九州から中国地方への集会と訪問 2008/12
十一月十四日(金)~十一月二十一日(金)まで、九州、中国地方のいくつかのキリストを中心とする集会において、み言葉を語る機会が与えられ、またほかにも個人的な訪問、とくに「祈の友」にかかわる方々を訪問してともに語り、祈りのときを与えられました。
九州にわたるまえに、愛媛県の冨永兄宅にてご夫妻と短いみ言葉のための時間を与えられました。
愛媛県から五十キロほど九州に向かって伸びている佐田岬半島を通って、大分県に渡り、夜は大分市の梅木ご夫妻宅にてのハリの治療室での集会。 なお、家は、全盲のご夫妻が中心となって運営されている、独立ケア・センターの建物でもあります。「ケアプランの作成とデイサービス」の二つを行っていて、デイサービスではハリ灸マッサージによる機能訓練と筋肉トレーニングを中心とした介護予防サービスを行っているとのことです。
翌日、大分市から、高原の町、竹田市を経て、阿蘇山の火口原にある道路を通り熊本に向かった。途中の竹田市を越えた山道では、折々に黄色い野生の菊である、シマカンギクや、ヤマシロギクが見られて、長い車の旅にいろどりを添えてくれた。阿蘇の広大な火口原を走るといつもそのスケールの大きさに驚かされます。東西に十六キロ、南北に二四キロもあるというのです。遠くに見える山々は外輪山であり、車の走っているところは火口が陥没したところ―火口原です。
世界は実に多様な火山もあるのに、これは世界最大の火口原、かつてこの広大な火口からの噴煙はいかに壮大なものであったかと、思いをめぐらしたことで、人間の現れる前から限りなく大いなるわざをこのような自然においてもなされたきたのを思います。また、竹田市と言えば、滝廉太郎が数年間すごしたので有名で、土井晩翆の作詩した「荒城の月」は仙台市の青葉城址などでイメージがつくられ、滝廉太郎は、竹田市の岡城によって曲想を練ったと言われています。
滝廉太郎は、以前にも「いのちの水」誌で書きましたが、二十一歳(死の二年前)のときにキリスト者となっています。「荒城の月」は彼がキリスト者となった同じ年に作曲されていますから、私も竹田市を通るとき、少し寄り道をして岡城址まで行き、彼の生涯のある部分に近づけた思いでした。
熊本の集会では今回も、はり治療院をなさっている全盲の夫妻である河津さん宅での集会がなされました。そこには、ほかに全盲の方が三名も加わっており初参加の人もいました。健常者と視覚障害者の方々が主にあってひとつにされて主を礼拝し、み言葉を学ぶことが与えられることの幸いを思います。
熊本から福岡に向かう途中、「祈の友」で長年九州地区の世話人をされていた野口さん宅を訪問、ご夫妻との懇談、そして讃美と祈りをともにすることができました。
翌日の福岡での集会は、福岡聖書研究会と天神聖書集会との合同の集会。前月号に掲載した内容とほぼ共通する「希望の神」についてお話させていただきました。また久しぶりの方や無教会の集会とは別のキリスト集会に参加されているKさんやその娘さんご夫妻などの方々も参加し、また山口県から水渕
美恵子姉も体調が十分ではなかったなかを遠路参加されており、こうしたすべての参加者の方々のうえに、主がみ言葉と聖霊を注がれますようにと祈りました。
また、その折り、以前から紹介しています、集音器を実際に着用してよく聞こえるということがわかったということで、何人かの方から申込がありました。これは現在はもう購入できないものですが、私が数年前から実際に購入していろいろな方々に装着してもらってとくに老人の方々にはよく聞こえると好評のあるものです。 そのために、私はインターネットで探して購入しておいたので、希望者に頒布することができています。 日曜日の集会や礼拝での講話、説教がよく聞き取れない、あるいは、十人前後の祈祷会で小さな声で聞き取れないとか、また日常生活で、一対一での会話など聞き取りにくいという方々には、効果的ですので、今回も何人かの方々から申込があり、受け取った人からはよく聞こえるとの応答をいただいています。
福岡の集会の翌日は、「祈の友」の花田さん宅を訪ね、「祈の友」としての祈りと主にある交わりが与えられました。以前にはまったく関わりのなかった方々でしたが、「祈の友」ということで主による関わりが与えられて親しくお話できることは感謝でした。
そしてそこから高速道路にいく途中にある、「いのちの水」誌の読者の黒木さん宅を訪問し、初参加の方二人も加わっての小集会がなされ、キリスト教のことはまだほとんど知らない方もあり、み言葉について説明と交わりの機会となりました。黒木さんは、現在東京在住の内田さんからの紹介で関わりが与えられた方で、内田さんのご夫君が気象台勤務で九州に来ていたときの友人とのことでした。そのお宅では息子さんが聖書の講話を集会の責任者となって、主日礼拝にはなさっているということでしたが、平日なのでお会いできませんでした。
ほかにも訪ねたい「祈の友」の方々もあったのですが、体調が十分でなかったこと、また日程と車での走行のために距離とか時間の制限があるために、ほかには行くことができませんでした。
福岡から、今回は初めて島根県に入り、浜田市の「祈の友」の栗栖泰蔵・陽子ご夫妻を訪ねました。ちょうど日本海からの強い北風の吹きつのる日で、つぎつぎと真っ白い波が打ち寄せてきて、創造の神の力強さの一端に心ひかれ、しばらくの間その風と波、そして大海原を見つめていました。栗栖さんのお家は百年を越えるという古くからのお家で海岸すぐそばにあり、以前はその高い石垣の下まで海であったということです。
「祈の友」誌にてお名前だけを知って祈りに覚えていましたが、実際にお会いできる機会を与えられ、ご夫妻の信仰にかかわる歩みの一端を話して下さいました。そのとき、以前の「祈の友」主幹であった中山
貞雄さんの長女の賜子さんが近くにおられるとのことで、私も時間的な余裕があったら長く礼拝が持たれてきたその教会を訪ねたいと思っていたのでご夫妻に先導してもらって中山さん宅(教会)を三人で訪ね、ご父君のことをしのび、好まれた讃美歌を三曲、賜子さんのピアノ演奏でみなで讃美することができました。
故中山兄は徳島にもきてくださって集会をもち、大学病院に入院中の勝浦兄のところでも祈りをともにすることができたことを感謝をもって思い起こしました。
次々と信仰の先輩、知人は召されていきますが、その方々の霊的なはたらきはあちこちに主が水のように流し続けていかれることと思われたことです。
中山宅から江津市のキリスト教愛真高校に向かい、山の中腹にある高校に着きましたが、ちょうど雪やみぞれが時折舞っている寒いときでした。ずっと以前、大阪の大川四郎さんの紹介で台湾の玉山神学院の学生たちが徳島にきてくださったことがあり、その人たちを大川さんたちとともに車に乗せて愛真高校まで行ったことがありましたが、そのとき以来のことです。
現在の渡邉 信雄校長は、十年ほどまえに、初めて大分県の別府に私が渡ったとき、夜の別府港に迎えにきてくださって、そこから近くの集会員の方のお家で集会がなされたことがあり、その夜はお家で宿泊をさせていただいたことがありました。
今回は、お忙しい時間をとって校内外を案内して下さり、そうした校舎や施設にこめられた祈りと信仰も合わせて説明を下さって、いっそう愛真高校という施設が主に導かれ、多くのかたがたの祈りと捧げ物(労力や献金その他)に支えられて建設され今日に至っていることをあらためて深く知らされたことです。
はじめの予定では愛真高校には数時間滞在して見学させていただき、そのあと出雲市まで出て宿泊、翌日鳥取に向かう予定でしたが、渡邉校長からのご厚意で宿泊を勧めて下さり、そして翌日の朝の生徒の会での短い話をと言われたので、よりいっそう生徒たちや学校のことを理解するためにもと、予定を変更したのです。その結果、さらに詳しく渡邉さんからいろいろと説明やいろいろの愛真高校にかかわるお話をうかがうことができ、生徒の実態にも触れる機会となり感謝でした。
翌朝は暗いうちから生徒たちの声が聞こえ、朝食を準備する担当の生徒たちは早朝五時半くらいから起きてつくるとのこと、昼の弁当もまた夕食も生徒たちが当番にしたがって作るのだとのこと、こうした作業もまた重要な勉強であることを実感したことです。
朝の集まりには、全校生徒、教員が集まってこの日は渡邉校長の担当の時間であったけれど、私がその時間をいただいて短いお話をさせていただきました。それは「神を愛すること」についてで、ほかのさまざまのことはみなだれでもに開かれてはいない、進学すること、学問やスポーツ、職業生活、結婚して家庭を持つなど、どんなに持とうとしてもかなえられないことはいくらでもある。しかし、神を愛することはいかなる人でも、また死を前にしたときでも、取り返しのつかないような罪を犯したものでもできるように道が開かれている。あの十字架上で処刑された重罪人のように、ただ、「主よ、私を思いだしてください!」との必死の願いだけでその日のうちにパラダイスに入れてもらえた。そのように、置かれた場にあって、神にむかって心をそそぎ出すことこそ神への愛であり、万人にひらかれている恵みの道である…。 生徒の方々にも今後どんなことがあっても神を愛するという最大の恵みへの道が開かれていることを心のどこかに覚えておいて欲しいと願って話しました。(それを少し詳しくして今月号に掲載してあります。)
なお、愛真高校には、私たちの徳島聖書キリスト集会の前の代表者であった、杣友(そまとも)豊市さんの書かれた毛筆の書が三つ用いられています。ひとつは、教育基本法の一部、もう一つは、全校生徒や教員のあつまる会場に置かれてあった聖句「われは道なり、真理なり、命なり」(ヨハネ十四・6)です。あとひとつは階段のところにありました。これらは、以前の校長であられた風間文子さんが写真に撮影して私に送って下さったことがありました。これも主が結んでくださったつながりのひとつだと言えます。
その後、鳥取市へと四時間半ほどの道のりを走り、時折日本海の白波の大きく見える心ひかれる光景を車窓から目にしつつ、海岸近くの国道を移動。途中で大山の雄大な姿の一部が見えましたが、雪雲におおわれてしまいました。四十年以上前に大山に登って、蒜山への縦走路に向かうとき、ナイフリッジというきわめて狭い、歩くのがやっとというようなところを転落や落石の危険が身近にあるのを恐れつつ、重い荷物を背負って降りたことなどが思いだされました。
神は海や山の大自然を通してたえず私たちを神へと引き寄せようとされているのを感じます。
途中で午後は鳥取市での集会。教会に属していた方がふとしたことから無教会を知り、今井館に問い合わせて岡山市の香西 民雄兄を紹介され、香西さんが私に連絡されてかかわりが与えられたのでした。鳥取には以前から近畿地区無教会キリスト教集会や全国集会などに参加された方もありましたが、行く機会がなく去年初めて広島の二カ所の訪問、集会を経て鳥取にまわって初めて、香西さんからの紹介された長谷川さんと、その友人たちとともに小さな集会を与えられたのでした。今年はまた初参加の方二人も合わせての集会となり、病気や問題を抱えた方々もあり、そのところに主の御手がのぞみ、あたらしい力が与えられますようにとの祈りをもって集会を終えました。
その日は夜は雪となり、鳥取泊、そして翌日は日が上るとともに雪も溶け、快晴となり、宿舎のすぐ前の鳥取砂丘を歩きましたが、前夜の雪のせいかほとんど人影もなく、広大な砂丘をそのすがたの不思議さと澄みきった青空、真っ白い雲を目にしつつ、遠くに見える白波を打ち寄せる海岸と日本海といった自然のただなかにて天よりの風を受けつつしばしを歩いてすごすことができたのは、大きな恵みでした。人のいない広々としてうねるように広がる砂丘を歩いていると神の御手のうちをそのまま歩いているような気持になったことです。
今回も集会関係以外のところを訪ねるとか歩くとかいうことは全くできなかったのですが、この砂丘を歩くことだけは、天然という聖書をゆっくりと読み、強い北風とともに神の国の風を心のうちにまで吹き入れていただく恵みを受けることができました。
鳥取から岡山に向かい、途中の中国山地の高速道路からは、澄みきった夕空に、金星と木星が左右に並び、目で見える光景としては最も清い、また神の国を思わせる輝きを見せてくれたのです。星の輝きは、決して飽きることなき霊的な音楽をも送ってくれます。
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はその手のわざを示す。
語らず言わずその響き聞こえざるに、その響きは全地にあまねく…」
と、詩編十九篇で言われているのを思いだしました。
香西さん宅では、久しぶりの再会を感謝し、去年紹介していただいた鳥取の長谷川さんとその集まりのことなどもお話し、夜のひとときを主にあるお交わりをいただきました。またそのおり、岡山大学のキルケゴールの研究をされている教授のところで学んでおられることを話して下さいました。老年になってもたえず学ぶことへの情熱をもっておられるのを感じました。
翌日は、岡山市地域やその周辺におられる「祈の友」の方々を訪問しようと電話や地図をあらかじめ調べてあったのですが、たまたま第一に宿舎から近いところに電話した方が、ちょうど最近行く機会がなかった長島愛生園を訪問する予定があるとのこと、私も訪問予定地のひとつであったことを告げると同行希望をされ、私もそのほうが途中の道のことや現地についてからの訪問のこともスムーズに進むので同行することになりました。その方は稲村さんでお話を聞いているうちに、前夜香西さんからうかがっていたキルケゴールの研究をされていて来年退職されて鳥取に帰られるという方の奥さんであることが分かり、意外なことでした。
長島愛生園は、岡山駅からおよそ四十キロほどあり、往復八十キロというのは、一般道路では混雑もあり、相当時間と体力を要するところでしたが、有料道路でなくなった自動車専用道路を案内していただいたおかげで時間短縮ができました。
「祈の友」の二人はともに全盲となって高齢でしたが、一人の方は長い年月をふりかえり主の導きを深く魂に刻まれているのが短いひとときのお話をうかがうだけでも伝わってきたのです。その折々に見せるさわやかな、そして幼な子のような笑顔の背後に長い年月どれほどの心の苦しみやたたかいがあったことかとそれを導かれた主の御手の不思議とその力を思いました。短い讃美と祈りをしていつかまた再会できることを願ってお別れし、もう一人の愛生園内の病院に入院されている方を訪ねました。病気の進行で話すことも十分ではなかったのですが、ひとときの交わりと祈りをともにすることができて感謝でした。こうした訪問によってはハンセン病の方々の抱えてきたごく一部のことしか分からないのですが、一度でも訪問することでハンセン病の方々の書かれた文なども見ても、またその歴史に触れてもより身近に感じられるようになり、ハンセン病になった方々の歩みのことが少しでもより具体的に感じられるようになることは恵みです。
なお、そのあと、長い歴史を持つ、長島愛生園内にある曙教会を訪れ、ちょうど在宅していた大嶋得雄牧師からハンセン病にかかわる問題について、とくに聖書の訳語に関する問題についてお話をうかがうことができました。そこでもキリスト教信仰によって支えられ希望を見出してきた多くのキリスト者のハンセン病の方々のあとをたどる機会となりました。
こうしたすべてを与えられて帰途につき、主が与えて下さった集会、出会い、また新たな導きを感謝し、かかわりの与えられた集会や参加者、訪問した方々とその周囲にある方々すべての上に御国を来らせたまえ、との祈りを深くしました。