聴覚障害者と音楽、宗教的教育
―あるろう教育者の歩みから 2008/12
音楽は、私たちの心をうるおし、また力づけ、あるいは新たなイメージをいろいろなものに付加する働きがある。映画、ドラマにおいて音楽が不可欠であるのは、映像の動きや人物、あるいは風景だけでは、見る者にとって単調で奥行きが浅くなることが多いが、それに適切な音楽が加わると同じ場面がはるかに奥深いものとなり、見るものの心に深く入ってくるようになる。
映画などそれ自体筋書きや人物の言葉や動作、背景などで十分変化があるけれども、専門の音楽家、作曲家がそこに独自な音楽を付けることで、その映画音楽だけでも長く愛されるほどに音楽は重要となっている。
また、メロディーやハーモニィ、リズムといった音楽の基本的内容は言葉を介さなくとも表される。それゆえ、言語の異なる世界の人々にも妨げなく伝えることができる。
聖書において最初に現れる音楽(讃美)の記述は、エジプトから解放された民が、その救いを喜び、感謝し、神の大いなる力に心動かされ、最も簡単な楽器であった小太鼓をたたき、全身で表現して(踊って)神に讃美を捧げるということであった。(出エジプト記十五・20)
そしてそれがキリスト教音楽の根底に流れていくようになった。それは単に一時の気分転換とか楽しみといったものではなく、魂の奥深いところからあふれ出たものなのである。
聴覚障害者は、こうした音楽の広く深い内容を、聞こえないゆえに理解することはできない。しかし、キリスト教的な音楽の原点は、神からの大いなる救いの恵みを喜び、感謝するということであり、それを太鼓や、シンバル、竪琴のような身近な楽器で演奏し、体をも使って躍って表現することである。それゆえに、神からのその救いの感動があれば、そしてそれを手や声で、またみぶりで表現することができればそれがすでにキリスト教音楽の本質的なものをあらわしていると言えるのであるし、そうした神への喜びや感謝の思いを身振り(手話的表現)であらわすことで、聴覚障害者にもキリスト教讃美(音楽)の本質的な部分を共有することができる。
そして手話のよりこまやかな表現によって音楽のメロディーやハーモニィの感じを少しでも表して伝えるという道が開かれている。音が分からないから、音楽の世界はろうあ者には、全く分からないということではない。
ろうあの子供たちは音楽のうるわしい世界やそれに通じる母親のやさしい語りかけ、小鳥の声、自然の風や谷川の流れの音などが分からないからどうしても精神的に落ち着かない傾向を生じがちである。だからこそ、手話によって、その指や手、体や表情によって音楽のやさしさや美しさを少しでも表現することの重要性がある。
それをはっきりと見抜いたのは、手話による教育の重要性を一貫して主張し実践し続け、他のすべてが口話法だけを使う教育へと転換をしていったなかで、唯一手話を使うろう学校として残った大阪市立ろう学校の高橋
潔校長であった。
高橋が大阪市立盲唖学校のろうあ部の教師として赴任したのは、彼の特別な育った環境も関係があった。
彼は、十二歳のときに、母と死別し、二十三歳のとき東北学院を卒業間際に父を失い、卒業後は母校の東北学院の英語教師をしていたが、 音楽のより高い教育を受けることを目指してフランスに行く願いがあったが、その希望は貧しさのゆえに打ち砕かれ、ちょうど求人の来ていた大阪の盲唖学校に赴任を希望して仙台から旅立った。
「この世に恵まれない子たちの教育にと志して …」、一九一四年、大阪の盲唖学校に赴任した。そして、ろうあ部の担任となった。
高橋は、一八九〇年、仙台伊達藩の藩士の家に生まれたが東北学院に進んだことによって、キリスト者となった。この学校は、キリスト教伝道者を育てるために一八八六年に「仙台神学校」として造られた。彼のキリスト教信仰が後々まで大きな意味を持ってくる。
今から百年近く前の明治の終わり頃に、はやくも英語を使いこなせるということは、たくさんの若者に英語を教え、日本の将来をになうような人物の育成に努めることができたであろう。大多数の者が、小学校程度の教育しか受けられなかった昔において、当時の英語教師は現代とは全く違って注目を浴びるような存在であった。
しかし、高橋はそのような教職をあえて辞して、郷里の仙台から離れ、遠い大阪の盲唖学校に赴任した。それは、弱き人たち、社会的に無視されている人たちのところに行くということであり、それは主イエスの精神にならったことであった。
そして、彼は、当時はひどい差別、いじめもあったそうした盲人やろうあ者の学校で教える教師たちは、何らかの宗教的精神をもった人たちだと予想していた。
しかし、彼が実際に大阪盲唖学校に赴任して驚いたのは、そうした予想とは全く異なる教師の実態があった。その時代は今から一〇〇年近く昔であり、盲人やろうあ者、知的障害者あるいは被差別部落出身の人たち、ハンセン病の人たちなどにさまざまの差別が広く行われていたのであり、現代では想像できないほどの状況であったことに思いをいたさねばならないであろう。
…主任の老先生が、ある先生に向かって「彼奴らは、犬猫同然だから、修身の話しなんかしてもだめだ。またそんなむずかしいことは聞かすこともできないが、たとえできても、それは猫に小判だ。それより早く職業を授けて親のすねかじりから離してやることだ」と。またある先生は、「ろうあ教育における訓育はこれに限るよ」といって、拳固を示されました。
私はあまりの恐ろしさにぞっとしました。こうしたろうあ教育という特殊教育では、先生方はみないずれも宗教的信念を抱き、まことに心からなる愛をもって子供たちの真の幸福のために働いておられるものと思っていたのに、これはまた何というあさましい言葉であったのでしょう。私はこの学校を去ろうとしましたが、思いなおして、このような先生たちに育てられる子たちの不憫さから、一生の仕事としてここにとどまることに決心いたしました。
手話がわかるようになり、ろうあ者の心の様子をはっきり読むことができるようになるにつれて、ろうあ者の中に入って手話も覚え、彼らと生活を共にしてわかってきたことは、ろうあ者の感情がうるおいのない温かみのない本当にすさみきったものでした。
同情心に乏しく、また利己的で、博愛の精神に乏しく、権利を知っても義務を知らず、また親兄弟、社会人に対しては感謝の念もないという状態でした。…
このように悲しむべき事実を知ったとき、…どうしてもそこに宗教の救いより外にないと思ったのであります。ろうあ者の重苦しい暗い生活は、神の光を浴することによってのみ、うらみを喜びとし、感謝とすることができるのであり、そこに初めて明るく生きさせることができるのであると悟りかつ信じて、ここに初めて私はろうあ教育においては、とくに修身教育に重きをおくと同時に、さらにすすんで宗教教育までほどこさねばならないものであることに思い至ったのであります。…
このようにして、高橋はろうあ教育の闇に直接に接して、そこでみずからキリスト者として神の光を受けてきたゆえにその光に何とかして触れさせたいという切実な願いが生じて、そのために生涯を費やすことになったのである。
彼はまた、こうした荒れた当時のろうあ者の心を静め、清め、そしてあたたかい心に導くために、手話の重要性を深く知っていた。
…いったい、なにゆえにろうあ者の感情はすさんでいるか、うるおいのないものであるかについて考えてみました。
赤ちゃんは生まれおちてお母さんのそばに寝かされているときから、泣けば泣いたであやしてくださいますし、またおむつを替えてもらうときにも母親からの「おお、よしよし、いまに気持よくしてあげますよ…」といった愛情のこもった話しかけを受けて育っていく。しかし、ろうあ者においてはその母親の愛のこもった言葉、それは音楽に通じるが、それがないのである。
しかし、ろうあ者においては、愛のこもった語りかけや子守歌もない。聞くすべもなかった。三つ子の魂百までも、と言われるように、最も尊い感情の養われてゆくべき、幼児時代のろうあ者は、このようにして、その栄養素ともいうべき音楽(人の言葉も歌も広い意味において)なしに育てられてきたのでした。そうしてその代わりに見せられてきたものは涙に曇りがちの曇った暗い母の顔でした。…
その行為が荒っぽいということも、音の聞こえないということからきて、自然に動作が我々から見れば荒く見えるのであります。ろうあ者の子供同士がけんかをすると、なかなか烈しく、ある時は恐ろしいようでありますが、これも相手の悲鳴を聞かないためであります。ふつう、児童はけんかをしても相手が泣きだすと、一つにその泣き声を聞いてその声に同情を持つ。それは自分が痛かったり悲しかったりして泣いたときの声から無意識的に想像して、しかも大声で泣かれた場合には、どうなることかと心配にもなり、たたくのを止めたりするのですが、ろうあ者は自分の泣き声すら聞いたことがないのですから、相手の泣き声からくる一種の同情というようなものも生じないで、それで相手が泣こうが一向におかまいなしにいじめております。
人の笑う声を聞けば自分も何だか笑いが誘われ、人の泣く声を聞けば自分も何とはなしに悲しいような気持になることも、みな、音のとりもつデリケートな働きですが、ろうあ者にはそれがなかったのです。そのため、一見同情心がないとか残忍性があるとか言われたりするのであります。また事実あたたかい同情の涙は湧き出てこなかったのであります。…
私が中学を卒業するとき、試験勉強もすんで床の中に入りましたが、何だか目がさえて眠れませんでした。父の病室であるとなりの部屋から父と兄の話し声が聞こえてきました。父は、「潔もまあお前のおかげで中学も卒業するが、どうしたらよかろうな。」と兄に尋ねました。
兄は「妹も女学校に通っているし、それに母や弟(私の兄)が長い病気の後に死んだりして、残るは借金ばかり。潔も今年は中学を卒業するからどこかに勤めて少しでも家の手伝いもしてもらいたいと思う」と答えているのでした。
すると、父は「家の貧乏はよくわかっているが、男兄弟としてお前と二人だけ、もう一つ上の学校へやっておけばお前も力強かろう。中学の校長先生も自分の学校の教員になってほしいとおっしゃって下さっているから、もう三、四年、上級学校へやってくれ。わしはもう長くはない命と思うが、頼むぞ」という涙声が聞こえてきました。
兄もしばらく黙っていましたが、「ようございます。そうしましょう。」とこれも涙声でした。私は床のなかで手を合わせて、すまない、すまないの心で胸は張り裂けるばかり、とうとう大声をあげて泣きだしました。
ふつうの子供は、親たちが子供のそばで、またとなりの部屋ででもその子の将来のことなどについて心配してくれていることなどを耳にするとき、どれほど嬉しくありがたいと思うことでしょう。そうしたことを耳にするとき、はっきりと親に対する感謝の念が湧き出るものです。
ところが、ろうあ者の言葉の世界は、目の前で見えていることの範囲に限られています。目の前の話しでなければ見ることさえできないのです。ふつうの子供より、ろう唖の子供たちは一度だってそのようなことを聞いたことも機会もなかったのです。
ろうあ者をとりまく状況がこのようでありますから、そこには宗教的情操というようなものは全く芽を出すことはできませんでした。
キリスト教の会堂で聞こえてくる讃美歌のメロディー、実になんともいい得ぬものがあります。宗教音楽は宗教的気分を刺激させる最も力強いものであります。
けれども、ここでもろうあ者はかの荘厳な宗教音楽を聞くことができないのであります。…
このようにして、当時のろうあ者の感情において、宗教的情操において、まことに哀れなものであることを知り得た私には、どうしてもまず感情の陶冶からはじめて道徳的観念の養成、さらに宗教的情操の涵養、すすんでは宗教的信念ができるようになるところまでいかねばならないと思ったのであります。
…従来の手話は、私の意図した感情の陶冶から始めるためにはあまりにもごつごつした非音楽的なものでありました。けれどもそれは無理もないことであります。だいたい手話そのものは、ろうあ者によって生まれかつ発達してきたものでありますから、すなわち音楽というものを聞いたことのない人の間に育ってきたものであるために、非常に非音楽的であったわけです。
それで今度は手話の芸術化ということについて努めました。すなわち手話を手の位置、手の順序、手の勢いの三つをリズム的に動かすことを試みました。自分でもこれならば、手話もきれいだし、小説も教えることができると確信して、いよいよ日本のろう学校において初めて人情ものの小説を教えることにしました。結果は、非常にろう唖の生徒たちに受けがよく、また談話会などのときそうした手話での話は美しいものとなって、話している私の手や姿の動くがままにみている生徒の姿もゆらりゆらりと動くようにさえなりました。
そこでこの手話をもってすれば、ろうあ者の感情の方面から和らげていくことができるという確信を得たのであります。…
このようにして高橋は、手話に力を入れてろう唖の児童、生徒たちの教育にあたった。その動機は何とかしてろう唖の子供たちに聞こえる世界の美しさ、うるおいのある世界を開いてやりたいというキリストにある愛からの動機なのであった。
現在日本中で使われている指文字は、どのようないきさつから生まれたのか、現在では手話、指文字ができる人はたくさんの数にのぼるが、そうしたいきさつを知っている人は極めて少ない。最近のインターネットを用いると過去、現在の歴史や科学、文学、芸術、政治、社会、地理等々、何でも調べることができるが、そのインターネットを用いてもこうした歴史についての詳しい記述はほとんどない。それは手話、指文字の主体であるろうあ者自身が日本語の文章を書くのが相当に困難であることから来ているのと、ろうあ者自体の数が全体からすると非常に少ないからそれを支える人も少ない、実際にろうあ者とかかわる人もごく少ないという状況のためであろう。ろうあ者にとっては、日本語それ自体が一種の外国語なのであるからだ。
現在日本中で広く使われている指文字は、一九三一年に、高橋潔が校長を勤めていた大阪市立ろう学校において考案された。高橋校長のとき、部下であった大曽根源助教頭は、ろう教育の実態を調べるためにアメリカに渡り、そこでアメリカの指文字を持ち帰った。それをもとにして、一九三一年に大阪市立ろう学校において考案されたのが現在日本中で使われている指文字となっている。
大曽根は高橋校長の母校、東北学院からとくに招いた人物であった。
魂をうるおす言葉や音楽を聞くことのできないろう唖の子供たちに、それに少しでも補う道はないのか、と子供たちの心の深いところでの交わりを持ちつつ与えられた結論は、手話を心を込めてしかも美しい表現を用いて表すということであった。これは一般の健聴者の世界での演劇や歌と同様である。その人物になりきって演じられるのと、セリフだけを覚えて動作をしているのでは見てすぐに判断できるほど訴えるものが異なる。歌もその歌の持つ世界を自分のものとして全身をもって歌うことに注ぎだしているのと、楽譜や歌詞を見ながらそうした心もなく表面的に歌うのとは、聞く方にも大きな違いを感じるものである。
ろうあ者、聴覚障害者は音が分からないから音楽も分からない、と簡単に結論をしてしまうことによって、健聴者の音楽の世界は全くろうあ者には遮断されてしまう。どんなことでも、できない、と諦めてしまうことからは何もよいことは生じない。
例えば、万人の魂に深く刻まれた罪を清める方法などない、イエスが十字架で処刑されても人類の罪からの救いなどない、また死に打ち勝つ復活などない、といって諦めてしまうことによっては、神の国の永遠の力は決して働かない。神を信じるものには不可能はないのである。
こうしたキリスト者に与えられている希望が高橋に働いて、不可能と見える音楽の世界の伝達のために、手話を魂を込めて表現し、そこにその指や腕、からだや表情などの動きによって音楽の世界が持っている情感、美しさを少しでも橋渡しをしようとしたのであった。
そして、それによって荒々しい心、音楽のない殺伐とした心の世界を豊かにし、神の国のことを知るようになること、宗教的なもののとらえ方、感じ方へと導くことを目的としていた。高橋は次のように言っている。これは、一九二三年のろう学校の子供たちの保護者向けに書かれたものである。
…いったい人間のやさしい感情というものは、どうしてつくられるのでしょうか。私は、これを音楽によってとお答えするのが一番当たっていると存じます。うるわしい優しい感情は音楽を聞くことによって作られ、そしてまた、そのつくられた、うるわしい感情の表れも音楽であると思います。
喜びの感情が無言の踊りとなった時でも、その踊りは音楽的に行われているに相違ありません。要するに、うるわしい感情と音楽とは切っても切れぬ関係があるということなのです。しかし、ここで私のいう音楽というのは、楽隊とか唱歌とかいう、いわゆる狭い意味の言葉ではありません。お互いのお話しも一種の音楽と考えております。…
生まれるときから耳の聞こえなかった子供たちは、どんなに眠いときでも、ただ背中を、とんとんとたたかれるだけで、お母さんがせっかく歌ってくださる子守歌さえ聞くことができなかったのです。三歳、四歳になってものを言うようになると、おじいさん、おばあさんに床のなかで抱かれながら桃太郎や浦島さんのお話しを聞かせてもらえます。こうしたときの昔話などはまったく子守歌と同じ一種の音楽として子供の耳に響くのです。
そしてその子守歌やおとぎばなしなどは、どれほど子供の心を和らげるかしれません。
さらに五歳、六歳になると、学校にいく外の児童の歌う歌を聞いて、たくさんの歌を覚えます。一人になって淋しくなると、自分の知っている歌を歌いだします。嬉しいときはうれしい歌で、こおどりしながらうたい出します。子供と歌とは離すことのできないものであります。歌は子供の心を知らずしらずの内に柔らかく、そうして美しくしていくものであります。
そのうえにさまざまの智恵を与えてくれます。動物ですらも、常に音楽を聞かせると、おとなしくなるとさえ言われているではありませんか。そのような歌を皆さま方のお子さまたちは聞くこともうたうこともできなかったのです。
それでは、その歌や話に代わるべき何ものかがあったでしょうか。せめては、やわらかい手まねで、やさしい身振りでもしてあげられたでしょうか。きれいな手まね、やさしい手まね、美しい手まね、それらは耳の聞こえない子供たちにとって、どのようにうるわしく見えることでしょう。
…一般にろうあ者が荒っぽいというのも、心がかさかさして落ち着きが悪いというのも、決して無理ではございません。決して責めることもできません。
ろうあ児童が(手話によって)お話しをいかに好むかは普通児童よりも強いのでございます。これはつまり、そうしたおとぎ話などほとんど聞いたことがないためではないでしょうか。
年齢のすすんだ生徒でもそうです。私が以前に生徒たちに話しました、ジャンヌ・ダルクのお話は三時間半、身動き一つせず見ていましたことなども、いかにこの種の物語が彼らに喜ばれるかが、お分かりいただけると思います。いつぞや、大阪毎日新聞に音楽家青木氏の「音声が与える恐ろしい感化」と題するお話が載っていました。
その要点は、「声は単に音声ばかりでなく、心の動きの表れである。したがって人の性質はきわめて微妙に声に表れてくる。そのため、父母の音声によって無意識にその幼児にさまざまな感化を与えることが非常に多い。
人の音声には温和なもの、覇気あるものそのほかさまざまな種類がある。
その音声の中に、その音声を発する人の性格によって、上品、下品の別がある。そこにはどうしても性格が表れてくる。
また、音声は言葉以外に心から心に通じるある力を伴うことが多い。よく母親が家庭や夫に対する不平をひとり言のように幼児をあやしながらも洩らす人があるが、それはもしその言葉が幼児に理解されなくとも、恐ろしい感化を子供に与えるもので、つねに愛に満ちているべき母親の声が、曇ることは、幼児に恐ろしい予感を与えるものである。」
音そのものが子供の心に、いかに響き、いかに感情がつくられるかは、よくよく考えねばならないことでございます。子供に音楽、実に密接な関係がございます。
しかし、その音楽は、あのろう唖の子供たちには聞くことができません。せめてそれに代わる音楽的手まね(手話)(*)、つまり、やさしい、やわらかい、きれいな感じのよい手まねを使っていただきたいのです。皆さまは早くそういう手真似をお覚えになって下さい。そして、ときどきお家でおもしろいお話をしてあげて下さい。どんなにお子さんたちはお喜びになるでしょう。お子たちには、きれいな着物を買っていただくよりも、やさしい手まねでおもしろい話しをしていただくほうがどれほど嬉しいことでしょう。
それが耳の聞こえない子供たちにとって音楽に代わるただ一つのものでございます。そして荒んでいる子たちの感情を陶冶していくただ一つのものであると信じます。
(*)以前、ろう唖の児童たちには、手話という言葉でなく、「手まね」という用語が使われることが多かった。「手話」という言葉は日本語がわずかしか習得されていないろう唖児童には発音や読取もしにくく、難しい表現であったということと、手話というのを認めない立場からは、そうした名称もきちんと使おうとはされなかったからである。
このように、心をうるおし、豊かにしていく言葉や音楽というものが与えられていないろう唖の子供たちに対して、そんなことは仕方がない、といって諦め、音楽は健聴者のものなのだ、といって健聴者の世界にゆたかに与えられている音楽の世界をろう唖の子供たちに橋渡しすることを高橋は決してあきらめなかったのである。どんな音楽にもまさる神からの愛をもって対するときには、相手の子供たちがたとえ音楽といううるわしい世界が閉じられていてもそれにまさるものを与えることができるし、また相手もそれを受け取ることができることを彼は確信していた。
そのことは、いかに耳が聞こえても、また音楽も自由自在に取捨選択して聞くことができても、じつにたくさんの子供たちの心は荒んでいき、中学、高校と学校教育をたくさん受けても心は堅く、またひずんでいくのを私たちは知っている。
高橋が持っていたのは、神から彼自身が受けた愛の
心であって、それが聴覚の有無や年齢、性格の多様性を越えて伝わっていったのである。
まさに、それは神が使徒を通して言われたことである。
…これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。(コロサイ書三・14)
高橋は、こうした愛をもってろう唖の児童、生徒たちに音楽のよき世界、すなわち、神の国にある豊かさを伝えようとしたと言えよう。そのような神の後押しがあったからこそ、全国のろう学校がすべて手話を否定し、さらに禁止して、ろう教育の最大のガンであるとし、口話法(*)だけがろう教育の手段であるかのように言い出すことになったなかで、ただ一つの手話を使うろう唖学校として戦前から生き続けてきたのであった。
手話だけで教育するというのでなく、口話法に適した者にはその方法で教育をするし、それが困難と思われる場合には併用するということなのであった。 アメリカのろうあ者の大学として有名なギャローデット大学では、手話を十分に用いてろうあ者を教育するやり方によって大きな成果をあげていることは広く知られている。
(*)ろうあ者の教育には、手話法と、口話法の二つが戦前からあった。口話法とは、音声を補聴器を用いて少しでも聞き取る訓練をしつつ、発声の訓練を幼児のときから行い、声で言葉が出せるようにし、相手の口の動きを見て言葉を読取る、という方法を用いて教育することである。この教育方法を最も効果的、さらには唯一であるとする考え方は、手話をろう教育の場から排斥することになった。それが決定的となったのは、一九三三年に文部大臣が、「…日本人である限りわが国語をできるだけ完全に語り、他人の言語を理解し、言語によって国民生活を営ましむることが必要であります。…」といった方針による。
日本にいるので、周囲が日本語を話している以上、ろうあ者も日本語が読み書き、話し、聞き取ることができるようになるのが重要であることは言うまでもない。しかし、耳の聞こえない子供に、日本語を習得させることは、例えば、全く音声を出さないで、口をぱくぱくさせるだけで英語やドイツ語などを習得させるなどということと同様、いやそれよりはるかに困難なことなのである。なぜかというと、日本人が英語を学ぶときには、ベースとなる言語を日本語として持っているから英語もたえずそれと比較しながら、つまり日本語に置き換えつつ訳しつつ学べる。しかし、ろうあ者にはベースとなる言語そのものがないのであって、まったく言語観念のない空白のなかに口をぱくぱくさせるだけで、一つの言語を習得せねばならないのであるから、その困難は健聴者には到底想像もできない。日本語が全く外国語そのもの、否、それ以上の困難なものなのである。
こうしたことは、私自身ろう学校に勤務して初めて分かったことであり、言語が聞こえなかったら人間は、人間の形をした動物になってしまうということほどの重大なことなのである。言葉が分からなかったら、考えるということが不可能になる。なぜかというと、「明日は雨が降る」といった単純なことを考えるには、明日とか雨、降るといった日本語を知っていなければならない。例えば、大学で習い始めたばかりのドイツ語やフランス語で考えたり誰もしないことからこのことは少しは類推できるであろう。それゆえに、言葉が聞こえず、言葉が習得されないなら、全く考えるという人間の本質的なことができなくなり、人間のかたちをした動物になってしまうのである。
言葉の習得はこのように極めて重要なのであるが、それを習得させるために、手話を用いない場合には、相当に困難になる。例えば、柿、下記、夏期、先、滝、秋、餓鬼、足、味、恥、匙、家事、火事等々、聞こえない人にとっては、みな口形が同じであって、それを一つだけ言ったところで、それが右記のどの言葉なのかは判定が不可能なのである。
であるから、口話法だけで学ぶようにと仕向けられたろうあ者は、たえず緊張してその言葉の前後を読み取ろうとしなければならない。それは知的な類推であるから、知的なレベルの高い人にはなんとかできても、それほどでない者、また読取の訓練が十分でないものには、しばしばまるで読み取れないことになる。それゆえに口話法だけの教育では、たくさんのろうあ者が見捨てられていくのを私自身、まざまざと見てきたのである。そのために、私もろう学校に赴任してそのように多量の児童、生徒たち、とくに中学、高等部になって教科内容が複雑になっていくにつれ、教師の教える言葉がまるで分からず、わかったふりをしている生徒が実に多いのを知って驚いたのであり、そこからなんとしてもみんなが分かるような方法をと、手話の導入を考えたのであった。
しかし、手話だけでは決して効果的な教育はできない。ろう教育においては、手話と口話法は、併用しなければならないものである。手話だけでは、日本語が十分に習得できないのは明白であった。読み書きが正しくできない状態では、学校を卒業してたちまち周囲の人たちとのコミュニケーションが取れないし、生活に多大の不便が生じ、いろいろと困ることになるし、職業にもつけない状態となる。ろうあ者の手話では日本語の文章とは相当異なる表現、語順となっているからである。
また、周囲の健聴者は手話ができない人が圧倒的に多いのだからすこしでも、声を使って話せるようになるのがよいことは明らかなことである。
高橋は、手話を用いる目的が単なる知識を教えること以上に、心の世界をあたたかくし、豊かにするということがあった。母親や友人などのやさしい愛のこもった言葉や音楽、小鳥や小川のせせらぎをまったく知らないゆえに心が荒っぽい状態となり、人の悲しみや苦しみの声もないゆえにおのずから自分中心となって精神的に狭い世界に閉じ込められてしまう。それを何とかして広げ、豊かに耕すということであった。
そのために、音楽に代わる教育的方法の重要性を説いた。それをなすために不可欠なのが手話を効果的に用いることであった。そしてさらに目に見えない世界のこと、人間を超えた存在に魂の目が開かれるようにというのが究極的な目標なのであった。
そのために、可能な手段は取り入れた。映画のように視覚的なものはろうあ者にとっても言葉が不十分にしかわからずとも、画面の動作でかなりの部分が理解されるから、映画も重要視した。
… 有名な宗教劇とか、母性愛の映画には、ほとんど見逃さないで子供たちをつれて参ります。その前に子供たちにはちょっと分からないであろうと思われるような内容については説明してから見に行きます。…この一、二年間にも、レ・ミゼラブル、クォ・ヴァディス、ジャンヌ・ダルク、キング・オブ・キングズ、アンクル・トムス・ケビン、十戒…をはじめなかなか多くあります。…(「手話は心」362頁)
このように、宗教的なよい映画というのは現在も同様であるが、大抵がキリスト教関係のものであるのが分かる。
私自身も日本語が外国語と同様である、ろうの児童生徒たちには、画像を見せつつ教育することが効果的であることがすぐに判明したので、それまでの高校教員時代には、教材などとしてはかつて用いたことのないマンガ、写真なども多く用いるようになった。例えば、歴史漫画、人物伝記マンガ、理科関係の学習マンガや何らかの絵を含む教材、さらに、聖書関係のマンガなどを多く買い求めて、理科室に置いてろうの子供たちが自由に読めるように貸し出し文庫とし、理科の授業の折々にもそうした内容を説明して関心ができるようにしていた。
そして、いつも理科の授業には何らかの実験、観察、あるいは戸外につれて行って植物や昆虫などの観察など、目で見えるものを用いることを重要視したことであった。
また、高橋は彼の究極的な教育の目標が、真実な目に見えない存在に心を結びつけることであったから、次のような方針で教育にあたった。
…私は、修身、国語、歴史、理科はもちろんとしてその他すべての教科の中に宗教的教材を見出し、そこに宗教的情操を喚起し、かつ涵養せしめることが十分できると信じます。すなわち教員自身が宗教生活者であるかぎり、日々の教科に必ずや宗教的訓練の行うべき材料を見出すことができるでしょう。
校庭に散るプラタナスの落ち葉も私には尊い宗教教育の材料でした。私は子供に話したことでした。
すべての木の葉は同じであるが、春には芽の出るのを毎日待ちこがれ、葉の形のようやく整ったころは新緑、夏には涼しい木陰をつくり、秋には紅葉とわずか半年の間にさまざまの姿で人を喜ばせてきた木の葉も、冬となると散ってしまい、竹やほうきで集められ焼き捨てられてしまう。
同じ木の葉があるときは、愛され、あるときは忘れ去られ、あるときは誉められ、そしてついには全く顧みられなくなったが、それでも葉はそうしたことに関係なく、その樹のためによき働きをしてきました。来年の春の新芽を立派に残して枝を離れ、再びもとの土に帰るのです。
家や国、世界を一本の樹木とするとき、お互いは一枚の葉であらねばなりません、と。そこには実に意義ある人生を教えられ、自然の驚くべき意味を知らされます。かくて、そのことはただちには神とかに結びつけなくとも、神の摂理、宇宙の神秘を教えるには十分なものとなるのです。…(P.354)
このようにして高橋は、どのような教科を教える場合でも、つねに私たち人間の背後にある見えざる御手、御計画を指し示すようにとの考えをもって教育に携わったのであった。そしてそのようにしなければ、とくに音楽やうるわしい言葉による慰めを与えられないろう唖の子供たちには、心のうるおいのない世界からの解放はなされないとの経験的確信があった。
…音楽の世界から絶縁された淋しい人生を明るく生きてきた、そうしてまた生きていくであろうところの彼らろうあ者が淋しいこの世から再び明るい世界(天の国)へと旅立つとき、すべての子たちはつぎのようであって欲しい。
自分の身の障害をうらみ、悲しむ心は露ほどもなく、まず生きているということに感謝し、人生の終わりにおいて悲しみの中にもなお、感謝と希望の心に満たされて皆と別れ、よりよき世界へと旅立つように、これが私のろうあ教育における宗教教育の念願なのでございます。そうした大きな願いの止むに止まれない心から、あるいは省令にもとり、あるいは訓令にそむきつつ、宗教教育を行ってまいりました。宗教教育はかくあらねばならない、またかくあるべしと指示されてなされるべきものにあらずして、あの子たちの持つ魂を尊重して、それをはぐくみ、育てんとする、止むに止まれぬ心からのものなのでなければならぬと信ずるのであります。( 377~378頁)
このように、高橋は、日本中のろう学校が、口話法となり、手話を排斥していったなかで、ただ一つ手話を用いるろう学校として踏みとどまったが、それは単に自分の主義を守るという自分中心の考えからでなく、何とかしてろう唖の子供たちに深い心の世界を、伝えたいという止むにやまれぬ心からであった。それは文部省の命令にすら背いてまで宗教的な内容を取り入れたのである。そこにはそのようなことをすれば自分の地位があぶなくなるといったことを覚悟の上であり、世間の評価などを越えて、彼の内に強くうながすものがあったからである。
そしてそのような内なる力とは、まさに彼が信じたキリストから与えられたのであり、わが内に古い自分は死んで、キリストが生きていると使徒パウロがいったように、高橋の内なるキリストがそのようになさしめたのであった。
かつて二千年前、イエスが復活したと証言をはじめた弟子たちに、当時の大祭司など、権力者たちがそのようなことを止めよと命じたが、弟子たちはつぎのように答えた。
「人間に従うよりも、神に従わねばならない。」(使徒言行録五・20)
高橋が自分の一身上の地位の安定などより、内なる神の愛に従って文部省令などにすら反しても宗教的教育に力を注いだのはこうした心と通じるものがある。
私もかつて、ろう学校の教師として口話法のみがなされているろう教育のただなかに入り、そこでいかに口話法で多くの生徒たちが見捨てられているかを現実に見て、どうしても手話を取り入れて心の通う言葉で教育にあたる必要を痛切に感じたのであった。
口話法もろう教育において重要であって、それがあったからこそ、何とか発声できて、手話などまったく分からない一般の人たちとも会話がなんとかできるひとも多い。そして口形を読取り、日本語の文章を読み書きするということに口話法も大きな役割を果たしてきた。しかし、口話法は自由で楽しい、かつ自然な会話は決してできないのは明らかである。それは単語の少ない子供のときならまだしも、成人すると多様な会話を手話を使わないで自由にできるかどうかはただちに分かることである。
実際、徳島でろう教育に何十年と関わり、口話法で徹底して教育してきた、ろう教育の権威ともいうべき人と私は同僚として何年もともに教育にあたった。その人は聴覚障害者教育についての本も出版されたり、後には県の教育委員会で指導主事もされた、ろうの子供の教育に熱心な人であった。
私が赴任して数カ月後に、徳島ろう学校の小学部では初めて手話を取り入れていったときには、強い反対をされたのであったが、何年か後になって私に個人的に言われたことがある。「口話法しかやらなかったから、私は手話ができない。そして手話ができないと、大人になったかつての教え子とも話しができない。やはり手話はどうしても必要だ」と。
この先生は、最初は強い反対をしていたけれど、一年あまり経って、最初に私に手話を用いての教育に共感しはじめられたのが印象的であった。
私は、生徒たちが単に言葉を覚えるだけにとどまらず、それを越えて不自由な言葉の世界、音楽のうるわしい世界が閉ざされているろう唖の児童、生徒たちに、そうした聴覚障害が何の妨げにもならない、神との交わりの世界を知ってほしいというのが究極的な願いであった。
こうした点で高橋潔の歩んだあとは、私には深い共感を覚えるものがある。ろうあ者と音楽、信仰ということは、一般にはほとんど知られていないことであるゆえに、ここに詳しく彼の書いたものから引用して提供することにした。
そしてこの本はすでに以前から絶版であり、インターネットなどからでも入手できない状態となっている。もともと全日本ろうあ連盟から出版されたものであり、少数部数の発行であったと考えられるから、このような内容に触れる人はごく少ないので、ここに詳しく引用したのである。
聴覚障害ということと音楽の世界、そして目に見えない信仰の世界との関わりをこのように深く考え、生涯をとおして実践した高橋潔はまさに、このために神に選ばれた類まれな人物であったと言えるだろう。