リストボタン新首相の問題点    2008/10

一年も経たないうちに、首相が二回も途中で職責を放棄したという世界的にも失笑をかうような出来事があった。今度の首相は、以前からいろいろと問題発言を繰り返してきた。
以前、外相のときの発言で 富山県高岡市での講演で、日本の米一俵が中国で一万円ほど高く売られているとして、

「どっちが高いか。アルツハイマーの人でも分かる。」と述べた。(二〇〇七年七月)

これは、この病気の人たちや家族の苦しみを全く考えないで見下すような発言であった。
また、朝鮮半島を日本が植民地にしていたとき、日本が植民地支配のため、朝鮮人に日本式の姓名への改名を強制したことがある。(創氏改名)これは、朝鮮人をも日本の天皇の民にしていく一環として一九三九年公布された。
そのことに関しても、

「(朝鮮人が)名字をくれと言ったのがはじまりだ」

というような、歴史的な事実を無視した主張をしたことがある。日本の支配下となってしまったゆえに、そこで出世などするためのように、日本の支配に媚びるために希望したような一部の人間がいたこともあろうが、大多数は自分の名前をわざわざ日本人の名に変えるなどということを強く拒んだのである。
こんなことは、私たちが、例えば朝鮮半島にある国が攻めてきて、名前をその民族風に金○○とか朴○○とせよ、などと命じられて、一体だれが喜んで変えるであろうか。こんなことは考えたらすぐにわかることである。
ここにも、弱者の立場にたって考えようとしない傾向を見ることができる。

また次のような発言がある。
「独断と偏見かもしれないが、私は金持ちのユダヤ人が住みたくなる国が一番いい国だと思っている」 (二〇〇一年四月)

これは、党の総裁選での講演での言葉だが、ユダヤ人を金持ちの代表のようにみなす姿勢がまず問題である。ユダヤ人のさまざまの苦難の歩みをまったく無視するような語感がある。しかもその金持ちが住みたくなるようなのが一番いい国だというのだから、驚かされる。
また先日の所信表明演説で、「国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第九十二代内閣総理大臣に就任いたしました」と言った。「かしこくも」とは、おそれ多いということで、天皇の名と印をいただいたことがおそれ多いというように受け取れる。
これはで、国会という国民の代表で決まったことであるにもかかわらず、主権者は国民であるということを軽視して、あたかも天皇の権威によって任命されたかのような言い方である。(御名御璽とは、天皇の名と公印を意味する)
また、かつて幹事長もした自民党の野中広務が被差別部落出身であるということで、「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と差別的発言をしたということが、「野中広務 差別と権力」魚住 昭著(講談社文庫) という本のなかで指摘されている。
ニューヨークタイムズは、ワシントン・ポストと並んで、アメリカを代表する新聞と見なされている。
その九月二四日付の社説で、麻生太郎について次のように書かれている。(原文を添えておく)

日本の新しい総理大臣である麻生太郎は日本の近隣の国々において、けんか好きの国家主義者として広く知られている。彼はそうした国々において好感をもって記憶されていない。
二〇〇五年~二〇〇七年、外相として、麻生氏は中国や韓国との関係を難しいものにして近隣の国々との間に不安(緊張)をもたらした。それは、彼が戦前の日本の植民政策がなしたことを賛美し、戦時中の残虐行為を正当化し、中国を危険な軍事脅威であるとしたからであった。

Published: September 24, 2008

Japan’s new prime minister, Taro Aso, is well known ― and not fondly remembered ― by Japan’s neighbors as a pugnacious nationalist. As foreign minister from 2005 to 2007, Mr. Aso soured relations with China and South Korea and raised tensions throughout the region, praising the achievements of prewar Japanese colonialism, justifying wartime atrocities and portraying China as a dangerous military threat.

このように外国から批判されるほど、かつての太平洋戦争のときの侵略や大規模の破壊、殺戮などの罪深さを認めるどころかそれを肯定するような考えを持っているのである。こうした態度は、自分が犯した罪の悔い改めを第一に重んじるキリスト教的な発想とは基本的に異なるものである。
何事においても、間違ったことをすればそれを認めて謝罪することこそ真の出発点に立つということであるが、これはごく常識的なことであり、当然のことである。
ところがそうした正しい出発点に立とうとしない人であるからこそ、首相は就任直後にも、集団的自衛権の行使を禁じた憲法解釈について「基本的に変えるべきものだ。」と主張した。
この、集団的自衛権は憲法上認められないという従来からの解釈を変えて、日本を戦争が公然とできる国にしようということ、この憲法解釈見直しは安倍晋三元首相が表明したものであったが、今度の首相もそれと同一である。
集団的自衛権を行使するとは、具体的に言えば、アメリカがどこかの国と戦争を始めるとき、日本も同じようにそのアメリカの戦争に加わるということである。
これは自衛ということとは全くことなる問題で、アメリカが日本とは関係のない遠い国と戦争をはじめても、日本はそれに加わって自衛艦や爆撃機を送り出して戦争状態に入ることになる。
このようなことは、憲法九条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という規定と明らかに相容れないから、政府も従来からずっと、集団的自衛権の行使は憲法上許されないと表明してきたのである。
しかし、それをまず壊していく道が、小渕内閣のときのガイドライン法が多くの人々の反対を押し切って作られたことによって始まった。これは、アメリカの起こした戦争であっても自衛隊を派遣するという法律であり、それによって現在のようにインド洋での給油活動がなされ、派兵もされるようになった。
しかし、憲法九条の制約のために積極的な戦争行為ができず、給油活動のようなことしかできないから、それを普通の戦争ができるようにしようというのが、安倍元首相の言い出した憲法九条の解釈を変えるという目的であり、今度の麻生首相もそのことを鮮明にしている。
このようなことが行われるなら、憲法九条があるにもかかわらず、アメリカの戦争に加わって泥沼に入るという可能性が大きく高まってくる。
私たちは聖書の精神がそこに流れ込んでいるゆえに、憲法九条の平和精神を変えないように選挙とかにおいても十分考える必要がある。


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