リストボタン梅と水仙 2009/1

冬の寒さのただなかに咲く花として梅や水仙は有名である。ほかのほとんどは枯れたようになり、葉も落として眠ったようにも感じられるが、この二つはそれらの代りになって目覚めているかのようである。
神はこのように、つねにある一部のものを目覚めている存在として起こされる。
旧約聖書にある預言者たちはそうした目覚めた人たちであった。みんなが眠ってしまい何が正しいのか、何が神のご意志にかなったことなのかが分からなくなっている状況のただなかで、そうした周囲の眠りに流されず、一人目覚める人が起こされたのであった。
現在も、神はいろいろな国々においても、また地域やさまざまの職場においても、そうした人を起こされる。 聖書、この書物自体が魂の目覚めをうながす書なのである。

あめんどうの花が 咲きました
痛みの中でも 希望のしるし

戦はすべてを 打ち壊し
傷あとのこす 地の上に

あめんどうの花を 感謝しよう
主イエスの愛のしるしです
(「つかわしてください世界のさんび」三四番)

あめんどうの花とは、アーモンドの花のことで、聖書の舞台になったパレスチナ地方で、二月ころに咲く花である。野生のものは真っ白い花で日本の梅のように、寒さの中に咲く。私も以前二月下旬にイスラエルを訪れたとき、シナイ山のふもとにある修道院の庭にこのあめんどうの花が咲いていて、その純白が今も印象に残っている。
旧約聖書のエレミヤ書のはじめに、人々がまちがった方向に流されその罪のゆえに国が滅びようとするとき、神はそのご意志を実行しようと見はっているが、その神のお心を表すものとしてあめんどうの花が現れる。
そしてそれはそのまま預言者エレミヤの使命でもあった。当時の人たちがみんな神の正しい道に背いて眠った状態にあるなかで、一人目覚めているあり方を象徴するものとして記されている。
地上にさまざまの戦いや混乱、悪のはびこっている状況がある。しかし、毎年必ず冬の寒さのなかに咲くその花は、主イエスの愛をあらわすものとして受け取ることができる。
たしかに、いかなる状況にあれ、イエスの愛、神の愛は無限であり消えることはない。冬の厳しさ、どこにもよきものがないような中にこそ、それは咲き始める。この一年もあめんどうの花に象徴されるイエスの愛が、さまざまのところで咲く(現れる)のを信じることができるし、私たちも心を開いてその愛を受け取らせていただきたいと思う。


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