるものがあり、そのうち、天明の大飢饉は一七八三年頃から五年ほどもの長い間にわたって続いたため、特に東北地方は大冷害に襲われて、食物の生産がわずかしかできず、野山の草の根、小動物など何でも食べたというがそれでもたくさんの人たちが飢え死にし、道端にもたくさんの死者がそのまま放置されるという惨状となり、全国の死者は七〇万人とも言われている。
このように激しい飢饉になっても藩主は年貢を厳しく取り立てた例が多くあったという。村の人口が三〇〇人あまりのところでは、餓死した人が一〇五人に及び、三分の一が餓死したという状況であった。
このように、税は現在の私たちには考えられないほど厳しいものとなっていた。それで村を逃げ出したり、厳罰を受けるのを覚悟で百姓一揆を起こしたりすることもあった。
皇帝のものは皇帝にと、支配者は民衆から強引に奪い取るというのが多く見られた。
こうした状況にあって、神のものを神に返すということ自体が忘れ去られて、生きることに精一杯という人々も多かったであろう。
それでも、神のものを神に返すという人たちはどんな時代や状況にあっても次々と起こされてきた。残酷な迫害を受けることが分かっていても、なおキリストへの信仰をはっきりと表明し、主イエスがさきに歩まれた後をたどり、みずからの命を神に捧げて、神のものを神に返す人たちが現れたのであった。
現代においてもさまざまの形で、「皇帝のものを皇帝に」差し出すようにと命じられる。各種の税金がそうである。そのような強制に慣れてしまったので、本来神のかたちとして造られたゆえに与えられている真実や愛、清い心などもこの世の力に打ち倒されて神に返すことができなくなってしまっている。
現在の日本でも、長時間の労働というものを会社に命じられて行っているが、その苦しさや忙しさのために、神のものを神に返すことをも失っていくことが多い。
主イエスは、「皇帝のものを皇帝に返し、神のものを神に返す」ということにおいて完全な模範を示された。逮捕されるときも全く抵抗せず、人間のもの、人間が支配しようとするものはその支配に任せ、命を奪おうとするほどのことにも抵抗しなかった。肉体は人間が支配できる。税金を納めよ、ということよりはるかに困難なのは、命を出せ、ということである。それをもそのまま差し出された。
しかし、神のもの、神への真実は徹底して守り、神に捧げた。神の深い御計画に従って、イエスは国の指導者たちに渡され、捕らえられ苦しめられついに十字架にかけられるという道を歩まれた。それは徹底して神のものを神に返すという姿であった。
神のものを神に返すために、権威者が認めていることであっても、それに従わないことも生じる。例えば神殿で商人たちが利得の場としていたが、そのことに対して主イエスは商人たちを追いだし、両替人の机を押し倒すなど、厳しい行動をされた。
…そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。(マタイ二一・13~14)
神殿とは人々の信仰の中心の場である。それは神に罪の赦しを願い、またそこから神からの赦しと祝福を与えられ、神との関係を正しくし、神に聞き従う道を歩むための場である。そうしたことを祈りによってなすところである。祈りこそは神のものを神に返すことなのであるが、人々や宗教的指導者たちはそのことが全く分からなくなっていたのである。それほどに、神のものを神に返すということは、宗教的施設のただなかにおいてもなされないことがある。
職場にあっても、神のものを神に返すということをはっきりさせているとき、地位は上がらないことが多い。どんな職場にも不正はある。宴会や日常的に行われている勤務後の酒席などを、神のものを返そうとするために時間や金が無駄だからと参加しないと出世はできない。地位をどうするかは人間のものだから、人間に返す、上司の言うままに従う。しかし、神への真実を保ち続けるということである。
その場合でも、もしそうした上司への憎しみとか軽蔑があるなら、それは神のものを神に返したことにはならない。敵をも愛し、迫害するもののためにも祈ることがなされて初めて神のものを神に返したことになるからである。
左の頬を打たれたら、右の頬をも向けよ、ということは、人間的なものを人間に返すということである。そうすることによって神への忠誠を神に返すのであった。
殉教ということは、徹底してこの人間のもの(人間の支配のうちにあるもの)を人間に返す(自由にさせる)、しかし、神のものである神への真実は徹底的に返す(守る)ということの例である。
私たちは、日曜日の主日礼拝、これは神のものを神に返そうとすることである。私自身、学校勤務であったとき、人間の命令として出勤せよと言われた。しかし、神のものを神に返すということから、日曜日の出勤は休みをとってしなかった。
どこから先が神のものを神に返すことになるのか、一人一人がその人の信仰によって、神からの示しによって決断していくことなのである。
何らかの犠牲なくして、神のものを神に返すことはできないことが多い。収入の一〇分の一を神に捧げるということも、神のものを神に返す象徴的行為である。
私たちは日頃、これは自分のもの、あれは○○さんのものといった考え方に慣れきっている。神のものなのだ、というような発想それ自体が日本人にはきわめて少ない。神などいないと思っているのだからこれは当然のことだろう。
しかし、唯一の神がおられ、その神が万物を創造し、いまも支えておられるという信仰に立つときには、すべてが神のものなのだということになる。能力にしても健康や賃金、友達、家庭等々もみな自分の持ち物でなく、神のものであり、神から個々の人に委ねられているのにすぎない。
それゆえに、私たちが日頃の生活で与えられたものを神に返すという考え方をつねに持ち続けているとき、その姿勢は神に祝福されて、最終的にはすべての神に属するよきものが与えられるということが示される。それは次の驚くべき約束が示すとおりである。
…パウロも、アポロも、ケパも(*)、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。
そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。(Ⅰコリント三・22~23)
(*)アポロは、キリスト信仰を熱心に伝えたユダヤ人。イエスこそは神の子であり、メシアであると熱弁を振るってユダヤ人たちにイエスのことを証しした。ケパとは、アラム語で「岩」の意。使徒ペテロのこと。
皇帝(支配者)のものを皇帝に返し、神のものを神に返してしまったら、自分に何が残るのか、という疑問が生じる人たちも多いであろう。じっさい、迫害の時代には、自分の財産も奪われ、家庭も破壊され、自分の命すら奪われていった人も多数あった。しかしそうした人たちは、まさにここで言われているように、あらゆるよきものが与えられてその人たちのものとされているのだと言えよう。目に見える物ならば、返してしまったらなくなってしまう。しかし、神のものを神に返そうとすることによって、いっそう新たな神のものが与えられていくのである。
そしてキリストの栄光のすがたに変えられる復活のときには、あらゆる神の国の豊かさで満たされるようになることが約束されている。