献げる心 2008/11
福音書のなかに、金持ちと、夫を亡くした女が献金をしている状況についての主イエスの言葉がある。
…イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(ルカ福音書二一・1~4)
この短い箇所で、主イエスは私たちの気づかないところを鋭く見るお方であることが示されている。貧しいやもめとは、とくに弱者として旧約聖書でも記されている。昔は夫が死んでしまうと生活そのものができなくなる。女性が働くという場所がなかったからである。とくに子供が小さいときには、子供も生活費を稼ぐことができない。孤児と寄留者、そしてやもめはとくに保護者のない弱い立場の者として聖書でもあげられている。
…あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。(申命記十・18)
現代では一人で女性が働いている人はいくらでもいるから、聖書におけるように、寡婦一人というのが孤児と同じように社会的に最も弱い状況にあるという状況ではない。聖書を読むときにはその当時の状況にさかのぼって考えなければこの箇所にある主イエスのお心もまた私たちには伝わってこないものとなる。
主イエスは、ふつうの人間が見えていないものを、見つめることができるお方である。夫を亡くした貧しい一人の女の神殿での、このようなささやかな行動をとくに見つめておられる。
このやもめは、まさか自分のことをイエスがじっと見つめているとは思ってもみなかったであろう。イエスは、たった一匹の失なわれた羊をもじっと見つめ、ただ見るだけでなく、探しまわり連れ帰ってくださるお方である。
どういうことが真の幸いであるか、そのことに関して言われた最も広く知られた言葉が、山上の教えである。それはそうした深いまなざしで真の幸いのありかを見ておられたからであった。
… ああ、幸いだ。心の貧しい者たちは!
天の国は彼らのものだからである。
ああ、幸いだ。悲しむ者たちは!
彼らは、(神よりの)励ましを与えられるからである。(マタイ五・3~4)
主イエスは、そうした天の国が与えられるのをはっきりと見ておられたからこのように確言することができた。
また、のどが渇いていたときに飲ませ、空腹のときに食べさせ、病人を見舞い、牢に入っている人を訪問し、貧しい人を助けた人に対して、それはキリストに対してなされたことだと言われている。
しかし、そのようなことをした人はその行為のことを全く思ってもいなかった。(マタイ二五・35~40)
弱く、小さな者たち、何らかの困窮にある人、またこの世からは見捨てられたような人たちになしたことは、主に対してなされたことだという。そのようなささやかな行為をも主は深いまなざしでじっと見ておられる。
また、つぎのようなことも記されている。
それは、ユダヤの国の北部にあるサマリア地方の女との対話のときであった。水を汲みにきたイエスが永遠に渇くことのないいのちの水について話された。彼女は、イエスのふしぎな力に魂が揺り動かされ、その水を私にも下さい、と願った。そのとき、イエスはその女と初対面であったにもかかわらず、その女が五人もの男と結婚していたこと、さらに現在一緒にいる男は夫ではない、ということまでも見抜かれた。(ヨハネ四・16~19)
いのちの水という最も祝福されたものを受け取るには、まず自分の罪を知り、そこから立ち返ることなくしては、与えられないということを示されたのである。
このように、神の力を与えられていたイエスは、ささやかな善きこと、罪深きことなど人間のあらゆることをも見抜かれ、小さきよきことをとくに見つめて祝福されるお方であった。
さらにそうした個人的なことだけでなく、世の動きも未来のことも見抜かれていた。エルサレムがまもなく攻撃され徹底的に破壊され、多くが殺され、残ったユダヤの人々は追放されてしまうことも。
そればかりか、世の終わりのことまでもすべてを洞察されていたのである。
こうした捧げ物をするやもめに関して、彼女は持っている生活費のすべてをだまって神に捧げたと言われている。すべての生活費を捧げてしまったら明日からどうするのか、とすぐに私たちは疑問に思う。この女はごくわずかであっても何らかの仕事をして一日の報酬を得ていたとも考えられる。それゆえにその日は持っていたすべてを捧げても明日はまた少ないが生活の費用を得ることができたのだと考えられる。
しかし、ここではそのような推察より重要なことがある。それは生活のすべてを捧げる、ということである。
旧約聖書から神への捧げ物は、収入の十分の一ということが記されてあり、新約聖書の時代にもそのことが大体踏襲され、現在の各地の教会も大体そのような基準が置かれているようである。
しかし、十分の一を捧げたからといって決して十分でない。もしその心に,自分は十分ささげている、しかし○○さんはささげていない、などと人を裁く心があったら、それはまったく捧げ物にはならない。すでにこのことは、主イエスが言われている。
…パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でなもないことを感謝します。
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。」
(ルカ十八章より)
神に捧げる心とは、自慢したり他を比べて見下すなどという心とは本質的に相容れない。捧げる心は、神から豊かなものをいただいているという実感からおのずから生じる心であって、多くを捧げられるということはすなわち、神から豊かな賜物をいただいているということの証しなのである。
その賜物は信仰と結びついているから、献げることができる心があるかどうかは信仰の一種のバロメータであるということも当然のことになる。
聖書に現れる初期の記事、ノアのはこ舟の内容は広く知られている。当時のまわりの人たちは罪深い生活をして悔い改めることもしなかったが、ノアだけは神に従う生活をしていた。そこで大いなる裁きが下り、ノアだけが家族とともに箱型の舟を作ってそこに逃れて救われた。長い大雨の結果一面の海となり、五カ月という長期にわたって水はその勢いを失わなかった。
そのような長い期間の水の上の漂流ののち、ようやく水がひいてノアたちははこ舟から降りることができた。そのときに最初にしたことは、何であっただろうか。それは、主のために祭壇を築いて捧げることであった。
そしてこのささげものをしようとする心は、神から大いなることをしていただいたゆえの自然の感謝の心がもとにあるのであって、単なる義務とか習慣といったものでなかった。
…ノアは、主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす捧げ物として祭壇の上にささげた。(創世記八・20)
また、アブラハムが神によって指し示された未知の遠い地に向かって旅立ち、長期の旅を経てようやく目的地についたときもまずしたことは、同様のことであった。
…主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創世記十二・7~8)
このように、ささげるということは創世記においてすでに重要なこととして記されている。これは旧約聖書の出エジプト記やレビ記などにさらに詳しく煩雑な規定となって捧げ物のことが記されている。
そしてキリストの時代となり、そうしたこまごまとした動物や穀物などのささげものに関する規定はすべて一掃され、すべては「神を愛し、隣人を愛せよ」という一言にまとめられることになった。これが本当のささげものなのである。神を愛すること、そこには当然自分の持っているすべてをささげようとする心が生まれるし、人を愛することは、神を愛することから必然的に伴うことである。神は愛であり、その愛をもって人間を造られたからである。
…兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマの信徒への手紙 十二・1)
ここで言われている自分の体(原語は ソーマ)とは、単に肉体としての体という意味でなく、心と体の双方を含めた自分の存在そのもののすべてをもって神にささげていくこと、これこそが礼拝であるし、本当のささげものの精神であるといわれている。
私たちにおいても、まず神からの一方的な恵みによって罪の赦しを与えられ、そこから感謝の心が生じ、そこから自然にささげていく心へと導かれていきたい。