神を愛するということ 2008/12
主イエスは最も大切なことは、神を愛すること、そして隣人を愛することだと言われた。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(*)
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ二二・37~39)
(*)心を尽くし、…を尽くし と訳されている原語は、「すべての心をもって、すべての精神をもって」ということであるから、ほとんどの英語訳でも次のように all を用いている。 You must love the Lord your God with all your heart, with all your soul,
and with all your mind.(NJB)
人間にとって何が最も大切なことであるのか、それを知らなかったら私たちは生涯を間違った方向に進んでしまう。
例えば、健康が最も大切なことであるとすると、たとえ人を傷つけたり盗みをするといった不正なことをしても、健康があればよい、というようなことにもなる。このようなことを考えるとすぐに分かることであるが、健康以上のものがあるということはすぐに分かることである。それは正義にかなうこと、真実であるということになる。
そして正義や真実を完全に包み込んだ完全な存在こそ、神であり、神を愛するとは、そうしたあらゆるよきものを内に持っておられる存在を愛することだということになる。
真理を愛する、ということは多くの場合、学問的な真理を愛するということを連想する。それゆえ大学とは真理の探求の場である、といわれてきた。
自然科学、文学、経済学、哲学、芸術学等々いろいろな分野がある。それらを専門的に学ぶことは、真理の探求であるということはたいていの人が分かっていることであろう。
しかし、神を愛するということは、学問的な真理を愛するということよりはるかに深く、広い。古い時代から、学問などまったくしたことのないごく普通の人々や奴隷たちであっても、現代のたくさんの学びをしている私たちよりはるかに神を真剣に愛して生き抜いた人、ときには命まで捨てていった人たちも多くいる。
聖書の中には神を愛するとはどのようなことであるか、私たちがふだん気付かないような広範囲の方面から記されている。
主イエスは、最も大切なのは、神を信じることだとは言われずに、神を愛することだと言われた。それは神への信仰が究極的なことでなく、神を愛することこそ、人間の究極的な姿であるからだ。そして神を愛するためには、神への信仰がその出発点となる。
神を愛することの重要性は、旧約聖書の最初から現れてくる。主イエスが言われたように、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛するという最も重要なことから人間ははずれてしまうということが最初から書かれている。
それはアダムとエバの記述である。アダムは、神から食べてはいけない、という命令を受けていたにもかかわらず、エバの誘いによってその戒めを破ってしまう。それは神を心を尽くし、精神を尽くして愛していなかったということを表している。エバがまずサタンの象徴的な存在であるヘビの誘惑に負けて、神よりもヘビの言葉を受けいれたが、それは神を心のすべてをもって愛するということからはずれてしまった結果であった。
人はだれでも、深く愛する者の言葉を守ろうとするからであり、ある人の心からの警告やいいつけを守らず簡単にそれを破るということは、その人への尊敬も愛をも持っていなかったというしるしとなる。
アダムとエバの最初の堕落、楽園からの追放とは、神への愛を失ったゆえである。
その後聖書に現れるアブラハムは、神から「私が示す地に行きなさい。」との言葉を受けて、慣れ親しんできた親族や土地、また親しい友人や郷里をも捨てて、神の言葉に従ってはるか遠くの未知の地へと旅立った。このことは、主イエスが言われたように、アブラハムの「すべての心、精神、魂」をもって神を愛していたがゆえの決断と行動であった。
全身全霊をもって愛するのでなければ、このようにすべてを捨てて未知の危険の多い旅へと出発することはなかったであろう。
このように、神を愛するというのは単に感傷的に、人間的な好きといった感情を持つのでなく、命をかけてもその言葉に従うといった決断や勇気、忍耐を伴うのである。
こうした神への愛が最も直接的に人の心から溢れ出た言葉で記されているのが、旧約聖書の詩編である。日本や中国などの古い時代の詩集には男女の愛に関する詩が実に多く含まれている。それに対して、旧約聖書の詩集である詩編には、そうした内容のものが全くなく、それに代わって、神への愛が全編にたたえられている。
それをいくつか見てみよう。
まず、詩編の第一編からそれははっきりと知ることができる。
いかに幸いなことか…
主の教えを愛し(*)
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木
時が巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
(*)この箇所の直訳は、「彼の喜びは、主の律法の内にある」であるから、英語訳では、 his delight is in the law of the LORD, となる。「愛し」と訳された原語 ヘーフェツ(名詞)は、「喜ぶ」と訳されることが多い。新共同訳以外の日本語訳(新改訳、口語訳、文語訳、関根訳、松田訳などすべて「喜ぶ、悦び」と訳している。英語訳も大多数は、delight を採用している。)
ここでは、詩編全体の総括としてこの詩編第一編が置かれている。そこには、神の言葉への深い愛があり、喜びがある。そしてそれがある限り私たちの幸いは確実であることが確言されている。
神の言葉を愛する(喜ぶ)ことからこの詩編全体が生み出されている。そして神への愛とは、人間の愛のように感情的なものではない。私たちが神を愛せよ、といわれると何となくどうしたらよいのかと惑うような気持になることが多いのは、愛するということを人間を愛するような、ある人を好きになるといった感覚で連想するからである。
聖書において神を愛するとは、心を注ぎだすことである。自分のあらゆる心のはたらきをいわば全部動員して神に向けていくことである。それゆえに、すでに旧約聖書において、原文の表現は、英語訳には反映されているように、(with all your heart and with all your soul and with all your strength.)
すべての心をもって、すべての魂をもって、そしてすべての力をもって、 ということなのである。
それゆえに、単に好きであるといった感情でなく、それは人間の全存在を注ぎ出すことである。
それゆえに、この詩編第一編に記されている、「神への愛」は、すぐ後の 第二編のテーマである、この世の権力者たちがどのようにその力を誇示して、襲いかかるように見えても、その背後におられる神の正義の力、万能の力を信じることである。それは神への深い愛から出ている。
また、主イエスご自身が最期のときに叫んだ最も苦しみに満ちた叫びは、詩編にすでに見られる。それは詩編にその体験が記されている信仰を与えられている人間の最も苦しい時を、主イエスもそのまま経験されたということなのである。それは旧約聖書の詩編には、主イエスの最も深い魂の叫びに通じる深みをたたえているということである。そして主イエスは、自分と神は一つである。完全な愛によって結ばれていることを明言されている。
…私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。…私が力の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。(ヨハネ十四・10~11より)
このように、主イエスと父なる神は互いに内にいるという霊的関係であり、不可分の関係であると言われている。それは言い換えると、完全な愛によって結びつけられていたということである。
…私が父を愛し、父がお命じになったとおり行っていることを、世は知るべきである。(同一四・31)
こうした愛によって互いに内にあり、完全な結びつきによって一つとされていた。このような愛ゆえに、イエスは、その最期の苦しみのときにも、その愛する父なる神に向かって叫びをあげたのである。その叫びとは、憎しみや無関心といったものでなく、まさにその正反対の愛の叫びなのであった。神への無限の愛がこのような叫びをあげさせたのである。
わが神、わが神、なぜわたしを見捨てたのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わが神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。…
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
「主に頼んで救ってもらえ、主が愛しているなら助けてくれるはずだ。」…
母がわたしをみごもったときから
わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないでください。
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
このように、信じる神から見捨てられたと思われるほどに助けなく、悪意ある者に苦しめられ絶望的状態に陥っている。このような状況に落ち込んだ人は数知れないだろう。この世には昔から病気や戦争、事故、敵対する者からの攻撃等々、私たちを苦しめ希望を失わせてしまう状況が至るところである。
しかし、それでもなおこの詩の作者は、神に向かって心を注ぎだして訴え、叫び、祈り願った。ここに神への愛がある。聖書にいう、神への愛とは全身全霊をもって神に向かうことであるからだ。それは、通常の日本語の愛という言葉で連想されるような甘い内容ではない。生きるか死ぬか、絶望にうちひしがれて闇に沈んでいくかどうか、という命の瀬戸際にあってもなお、渾身の力を注いで神に心を注ぐ、それこそ、イエスが言われたように、「心のすべて、魂のすべて、そして精神のすべてをもって神を愛する」ことなのである。
神が最も愛されたのは、イエスであった。完全に一つとなっているほどに神はイエスを愛された。イエスが伝道の出発点において、聖霊を受けたとき、神は「これは私の愛する子、私の心にかなう者」と宣言された。(マタイ三・17)
さらに、自分が十字架で処刑されるときが近づいたとき、三人の弟子たちを連れて高い山に登り、そこで真っ白い輝く姿となり、神と同じ存在であることを示されることがあった。そのときにも、次のようにやはり神から特別な愛を注がれていることが示された。
…すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコ九・7)
このように、伝道の生涯の初めのときと、終わりに近づいたときにそれぞれ神が、特別に愛する子だと直接言われたほどであった。
私たちが普通に愛という言葉で思い浮かべるのは、大事にされるということで、小説やテレビ、歌などで毎日洪水のように、「愛」という言葉があふれているが、それらは厳しいものがなくて、それと逆のものを連想することが多い。
しかし、神がそれほどまでに愛されたイエスは、どのような歩みとなっただろうか。三十歳になるまでは神が愛したという特別なことはほとんど何も記されていない。わずかにルカ福音書に一カ所だけ十二歳の頃の記述として、「神と人とに愛された」というのが見られる。
イエスは三十歳のころから、生活のすべてを福音伝道に捧げられた。病気をいやしたのもその一環であった。神の愛を最も受けたその三十歳からの日々、それは苦難のはじまりでもあった。病気をいやし、ハンセン病の重い病人をいやし、目が見えなかったり耳が聞こえなかったりした人たちは昔はひどい差別を受けて、何等の生活の支援もなかったがそうした人たちに近づき、触れていやし、新たな霊を注がれた。
それにもかかわらず当時の宗教家たち、指導者的な人物たちからは妬みを受け、神を汚したという重い犯罪を犯したとしてイエスを捕らえ、ついには十字架で処刑してしまった。そのような苦しみに遭(あ)っている人を見れば、いったい誰がイエスを神から特別に愛されているなどと感じられたであろうか。
このように、最も完全な神の愛によって特別に愛されたイエスはまた、最も苦しい目に遇わされ絶望的な叫びをあげるほどであった。ここに神の愛というのがいかに私たちの連想するような甘いものとかけ離れているというのが分かる。
このような最も恐ろしい苦しみをも通らせるというのが神の特別な愛だという。人間の愛なら、自分の最愛の子供を十字架で釘付けにするなど、考えられないことである。このように、神からの愛ということは私たちの通常の愛というものに対する見方とは根本的に異なっているところがある。
こうした大きな隔たりは、私たちが神を愛するという場合にも生じる。
聖書に言われている、人間への命令としての、神を愛するということは、感情的な好きというような甘いものでなく、逆に激しい木枯らしの吹きすさぶ厳しい冬の寒さにもたとえられるようなものを持っている。
わが神、わが神、どうして私を捨てたもうたのか!
と絶望的な叫びをあげ、取り巻く悪しき人たちからの迫害に耐えて信じ抜いたときに、その苦しみと光の見えなかった深い闇とはまったくことなる世界へと導かれたことが、そのあとに続く詩の内容からうかがえる。あの激しい叫びをあげた作者と同一の人とは思えないほどに大きく変えられたのがわかる。
神は人間には不可能な変革を魂に成し遂げることができるお方なのである。
わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。…
主は貧しい人の苦しみを
決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく
助けを求める叫びを聞いてくださいます。
それゆえ、わたしは大いなる集会で
あなたに賛美をささげます。…
地の果てまで
すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。
命に溢れてこの地に住む者はことごとく
主にひれ伏し
塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう。
どんな苦しみのとき、望みのないようなときにもあきらめることなく神に心を注ぎだすこと、それこそが最も深い意味においての神を愛することであるが、そのような姿勢のあるところ、必ずときがきてこの詩にあるような魂の平安へと導かれるのがわかる。
そしてこの詩のように、神から救われた者は、自分だけにその喜びをとどめておくことなく、多くの人たちの集まりで証しをし、未来の世代へと語り告げたいとの切実な願いを持つようになる。それこそが隣人を愛するということでもある。
欠け多い者であっても、失敗ばかりする者、罪多い者であっても、そこから神に助けを求め、赦しをこいねがうことはできる。そしてその心こそ、神を愛することであるから、これは本来誰にでもできることなのである。正義の行動ができない、そこであきらめるのでなく、神を愛する方向へと心を向けていく、そのことが神を愛し続けることになる。
死が近いときにあっても、そこからすべての地上の望みは消えてしまうそのときに、私たちは神にすべてをゆだねること、その永遠の御国へと入れて下さいと祈ることができるだろう。最後の最後まで私たちは神を愛するようにと導かれていくのがわかる。そしてその導きに全身全霊をもってゆだねていくこと、それは可能であり、地上にある最後の魂のはたらきなのである。